第2話:ラブコメ脇役、今日も静かに過ごす
周囲に音があるからといって、必ずしも眠りを妨げるわけじゃない。
むしろ、規則的で適度な音は、完全な静寂よりも眠気を誘う。少なくとも、僕にとってはね。
九月の、どこにでもあるような午後のことだった。窓の外の蝉時雨、校舎わきの道路を走る車のクラクション、天井にあるエアコンの送風音――そして、髪の薄い中年教師の低く単調な講義の声が、完璧な睡眠環境を作り上げていた。歴史の授業中、僕の瞼は恋人たちのように引き寄せられ、ついに完全に閉じてしまった。
もちろん、これは意識が曇っていく中の、僕の勝手な想像にすぎない。授業中に居眠りする自分への言い訳だ。科学的根拠は何もない。実際の理由は、昼に食べたご飯の量か、昨夜のゲームのやりすぎだろう。つまらなく、時間の無駄だ。
しかし、『リア充』とは無縁で、教科書の知識にも熱意を持てない僕のような者にとって、学校での長い九時間は、何をしても退屈と虚しさに塗りつぶされる。だから、思考をあちこちに飛ばすのも、まあ許されるだろう。
どうせ僕の学校生活に、真剣に考えさせるような人や関係はないのだから。
一人称の意識が三人称に変わりゆく中、僕は完全な眠りに落ちようとしていた。
「花壇くん、花壇くん〜〜〜」
かすかに残った外界への認識が、誰かが僕の名前を呼ぶ声を捉えた。でも、僕は答えようとは思わなかった。たとえ隣の席の美少女が甘いささやきをくれても、眠気がすべてを圧倒していた。
背後から、シャープペンで背中を強くつつかれるまで。
「いてっ!」
その声が喉まで上がりかけた瞬間、
「花壇くん!この問題に答えなさい!」
半禿げの中年教師の声は、この時ばかりは威圧的に響いた。
周囲の生徒の笑い声を背に、僕は夢から覚めたように反射的に立ち上がった。
「はい……」
「『はい』じゃない!問題に答えろ!」
十秒前まで夢うつつだった僕に、問題がわかるはずもない。しかし、ここで答えられなければ、叱責はもちろん、担任への報告も覚悟しなければならない。毎回この授業では居眠りしているから、先生の忍耐も限界だろう。
僕は無意識に周囲へ助けを求め、視線は自然と隣の席の者――クラス、いや学年一位の成績を持つ女子、風信子千樹(ふうしんし ちき)に向かった。
だが、彼女は僕の存在に気づいた様子もなく、嘲笑いの視線すらくれない。黒板の内容を淡々とノートに写し続けている。
「えっと……その……」
時間だけが過ぎ、三十秒ほどたったところで、教師の重いため息が教室に響いた。
「風信子さん、お願いします」
「はい」
彼女は素早くペンをおき、立ち上がる。
「1973年です」
「正解。では、花壇くん」
授業は真面目じゃないが、歴史の雑学には詳しい。現代世界史に精通する僕には、造作もないことだ。
「二人とも座りなさい……花壇くん、次から授業中に寝るのはやめなさい。たとえ歴史の成績が良くてもだ。まったく、俺の授業がそんなにつまらないのか」
ほっとしたように座り、自分の不真面目さが先生の自己肯定感を傷つけていないか、心の中で詫びた。
座っても、やはり授業には集中できない。眠気がすぐに再襲してきた。再び机に伏せないよう、シャープペンを回し、足を細かく震わせた。せめて体の一部を動かしておく。
右手で軽やかに回るペンを見つめる僕の視界の端に、風信子千樹の横顔が映った。
彼女は瞳を輝かせ、真剣に――そして、とても可愛らしく――黒板を見つめている。化粧は一切せず、ヘアスタイルもごく普通のポニーテールなのに、人の目を引きつけるのに十分だ。
北木鶯高等学校の匿名掲示板では、男子が毎年「校内可愛い女子ランキング」なるものを作成している。風信子は今年四位、去年は三位だった。四位は一見地味に聞こえるが、お嬢様ばかりが集う北木鶯で、これほど質素な身なりながら上位に食い込むのは、彼女の底力の証だ。化妆や髪型に気を遣えば、二位は堅く、一位も狙えるだろう。
学業優秀で、しかも可愛い……羨ましい限りだ。だが……
彼女の横顔に見とれているうちに、僕は誤ってペンを落としてしまった。それは風信子の机の足元、手を伸ばしても届かず、席を立たなければ拾えない位置に転がった。理想を言えば、彼女が拾って手渡してくれることだが——
そんなことが現実になるとは、もちろん思っていない。彼女は期待を裏切らず、僕を無視し続けた。僕は仕方なく席を立ち、腰をかがめてペンを拾い、元の位置に戻って先ほどの動作を繰り返した。
二度続けて無視され、少しも腹が立たないわけがない。だが、彼女には学業に集中する権利がある。僕のために授業を中断する義務はない。それに、隣が僕のような奴だ。不满を抱く資格もないのだ。
気がつくと、放課のチャイムが鳴り、教室は騒がしくなっていた。
「ねえ、和奏ちゃん、カラオケ行かない?今日ポテトの無料券あるんだ」
「え〜?でも今日なんか気分が乗らないや」
「だからこそ、僕の歌声で憂鬱ぶっ飛ばすよ!」
「でもさ、まだ日差しきついし、今日傘忘れちゃって」
「心配ないよ、俺の傘はワイドサイズだから二人で入れるさ!俺が日焼けしても、和奏ちゃんの肌に陽なんか当てない!どうだい?」
「わかったよ、じゃあ付き合うよ」
「やった!」
女子たちはクラスの人気者で、今年のランキング二位の高坂和奏(こうさか わかな)を中心に、カラオケへ向かう充実した放課後を計画している。
僕は彼女たちの会話を煩わしく感じた。高飛車な金髪お嬢様と、へつらう取り巻き……おあつらえ向きの組み合わせだ。僕は再び腕に顔をうずめ、校内が静かになるまで待ってから帰ることにした。高校に入学して以来、これが習慣になっている。
突然、女子たちの笑い声が止んだ。……早すぎないか?不審に思って顔を上げると——
彼女たちが引き上げるわけではなかった。ただ、クラスで最も人気のある男子で、僕が北木鶯で唯一の親友と呼べる存在――天琦陽介(あまき ようすけ)が、彼女たちのそばを通り過ぎただけだ。
さっき「考える価値のある人はいない」と言ったのは少し語弊があった。完全な孤独というわけではなく、友達はいる。ただ、陽介とは十年以上前からの付き合いだし、それに……彼はあまりにも眩しすぎる。天琦陽介の名は女子生徒なら知らぬ者はいない。男子の格好良さをランク付けするようなことは女子はしていないが、もしやれば、陽介が二位になることはあり得ない。常に一位だ。ルックス抜群に、家柄良し、スポーツ万能、明るい性格……学園漫画の主人公要素は全て揃っている。
そんな彼に、僕のような友達がいる。本人は気にしていないだろうが、思春期の男子として避けられない妬みを考えれば、なるべく彼のことは考えないようにしている。
彼が通りかかるだけで、女子の視線を集め、会話も作業も止んでしまう。
陽介は手を振りながら近づいてきたが、高坂に腕を掴まれた。
「ねえ、陽介、一緒にカラオケ行こうよ!」
高坂は遠慮なく陽介の腕を自分の胸に押し当て、クラスの男子全員を妬ませた。陽介によれば、高坂は子供の頃の遊び友達で、いわゆる幼なじみらしい。だから高坂は転校して数ヶ月で、こんなに馴れ馴れしくできるのだ。
「悪い、今日は用事があってどうしても無理なんだ」
「なによ、今度はどんな理由なのよ!」
「バドミントン部の新入生歓迎試合があるんだ。部長の俺が行かないわけにはいかないでしょ……」
「しょうがないわね……だったら早く行きなよ!いつまでも教室にいるの?」
「花壇くんに用事があるから」
「もう、いつもいつも私と遊ぶ時間ないくせに、あいつには時間あるんだ」
「そう言うなよ……花壇くんには大事な用事なんだ」
「ふん!菊絵、由仁子、行くわよ」
高坂は不機嫌そうに陽介の腕を放した。
はいはい、地味で煩わしい僕が、幼なじみのイケメン美女のラブコメを邪魔してしまって、まことに申し訳ございません。
内心でツッコミを入れ、僕は再びうつ伏せになった。どうせ僕のような端役が、頂点に立つ人気者に挑むのは身の程知らずだ。それに、心の中では高坂のような高圧的なお嬢様を大して相手にしていない。彼女の発言は無視すればいい。
背中をポンと叩かれた。
「そんなに眠いのか?毎日放課後、机に突っ伏して寝てるぞ」
「いや、そうじゃなくて……用事は?」
陽介は興奮したように顔を近づけた。
「この前発売になった協力プレイのゲーム、知ってるか?」
『ツインシャドウ・オデッセイ』のことか?」
「そうそれ!さすがゲームマスターだな。誰かがソフトをくれたんだ。今夜、俺の部屋で一緒にやらないか?久しぶりに一緒にゲームしようぜ」
「でもさっき、新入生歓迎試合に行くって……」
「あれは適当な口実だよ。挨拶だけしてさっと抜け出せるから」
彼は時計をチラリと見た。
「遅くとも七時までには終わるよ。部屋で待ってるから」
そう言い残し、彼は軽く僕の肩を叩いて教室を去った。
僕の一日は、こんな感じで終わる。
今日の出来事は、僕という人間の状況と生活をよく表している。
花壇大地(かだん だいち)。東京都文京区にある北木鶯高等学校、二年A組に所属する、ごく普通の男子高校生。
平凡な家庭に生まれ、学業もスポーツもパッとせず、これといった特技もない。ルックスも身長も平均的。ごく小規模な部活に所属するだけで、華やかな学校生活とは無縁。
俗に言う、学園漫画によく出てくる、顔すら描かれない背景の路人役。いつも美少女主人公たちに無視され、時に蔑まれる存在。
しかし、二人の母親が大学時代の同窓生だった縁で、天琦陽介とは幼い頃からの顔なじみだ。そう、主人公の友達であること——それが僕を完全な路人から一寸だけ際立たせる、たった一つの特徴なのだ。
主人公の友人と言えば、まあ名の知れた脇役と言えなくもない。だが、僕にはその資格すらないと思っている。
本来、しっかりした脇役なら、何か隠された特技や能力で、物語の危機に主人公を助けるものだ。あるいは道化師として、主人公の日常に彩りを添えるものだ。
しかし僕は、ゲームが得意というオタク特有のスキルと、リア充には永遠に必要とされないマニアックな知識を除けば、ほぼ無能に等しい。それに、陽介と四六時中一緒にいることもできない。学園の頂点に立つ彼には、青春を謳歌する成功者たちの専用の社交場が既にある。母親同士の繋がりがなければ、僕と彼のように極端に異なる人間が交わることなどなかっただろう。
だから、僕の正確な立ち位置は、たまに主人公とゲームをし、話し、学園のリア充生活を補完する、ただの路人なのだ。
小説家が名前をつけてくれるか、漫画家が顔を描いてくれる程度の。ただ、それだけ。
再び顔を上げると、教室に残っているのは僕と、今日の当番の男子生徒二人だけだった。
窓を開けると、正門へ続くメイン通路にも人影はまばらだ。校庭から聞こえる威勢のいい掛け声と、吹奏楽部の心地よい演奏を背に、僕はカバンをまとめて帰り支度を始めた。
「あの、花壇大地さんはいますか?」
自分の名前が呼ばれるのに気づき、顔を上げた。どうやら教室の外に誰かがいて、ゴミ捨てに出ていた当番の男子に聞いているようだ。
「紫……紫雲英(しうんえ)さん?! 花壇に用事?」
「ええ、ちょっとお願いがあって……」
「ま、まさか、まさか紫雲英さんが……」
「もう、さっきも言ったでしょ、すみれちゃんが花壇くんに大事な用事があるんだって!彼、いるの?いないの?」
赤髪のショートカットの女子がそう言い捨てると、ドアを押し開けて首を突っ出し、キョロキョロと周囲を見回した。彼女の視線が、顔を上げたばかりの僕とぶつかる。彼女は宝物を発見したように目を輝かせた。
「よかった!見つけた!花壇くん、まだいたんだ!すみれちゃん、早く早く!」
「ちょ、ちょっと……」
赤髪と、もう一人の金髪の女子が、「すみれちゃん」と呼ばれる人物を僕の席の方へ引っ張ってくる。
腰まである深い黒髪、整った顔立ち、スカートと黒のタイツを履いたこの少女が恥ずかしそうに僕の前に立っている。彼女が全校可愛い女子ランキング三位、二年F組の紫雲英菫(しうんえ すみれ)だとわかった。ネットのランキングや男子の噂で名前を知っているだけでなく、先ほども言ったように、陽介のようなトップリア充はグループを作る。紫雲英菫もその一員だ。
陽介の友人である僕は、バドミントンの試合や学校行事で彼女を見かけることが多い。もちろん、彼女が僕のような端役に気づいているかどうかは定かではない。
「あなたが、花壇大地くん?」
僕はうなずいた。
「すみれちゃんがあなたに話があるんだって。さあ、すみれちゃん」
赤髪と金髪の二人は紫雲英を僕に押し出すと、さっと教室の外へ走り去った。
「あの、花壇くん、私……」
待て待て待て。この時間帯、この話しぶりと雰囲気……まさか告白か?
ありえない!
まず、紫雲英菫はこれまで僕を知らなかった。陽介の関係で何度か顔を合わせたことはあっても、一言も話したことはない。さっきの赤髪の女子の言葉からすると、紫雲英菫は僕の名前すら知らなかっただろう。僕たちは完全な他人だ。
次に、仮に僕が世界一のイケメンで、一目ぼれさせる魅力があったとしても、紫雲英のような、恋愛経験豊富なトップリア充が、軽率に他人に告白するはずがない。それに、十万の自信を持って言える。僕の顔が女の子の注目を集めることは絶対にない。
だとすれば、何か目的があって友達になりたいのか?
例えば、いつどこで無意識に彼女を助けたことがあって、そのお礼を言いたいのか。あるいは、華やかなリア充の外見とは裏腹に、大のゲームオタクで、ゲーム仲間が欲しいのか。
最も可能性が高いのは、やはり陽介のためだろう。
彼女は陽介と同じグループの友達だ。当然のように陽介に恋をしているが、同じグループ内の強力なライバル・高坂和奏のために簡単に告白できない。そこで、陽介の「隠し友人」である僕を見つけ、陽介を落とす方法を探ろうとしている。
たぶん、そうだろう。
「花壇くん、私……あなたのことが好きです!どうか、ずっと一緒にいてください!」
女性を好きになる性癖を持つ思春期の男子として、黒髪ロングの美少女からのこんな言葉に無反応でいられるわけがない。僕の心臓は抑えきれずに鼓動を早めた。
もし、僕ほど腐った思考を持たない男子が紫雲英に告白されたら、心臓だけじゃなく、胃も蜂の巣のように千々に乱れ、汗は胃酸に変わり、緊張のあまり溶けて消えてしまうかもしれない。そして有頂天になって天まで跳び上がり、すぐに承諾し、一生をかけて彼女を大切にすると誓うだろう。
この表現は少しグロテスクで誇張気味だが、紫雲英菫に見初められ、しかも彼女から告白されることが、それほどまでに信じがたいことなのだ。
それでも僕は、腐りきっていない心の一部が「承諾してこの可愛い子を抱きしめろ」と叫ぶ欲望を必死に押し殺した。
「紫雲英さん、本気ですか?人違いじゃないですか?」
「え?彼、すみれちゃんのこと知ってるの?」
僕はできるだけ平静を装って聞いた。
「私の気持ちは本当です!お花壇さん、答えをください!」
「え?『お花壇』?」
「バカ!『花壇』でしょ!」
「ご、ごめん!花壇くん、答えをください!」
駆け寄ってきた赤髪の女子に腕をねじられて、彼女は告白という場で名前を間違えたことを恥ずかしそうにうつむいた。
「ごめんね花壇くん、すみれの子、緊張するとよく名前間違えちゃうの。気にしないで」
「…………」
空気は気まずい沈黙に包まれた。
僕は素早く周囲の状況を確認した。
緊張した口調で、顔を真っ赤にしている紫雲英菫。本人以上に焦り、挙動不審で期待に満ちた目をしている赤髪の女子。黒板の前で冷や汗をかき、信じられないという表情を浮かべている当番の男子。そして、教室の外にいるもう一人の金髪の女子は、片手でスマホをドアの中に向け、どうやらこの一幕を動画で記録しているようだ。
静かに息を吐くと、
「はい、わかりました」
「わかったって、極上の黒髪美少女が告白してるんだよ?あなたの答えは何なの?」
「茶子(ちゃこ)!何言ってるのよ!」
「だってさ、花壇くんの態度、失礼すぎない?なんでこんなに冷静なの?」
「わかりました。お受けします、紫雲英さん」
「な、なんだよ、それだけ?」
うつむいて黙る紫雲英と、明らかに不満気な「茶子」と呼ばれる赤髪の女子を見て、僕はできるだけ緊張したふりをして続けた。
「あの……僕も……紫雲英さんのこと、好きです!どうか、ずっと一緒にいてください!」
「なんでそんなに冷静なのよ……全校有数の美少女だよ?もしかして無感情なの?」
まだ不満なようで、僕は少しイライラした。だが、ここまで来たら仕方ない。
「すみません、僕、恋愛経験もないし、女の子に告白されたことも、好きになられたことも一度もないんです。紫雲英さんみたいな優秀な方に告白されて、頭が真っ白で………」
「紫雲英さん!僕の彼女になってください!!!」
僕はこの言葉をできるだけ大声で叫ぶのに、少し力を要した。
短い沈黙の後、返ってきたのは紫雲英からの承諾の感謝の言葉でも、周囲の新カップル誕生への祝福の声でもなかった。「茶子」と金髪の女子の、不自然な大笑いだった。
「はははは!な、なんだよ!童貞かよ、だから変なんだ!完全にパニックだな、ははは!」
「言ったでしょ、すみれちゃんの可愛さで知らない男子に話しかけるだけでも十分すぎる武器だって!ましてや告白なんて」
紫雲英はさらにうつむき、「茶子」は彼女の背中に顔を押し当てて笑いをこらえながら、彼女を僕にもっと近くに押しやった。
「さあさあ、ちゃんと謝りなよ!純情な童貞君の感情を弄んだ悪質美少女、紫雲英菫!」
「そ、そんなのひどすぎるよ、茶子……」
「なに!?まさか本気にするの?彼の彼女になる気?」
「ただ……花壇くんに、あまりにひどいと思うの」
まだ僕の名前を間違えている。
「あの、僕は……」
彼女たちはようやく僕に気づいた。
「ごめんね、花壇くん。実は罰ゲームなんだ。負けた人が、地味でモテなさそうな人を見つけて偽告白するってやつ。すみれちゃんがA組に適当な男子がいるって言うから……」
「茶子!地味だなんて失礼よ!」
「なんでよ、さっきすみれちゃんが……」
「あの!もしよかったら、僕はもう行っても?」
「………………」
「ありがとう、紫雲英さん。どんな事情であれ、これほどの心理的ハードルを乗り越えて、僕のような者にこんな恥ずかしい言葉をかけてくれて、辛苦だったでしょう。光栄です。では」
これ以上彼女たちの騒ぎに付き合うのはごめんだ。僕は既に用意していたカバンを背負い、素早く教室を後にした。
つまらないゲームに興じるリア充のグループは、端役を弄り、嘲笑うことに成功し、得意げに楽しみを分かち合う。彼女たちに密かな想いを寄せる者も、これがゲームだったと知って安堵する。嘲笑われた当人の僕は、先に彼女たちの手口を見抜いていたので、さして動じなかった。ただ、早くその場を離れたかった。
どうせ、頂点に立つ者は底辺の者から楽しみと優越感を得る権利がある。それが基本の論理だ。陽介のように他人を尊重する者はごく一部だ。この道理は、とっくに理解している。激しく抵抗すれば、さらに排斥され、いじめに遭うかもしれない。だったら、素直に受け入れた方がいい。
最初から芝居に付き合ったのは、何事もなく日常を過ごすためだ。なのに、彼女たちはつまらないことにこだわり、弄ばれた者の気持ちを慮るふりをして議論し始める。
本当に、もっとつまらない。もしリア充たちの日々がこんなものなら、僕の今の生き方の方がまだマシだ。
「もう、さっさと無視して帰ればよかった。結局、時間の無駄だった」
僕は独り言のように呟いた。つい他人の期待に沿おうとしてしまう。これは僕の悪い癖だ。なんであのリア充たちに合わせなきゃいけないんだ?どうせ僕のような者には、これ以上孤立する可能性だってない。マリアナ海溝の底にいる者に、これ以上地心に近づけと言うことはできないのだから。
一年生の校舎にやってきて、僕は五階の隅にある、誰も気に留めない小部屋へ向かった。ここが僕の所属する、北木鶯軍武知識研究部――通称「軍武部」で、僕はその部長だ。
名前からしてマイナーで地味な部活だとわかるだろう。実際その通りで、部員は部長である僕を入れても三人しかおらず、まともな活動などできるはずもない。
だが、マイナーであることにも利点はある。誰にも注目されないということは、誰にも邪魔されないということだ。実際、僕以外の二人の一年生部員は普段めったに来ず、ほとんどの時間を僕一人で過ごしている。
部活というより、学校の中の僕専用の安息の地と言った方が正しい。好きなことを自由に楽しみ、放課後の時間を満喫できる。東京の土地の価格を考えれば、この私有の小部屋は貴重なものだ。そう考えれば、落胆することも嬉しいことに変わる。
元は倉庫だったこの小さな部屋の前まで来て、僕は鍵を取り出した。しかし、ドアの鍵は既に開いていた。
おかしい。他の部員も鍵を持ってはいるが、慣例として、今日の放課後は彼らが来る日ではない。
不安を覚えながらドアを引くと、中を一瞥した。誰もいない。来た形跡もない。
「たぶん、昨日僕が閉め忘れたんだろう」
独り言で不安を払拭する。隅の棚へ歩み寄り、中にしまった漫画と軍事雑誌を取り出して読み返そうとした。
……待て。何か気になる音がした。僕は動作を止め、意識を聴覚に集中させた。
確かだ。周囲に、かすかな呼吸の音がある。僕以外に、この部屋には誰かがいる。
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