むしゃくしゃする社会人と清掃おじさん。

織 奏(しき そう)

プロローグ ~うちの会社はつるつるしている。~

 がしゃん、と落ちてきた、目的の炭酸ジュースを手に、俺は無性にむしゃくしゃしていた。


 その勢いのままにジュース缶を上下に猛烈に振りまわし、床に叩きつけようとして、流石に公共の場では迷惑だと、振りあげた右手をそっと下ろす。賢明な判断だ。


 賢明ならこのジュースは今頃俺の喉を通って渇きを癒してくれていたのでは、と冷静な俺が指摘してくるが、聞かなかったことにする。


 数秒ほど、甘い爆弾となり果てたジュースを手に立ち尽くしてから、後で対策を調べようと決める。


 そうして仕事に戻ろうと振り向いた通路の先で、俺は見知らぬおじさんと目が合った。


 ――見られていた。俺はコンマ数秒で判断し、しかし何を買ったかはわからない筈だと気を持ち直す。何食わぬ顔でスッ……と横を通り過ぎ、そそくさと曲がろうとした角で、思ったより急激に体が傾く。


 異様につるつるしている、と話題のこの会社の床は、それは見事に俺の靴を滑らせる。手にしたままだった甘い爆弾は、転ぶ勢いのままにトップスピードで床に叩きつけられ、その衝撃が俺の手に、じんと響いた。


 吹きあがる砂糖水の噴水、口を半開きにするおじさん。全てがスローモーション撮影のように見える時って、こんな感じなんだと感慨深い。


 床にうつ伏せ状態のまま、主に缶を持っていた右手を中心にべちょべちょになった俺は、永遠にも思える時を、すべりの良い床を眺めて過ごす。


 ひんやりとした白っぽい床は、綺麗に磨かれたばかりのようで、至近距離で見ても不快感が無い。


 無言で微動だにしない俺を見てか、先ほどのおじさんが近づいてきて、そっと言葉をかけてくる。


「あのう、掃除するんで、とりあえずこのままにしておいてもらって大丈夫ですよ」


 かけられた声に、俺は黙って頷いて、そして小さくお礼を言った。



 ――おじさん、清掃の人だったんだ。


 おじさん、床きれいにしてくれていてありがとう。


 そして仕事を増やして大変申し訳ございません。




 始業から1時間。勤務を続けてはや5年。歴代最速で、今日は早引きしようと心に決めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る