エピローグ 第三話
わたしは、母のいるリビングに引きこもり、生きていることすら辛いと感じるようになった。身体的な苦痛があるわけではない。ただ、「普通ではない自分」として、この世界に存在し続けていること、そして、この状況から一生抜け出せないだろうという絶望が、わたしを内部から深く蝕んでいた。
夏が終わり、秋が深まり、十一月になった頃。
わたしの思考は、完全に過去に囚われるようになっていた。
リビングの隅で、母の気配を感じながら座っていると、わたしの意識は、繰り返し、昔のことを遡る。
前の学校での、優子たちとの諍い。母のヒステリー。先生の怒鳴り声。キーホルダーを壊された夜の絶望。彩花を失った時の孤独。
昔も、わたしはいじめられていて、そんなに楽しかったわけではない。
あの頃も、わたしは辛かったはずだ。毎日が苦痛で、学校に行くのが嫌で、泣いていたはずだ。
それでも、今よりは辛くなかった。
少なくとも、あの頃のわたしには、「学校に行けば、普通の子に戻れるかもしれない」という、一縷の希望が残っていた。キーホルダーという「安全弁」があり、母のヒステリーという「明確な敵」がいた。わたしは、「普通」というレールのそばで、足掻くことができていた。
しかし、今のわたしは、「普通」というレールから、完全に外れてしまったという絶望の中にいる。特例校という「不登校児の烙印」を押された場所で、「普通ではないこと」を認められながら生きている。
だから、わたしは、辛い現実から逃げるように、現実に目を向けられなくなった。
母は、わたしがリビングにいる間、細心の注意を払って接してくれた。
「亜矢ちゃん、気分転換に、この本を読んでみない?あなたの好きなファンタジーよ」
「何か食べたいものはない?ママが作ってあげるね」
母が優しくしてくれても、わたしは、その優しさが、重くのしかかった。母の優しさは、わたしが「もう頑張らなくていい、特別な子」であることを認めているからこその優しさだった。その優しさを享受するたびに、わたしは、自分が「普通の子に戻る」という道を、さらに遠ざけている気がして、どんどん辛くなっていった。
現在、わたしは中学二年生の十一月。
あと一年と少し。
言葉にすれば、残りが短い中学生活だ。卒業すれば、「中学まで不登校だった子」という肩書きを持って、高校へ進学することになるのだろう。
しかし、わたしには、その一年と少しの時間が、途方もなく長く感じられた。
この特例校という「普通じゃない場所」に、あと一年以上、「普通ではない自分」として存在し続けなければならない。その事実が、わたしを窒息させた。
「あの学校にいるだけで、普通じゃないから」
わたしは、また、転校したいと思った。この特例校から、「普通」の学校へ。わたしを「不登校児」として扱わない、「普通の子」がいる学校へ。
わたしは、勇気を出して、母に話したりもした。
「ママ……わたし、やっぱり、普通の公立中学とかに、転校したいな」
しかし、母の返答は、現実を突きつけるものだった。
「亜矢ちゃん。今のあなたを受け入れてくれる学校は、残念だけど、大して今の学校と変わらないところだと思う」
母は、専門家から学んだ知識で、淡々と現実を語った。公立校に転校しても、出席日数の問題や、過去の経緯から、「特別な子」としての扱いは変わらないだろう。
一回普通のレールから外れた子は、そう簡単には戻れない。
わたしは、この残酷な真実を、全身で受け止めなければならなかった。わたしが、どれだけ「普通になりたい」と願っても、社会は、一度外れたわたしを、二度と受け入れてくれない。
わたしは、もう、辛い。
みらいに、希望が見えない。
中学を卒業して、高校へ行っても、その先、わたしは、「不登校児だった自分」という過去から、永遠に逃れられない。「普通」の人生を歩むことは、もうできないのだ。
わたしは、リビングの壁にかかった時計を、絶望的に見ていた。
時間が経つのが辛い。
刻々と秒針が進む音は、わたしの「普通ではない人生」の時間を、確実に積み重ねている。時間が経てば経つほど、わたしは、「普通」というゴールから、さらに遠ざかっていくだけだ。
わたしは、目の前で刻々と刻まれる時計を絶望的に見つめるしかできなかった。わたしには、この苦痛の時間が、終わる日が来るのか、全くわからなかった。
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