第6話 沈んだリビング
声を出すことで少しだけ心が軽くなり、誰かと繋がる感覚を知った誠。
まる。という存在に励まされ、匿名の世界で自分を表現することの意味を学んだ日々。
だが、現実の生活は、その変化に静かに抗い始めていた。
ある夜、いつものように子どもたちが寝静まったあと、誠は寝室の隅に置いた小さなデスクに向かっていた。
ノートパソコンにマイク。声を張り上げることはせず、落ち着いたトーンで話すだけ。
テーマは「家族に言えなかったこと」。それは誠自身のことでもあり、聴く誰かのことでもあった。
「……誰かにちゃんと、"わかってほしい"って思うのって、恥ずかしいことなんでしょうかね」
そんな問いかけに、少数のリスナーから「わかります」「そう思ってます」とコメントが届いた。胸が温まる。自分の言葉が、誰かに届いたという実感。
それは、家族では味わったことのない感覚だった。
だがその夜、配信を終えた誠がリビングに行くと、そこには妻・沙織がいた。
ダイニングテーブルに、麦茶のグラスが一つ。
沙織は椅子に座ったまま、無言でスマホを操作していたが、誠が入ってきたのに気づくと、その手を止めた。
「ねえ、最近……ずっとスマホ見てるよね」
言葉は淡々としていた。けれど、明らかにそれは「問い詰める」ための沈黙だった。
誠は、急に喉が渇いたような気がした。
「え……いや、まあ……」
「なにしてるの?」
「……ちょっと。配信……聞いてて」
「配信?」
その響きに、沙織の眉がわずかに動いた。
口元に浮かぶのは、軽い疑念と警戒、そして、疲れ切った女の顔だった。
誠はそれ以上の言葉が出てこなかった。
“本当のこと”は言えなかった。
配信を聞いているだけではなく、自分も配信をしていること。
その中で「救われた」と感じていること。
そして“まる。”という女性の存在。 言えば、何かが壊れる気がした。
でも、言わなくても、何かがもう壊れている気もしていた。
翌朝、事件は起きた。
リビングでスマホを充電していた誠の通知に、まる。からのDMが表示されたのだ。
それを見たのは、長女・菜々だった。
「……なに、これ」
顔をしかめた菜々が、スマホを手に取る。
「まる。」という名前と、「ありがとう、soraさん。昨日の声、すごく良かったです」という文面。
娘の表情が一気に冷たくなったのが、誠にはわかった。
「……なにしてんの? パパ、気持ち悪い」
突き刺さるような言葉だった。
その場には、沙織もいた。
彼女は表情を固くしたまま、何も言わなかった。
それが逆に怖かった。
誠はすべてを否定することも肯定することもできなかった。
まる。とは不倫でもなければ、顔を見たことすらない。
でも、心の中で「親密な存在」になっていたのは、誤魔化しようもなかった。
夜のリビング。
家族の間に座っているはずなのに、誠の存在は“空気”だった。
次女のひよりだけが、何も知らずにTVを見ながら笑っていた。
その笑い声すら、どこか遠くに感じた。
声を出して、つながれた誰か。
声を出さずに、壊れかけた家族。
誠は、リビングにいながら――完全に孤独だった。
その夜、まる。の配信は流れていた。
だが誠は、初めて配信を開けなかった。
スマホを伏せて、布団の中でただ目を閉じた。 彼女の声を聴くことすら、今は罪悪感だった。
まる。の声は、今も誰かを救っているのかもしれない。
でも、誠はその救いの手を、自ら振り払ってしまったような気がしていた。
沈んだリビングに、誰の声も響かない。
ただ、誠の胸の奥で、小さな叫びがくすぶっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます