第9話 消えた教壇
教壇が、消えていた。
まるで最初から存在しなかったかのように、
床には跡ひとつ残っていない。
黒板だけが取り残され、
静かに微光を放っている。
神々は呆然と立ち尽くしていた。
昨日までそこにいたはずの教師の姿も、どこにもない。
「……リオ先生は?」
イシュラの声が震える。
返答する者はいなかった。
代わりに、黒板の中央に淡い光の文字が浮かび上がる。
【第17条:教師がいなくとも、授業は続く】
神々の間に、ざわめきが広がった。
それは授業法に記されていない条文——
リオ自身が残した“最後の教え”だった。
イシュラは黒板に手を触れる。
まだ温かい。
粉の匂いも残っている。
つまり、ほんの少し前まで彼はここにいたのだ。
けれど、神々の誰も、その瞬間を見ていなかった。
リオは、まるで空気に溶けるように消えた。
「どこへ……行ったのだ。」
アシェルが低く呟く。
かつての傲慢さはもうない。
その目に宿っているのは、“不安”と“焦燥”だった。
「教師がいなくても授業を続けろ……そんなこと、できるのか?」
イシュラが首を振る。
目に涙を浮かべながら、黒板を見つめる。
「できるかどうかじゃない。
——続けなきゃいけないんだ。」
教壇の跡地に、ひとつのチョークが落ちていた。
折れた先端。
リオがいつも使っていた、あの白い一本。
イシュラはそれを拾い上げ、
両手でそっと握りしめる。
そして、黒板に向かって立つ。
チョークを黒板に当てると、
指先に“声”のような震えが伝わってきた。
黒板そのものが、生きている。
まるで世界が授業を求めているかのようだった。
イシュラは息を吸い込み、
震える手で一文字ずつ書き始めた。
【命の価値を、もう一度考えよう】
チョークの粉が、金色に変わる。
「これが……リオ先生の“授業の継承”だ。」
ノートスが静かに呟く。
彼は一歩前に出て、自らの指で黒板の端に文を追加した。
【授業法 第18条:教える者が消えても、教えは残る】
神々が息を呑む。
その瞬間、黒板の表面に波紋が広がり、
世界の各地に光の粒が散った。
街の広場、祈りの塔、海の底、森の奥。
それぞれの場所で、黒板の欠片が現れた。
リオの授業は、教壇を失っても“拡散”していたのだ。
遠くで鐘が鳴る。
それは授業開始の合図ではなかった。
——世界そのものが、次の授業を待っている音だった。
「先生は、私たちに“自分で授業を作れ”と言いたかったのだと思う。」
イシュラの声は涙に濡れていた。
けれど、その瞳は強かった。
「祈りも、命も、理解も……
全部“教えてもらう”だけじゃなく、“教え返す”ことが授業なの。」
アシェルが前に出た。
かつて傲慢を象徴していた神が、
今は静かに膝をついて黒板を見上げている。
「なら、俺は——世界に問おう。」
チョークを取り、太く書き出す。
【なぜ、命は終わるのか】
黒板が光を帯び、空気が震えた。
イシュラが続ける。
【終わるから、教えが生まれる】
黒板に二つの文が並び、金色の線で繋がる。
それはリオが描いた“祈りの回路”と同じ形だった。
その瞬間、天の上で光が走った。
かつてリオが封印を破った「天の法廷」——
その屋根に、黒板と同じ金の模様が浮かび上がった。
セレスがその光を見上げ、
目を閉じて小さく微笑んだ。
「……授業は、続いているのですね。」
リオの姿はどこにもない。
だが、声がした。
風の中、粉の匂いに混じって。
『教壇は消えても、心の中に黒板は残る。
——それが、教師という職業だ。』
イシュラが顔を上げた。
涙を拭き、微笑む。
「……聞こえた?」
「ええ。」
アシェルが頷く。
ノートスも、微笑んだ。
教室の奥、黒板がひときわ強く光る。
そこに新しい文字が浮かび上がった。
【授業法 第19条:教壇とは、心の中に立つもの】
金色の文字が静かに揺れ、
やがて空へと昇っていった。
その日、神々は初めて“教師のいない授業”を終えた。
だが、誰一人として沈黙していなかった。
それぞれが黒板の前に立ち、
それぞれのチョークで、自分の世界を書き始めていた。
リオが教えた「教える勇気」が、
確かに受け継がれていた。
その頃——。
遠い地の果て、夜空の下で。
一人の男が静かに歩いていた。
黒い外套。
手には折れたチョーク。
星空を見上げ、リオ・サクマは小さく呟く。
「さて……次の授業は、どこから始めようか。」
背後で風が吹いた。
その風は、かつての教壇へと向かっていた。
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