うつろい千年記

替え玉

よのなかよ

世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る

 この世に悲しみや苦しみから逃れる術などありはしない。


 百人一首の撰者、藤原定家の父藤原俊成は苦悩に満ち溢れる世の中を憂い、どこに行こうと人の悩みは尽きないと歌った。

 それはつまり千年前から人間の煩悩や苦悩は増え続け、それから逃げることなどできやしないと語り継がれているのではないか。

 そんな世界で、一体何を希望に生きろというのだ。

 ありったけの不満を手のひらに込めて、鬱憤を晴らす。

 「『紅梅べにうめ!』」

 かざした両の手から炎が吹き出す。構えたスーツの男は片手を突き出し一息吸うと、冷気が流れ込む。

 「『群青雪華ぐんじょうせっか』」

 氷の雪の華が現れ主を守ろうと盾になり、烈火の炎を息の根を止めるように凍らせ尽くす。

 炎が氷に負けた。唖然とする私に、スーツの男は冷めた瞳で次の一手に移る。

 「『水心花浅葱すいしんはなあさぎ』」

 合わせた手を開くと浅葱色の刀が現れ、刀身から冷気を放出している。

 「まっ、待って和泉いずみ!」

 ぎょっとして名前を叫ぶが聞き入れて貰えない。慌てて和泉が出したのと同じ氷の盾の群青雪華を具象化したが、置き石に足を引っかけ尻もちを着いた。はっとした瞬間には雪華が刀で粉々にされ、首元に刃がぎらりと光っていた。

 「十二秒!秒殺だな!わはは!」

 縁側で地面が揺れるようにけたたましく笑う、淡茶色の着物を着たグレーヘアのオールバックの壮年男性は、私の父だ。

 そして、尻もちを着いたままの私に手を差し出すスーツの男は和泉旺二郎いずみおうじろう。私の付き人兼世話係の悪魔だ。

 差し出された手を振り払って立ち上がると腰が痛んだ。下手な転び方をしてしまった。

 「かや〜まだ始めたばかりじゃないか。もう少し気長にやらないか」

 「もう疲れた。」

 「約束したろ?今年から本腰入れて修行するって」

 渋みのきいた風格漂う父は、本当に自分の実の父親なのかと疑うときがある。

 「受け身の取り方教えましたよね。そんなんじゃ余計な怪我しますよ」

 「手加減してくれないからじゃん!」

 「親父さんから手加減無用と伺ってます」

 「私の許可は!」

 「そんな甘いことも言ってられないぞ茅。もう十七なんだ。大人になれ」

 「私は好きでこんな力持ったんじゃない!」

 言い放った瞬間に後悔することが分かっているのに、正論を前にするとどうしたって止められない。こういうところが子供なのだと言うような和泉の冷たい視線にいたたまれなくなった。

 けれどそれ以上に、私の言葉で哀しげに目を伏せた父にいたたまれなくなって縁側に上がり長い廊下を駆け抜けた。

 「親父さん、ゴミ取れましたか」

 「ああ、いやまつ毛だ。おー、取れた取れた。あれ?茅は?」

 「なにやら勘違いをしたようで。」

 「勘違い?なんの?」

 「さあ。多感な時期でしょうから」

 娘の繊細で多感な心など露知らず、父宇治原恭一うじはらきょういちは自身の長いまつ毛を口をへの字にしながら太い指先で撫でた。

 色彩の力。それは光と影の狭間に潜む調和の技であり、人の心、空間、環境、社会文化へ作用する。代々宇治原の血にはその、色彩を操る力が受け継がれている。彩気さいきと言われるオーラを纏い、感知することが出来るだけでなく、色の言葉、色の葉を唱えると想像したものを具象化することが出来る。

 それは一体なんのためか。

 世間一般に認識されている霊や呪いなんていうのは大抵人間の負の感情から生まれたもので、最初は色鮮やかな美しい感情がどんどん濁って暗く深く蠢いているもの。それを浄化するのが、色彩の力。

 そしてその力を持ったものが呈色師ていしょくし

 人から生み出される苦悩や怨念を祓い、霊の思い残しを払拭するのが私たち呈色師の仕事。

 そして、本来呈色師は常時放っている彩気の色の具象化を得意とする。和泉であれば青の彩気だから青系統、父であれば宇治の彩気だから緑系統を得意とする。鍛錬すれば彩気以外の色の葉を扱うこともできるようになる。

 呈色師には様々な組合が混在し、父はその組合の中でも一番の浄化実績率を誇る極彩ごくさい会会長。私はその一人娘。

 表の仕事は華道のよく分からない偉い人で、時々テレビや雑誌に出てダンディー恭一なんて謳われて浅黒い顔をほんのり赤く染めたりなんかしてよろしくやっている。

 跡取りは私のみ。

 父は表の仕事はさておき裏の仕事の呈色師として、自分の跡を継いでほしいと願っている。

 私は偉大な父とは違い不出来な娘で肩の荷が重く、そのプレッシャーから逃げ続けている毎日。通っているお嬢様学校でも日陰の存在で、友達と呼べる人などいない。

 母は記憶の曖昧な頃に病気で死に、広い屋敷でいつも宴会や会合を開いたり外回りに出かけている父だけが頼りだった。

 「失礼しますよ」

 「無理」

 「これ湿布です。尻に貼っといてください」

 「無理って言ったのに勝手に入んないでよ」

 「自分でやらないなら俺が貼りますけど」

 「分かった貼る、貼るから」

「猿みたいに真っ赤ですか?」

 「出てけ!」

 襖をぴしゃりと閉める。なんってデリカシーの欠けらも無い氷の男なんだ。

 「親父さんの気持ち、汲んでやってください。もうお年です。貴方には、その力がある」

 父と二人ぼっちだったこの屋敷に和泉がやって来たのは、私が十歳のときだった。和泉は十五歳。青色系統の呈色師が所属する青彩会せいさいかい会長の次男で、継ぐのは長男と決まっていたため、実力のある和泉を青彩会と深い交流のある父が引き抜いたのだ。

 「お世話になります。和泉旺二郎です。本日より、貴方をこの身に代えてもお守り致します。」

 まだ子供のはずの黒髪の美丈夫が片膝をついて私の世話係になった。五つしか年は変わらないはずなのに、他の宇治原会組員の誰よりも頼りになる気がしたのを今でも覚えている。

 「茅の調子はどうだ」

 「調子も何も、雲の上の型ですね」

 「はっはっは、厳しいなー旺二郎」

 「すみません」

 「いいや。その嘘のつけないところが茅には合ってるさ。あの子は自分を出すのを恐れてる。お前みたいに遠慮のない方が、却って良い」

 「おかげで八年かけて嫌われましたけど」

 和泉が出した茶を啜りながら、宇治原恭一はまたどかっと笑う。

 「もう八年か。茅にもそろそろ浄化を覚えさせんとな」

 「トラウマ。払拭できますかね」

 「できるさ。あの子なら。千歳ちとせの娘だ。見目麗しい、彼女に似た強さを持ってる。支えてやってくれ」

 和泉は目を伏せ、遺影に微笑む宇治原恭一を思った。

 「段々咄嗟に出る力が不安定になってきてます。コントロールが追いつかないまま、力が増幅してる」

 「そうだろうなあ。千歳も感受性の強いひとだった。扱いに困るだろうが、よしなにやってやってくれ」

「スパルタで良ければ」

 「はっはっは、よろしく頼むよ」

 

 和泉は学校の送迎も任されている。二年生に進級したはいいものの、毎日進路の話をされたり春ののどかな空気に眠気を誘われ気持ちを新たに、なんて気分にはなれなかった。

 後部座席で大欠伸をしているとミラー越しにドン引きした顔の和泉と目が合う。窓に目を移すと桜並木が映画のように流れ、桃色のトンネルを走っているようだった。

 「窓開けないでください花粉が入ります。あと大口で欠伸してるとカバみたいですよ」

 「車酔いしそうなんだもん。丁寧に運転してよ」

 「シートベルトしてください」

 「息苦しい」

 「事故っても知りませんよ」

 「大事な愛車が傷ついてもいいの?」

 キキイ、と急ブレーキの高い音が響き渡ったとともに、運転席のヘッドレストに顔がめり込んだ。弱々しく後ろに倒れ込むと、またミラー越しに目が合う。

 「すみません。信号見逃して」

 「わざとでしょ」

 「だからシートベルトしといた方がいいでしょ」

 「絶対わざとでしょ!この捻くれ男!」

 「帰り連絡してくださいね。この間二時間校門で待たされたんですから。立ち寄るところがあるなら先に言ってください。それじゃ」

 ドアが開けられ睨みつけながら車を飛び出した。校門にはいくつもの高級車が並び、「ごきげんよう」などと薄っぺらい笑みを浮かべてお嬢様たちが登校する。

 送迎の運転手なんてのは大抵隠居間近のおじいさんが多いから、二十代の若い男が立っているとかなり目立つ。早く車に戻って欲しくて手で合図すると、和泉は両手を大きく旗を振るように振りかざした。

 「ばっ、なにしてんの!」

 「お嬢が珍しく手を振ってくれたので、全力で振り返してます」

 「ちっがうわバカ、早く車戻ってって意味!」

「照れなくていいですよお嬢、達者で。お友達できるといいですね、頑張ってください」

 「わざわざ声張り上げて言うな!」

 ああ、腹立つ。なんであんなに嫌味ったらしいんだろう。

 「で、また修行サボりに来たんだ」

 「サボってまで会いに来る幼なじみを愛おしいとは思わない?」

 「はいはい、どうぞ〜桜餅とうぐいす」

 「わ、かわいい!ありがとう!」

 放課後私が会いに行くのは和菓子屋の娘であり売り子の幼なじみのたまちゃん。

 桜色のクレープ生地には、白玉粉も用い、もちっとした食感。こし餡と桜の葉の塩気のバランスが絶妙。春の訪れを告げる鳥、うぐいすの上生菓子はさわやかな鶯色でころりとした形が可愛らしい。

 たまちゃんとはご近所で、通う学校は違ったけれど同じように霊感があって気味悪がられた者同士自然に仲良くなった。

 たまちゃんにだけは、色の力のことも悩みも辛いことも、なんでも話せる。

 「でも、幽霊だけじゃなく色まで見えちゃうなんて大変だよね。私は少し気配感じるとかそのくらいだから、気のせいってやり過ごせるけどさ。」

 「うーん…まあもう慣れたけど」

 「あ、宮田さんこんにちは」

 「こんちゃーす、あれ?!お嬢!なんでこんなとこいるんですか!」

 「あー…最悪」

 宮田は最近人手不足の我が家に派遣された極彩会の新入り。熱意はあるけど空回りしやすい分、和泉にビシバシ鍛えられている最中だ。

 「和泉さんにちゃんと連絡しましたか?」

 「あとでするって」

 「和泉さんまた待ちぼうけ食らったら不機嫌被るの俺なんすよー。しっかりやってくださいよ」

 「宮田さん、抹茶飲みます?」

 「飲む飲む!ありがたいねー」

 組合はそれぞれ管轄の地域を組合員がパトロールしていて、その休憩に宮田はよくこの和菓子屋に来るようになった。

 「あー、目が疲れる。」

 「大変だね」

 「でもほんと、お嬢の力はすごいんですよ?自分で思ってる以上に」

 「呈色師の人達は、茅ちゃんみたいに色んな色を表現出来るわけじゃないんですか?」

 「出来ませんそんな類まれなこと!才能ですよこれは、色彩のサラブレッドです」

 宮田は丁寧にお茶を啜り一息ついてから、まくし立てるようにたまちゃんに説明した。

 「宮田さんは何色が出せるんですか?」

 「自分は赤系です。原色はわりと修行すれば身につくんですけど、自分のオーラと真反対の色とか中間色ってこう、混ぜて生み出すものなんで塩梅が難しくて。でも、その鍛錬を積まなくてもホイホイっと出せるのがお嬢なんですよ」

 「本当のサラブレッドだね。何色が得意なの?」

 「基本全部下手くそだよ。できる限り使わないで生きていきたいし」

 うぐいすを一口で食べ切る私を、宮田が気まずそうに笑って目を伏せた。呈色師だからこそ、私の力の危険さが分かるのだ。

 「でも素敵。茅ちゃんの見える世界はきっと、鮮やかなんだろうね」

 たまちゃんの曇りのない笑顔に、私もできる限り誠意を込めた笑顔で返した。鮮やかな世界がどれだけ残酷か、伝える必要も無い。たまちゃんは「普通」の世界で生きている。

 「すみませんねえ自転車で」

 「楽しいよー。車、酔っちゃうし」

 「和泉さんの愛車が泣きますよ?」

 「いーの。あ、二人乗りしたこと内緒ね」

 和泉の運転は荒い。機嫌が悪いときには特に。助手席に乗って一度吐いたことがある。だから和泉の運転のときにはいつも後部座席に乗る。

 宮田と和菓子屋でお茶したあとはいつも自転車で送ってくれる。夕焼けに染まる交差点が見えてきた。

 「停めて」

 荷台から降りてへこんだガードレールの前にしゃがんだ。毎週火曜、夕方のこの時間はここに来ると決めている。

 私と宮田以外の影がくっきり浮かび上がり二つ結びの女の子の姿に変わった。

 『お姉ちゃん、また来てくれたんだね』

 「うん。今日は何色がいい?」

 『うーん…ピンク。ランドセル、私ピンクだったの』

 彼女は登校中に居眠り運転のトラックに轢かれて死んだ。

 学校帰りに彼女の思念を感じて見つけてからこうして毎週会話をするようになった。

 「お嬢…もう一ヶ月ですよ」

 「うん。分かってる。あと、少しだけ。『桃便り』」

 風をなぞり桃の花びらを散らしてみせた。

 『すごい!かわいい、綺麗!』

 女の子は飛び跳ね、桃の花びらに包まれながら無邪気に喜ぶ。

 宮田の顔は浮かない。

 理由は一つ。地縛霊はいつか呪霊になってしまうからだ。呪霊になれば呪いをかけ、また交通事故を引き起こしたり、もっと酷いことが起きることもある。怨念や呪いは生きている人間を脅かす。

 そのために私たち呈色師がいる。

 霊や生きている人間が抱えている感情が黒く染まる前に浄化し、魂を循環させる。

 彼女は生まれ変わらなければならない。だけど。

 『お母さん、まだ来てくれないの。他の知らない人はたくさん、お花とかお菓子とか持ってきてくれるのに。』

 最後に一目、血の繋がった母親に会えたら。会いに来てくれたら。彼女はここから動けない。最後に母親と会えてから浄化させたかった。

 「何してるんですか」

 氷のように冷たい声に肩が震えた。振り返ると青冷めた顔の宮田と、すでに血の通っていなさそうな無表情の和泉がいた。

 「自分の仕事をお忘れですか」

 「この子は呪霊じゃないよ」

 「力を持った者の務めです。祓います」

 『まだいきたくないよ、お願いお姉ちゃん』

 女の子は怯えて蹲る。宮田は止めない。和泉のしていることは正しいからだ。

 「待ってよ!」

 和泉は私の制止を聞かず、掴んだ腕も振りほどく必要も無い力で手をかざす。

 「お願いやめて和泉!」

 叫んだ瞬間、緋色の矢が和泉の右手を掠めた。

 口を咄嗟に塞ぐ。鮮やかな血が滴り落ちるのを和泉は他人事のように眺める。和泉の腕に触れようとした手が避けられ空を切る。

 「帰りますよ。宮田、お前はチャリで帰れ」

 「は、はい」

 和泉に腕を引かれながら振り返って、寂しそうに俯く女の子の姿が遠くなっていく。後部座席で揺られながらその姿が目に焼き付いていた。

 「……手、痛む?」

 「かすり傷です」

 「ごめんなさい」

 窓ガラスに映る自分の顔に、さっきの鮮血がこびりついて離れない。カーディガンの袖で何度も拭ったところで意味は無いのに。

 感情が高ぶると色の葉を唱えなくても力が暴発してしまう。和泉に怪我をさせてしまった。罪悪感でいっぱいで目を逸らすことしか出来ない。

 桜の花びらが張り付いている。外側にあるのに意味もなく爪で引っ掻いた。

 「あの子のためにならないですよ」

 「分かってる」

 「貴方のやってる事は偽善です。自己満足だ」

 「……分かってる」

 目頭が熱くなる。いつも和泉に反抗してしまう。その理由はいつも和泉が正しいからだ。

 正しくいられない、用意された安心で安全な道を真っ当に進むことを拒む贅沢で傲慢な自分。

 「お母さんに会いたい気持ち、分かるんだもん」

 和泉は何も言わない。遺影の中で笑う母の遠い記憶を手繰り寄せても、何も思い出せない。あの子の気持ちが痛いほどわかる。

 「母親に会わせれば満足ですか?」

 「え?」

 和泉の表情は見えない。軽いハンドル捌きはいつもより丁寧に感じる。

 「…あの子が、少しでも気を楽にしていけるならって思ったの。…自己満足だけど」

 和泉はそれ以上何も言わなかった。


 それから数日経ち、たまちゃんのところへ遊びに行く気にもなれずに校門を出ると、和泉はすでに車を停めて待ち構えていた。

 「お帰りなさい」

 「ただいま」

 車が走り出してすぐ、いつもの帰路とは違うことに気がついた。あの交差点を通り過ぎしばらく走って閑静な住宅街の裏路地に停めると、後部座席のドアを開けて私を下ろし、迷うことなくクリーム色の壁の一軒家のインターホンを押す。

 「えちょ、遠慮とかないの。てか、もしかしてここって」

 「死んだあの女の子の家です」

 「どうやって調べたの」

 口の端を少しだけ上げた。いつも無表情の和泉は笑っているかどうかの判断がつかず不気味で顔が引き攣った。

 「はい、あの、どなたでしょう」

 「近所に越してきた者ですー。ご挨拶をと思いまして」

 女性の声がすると、和泉は薄っぺらい笑みを貼り付けいつの間に手元に用意したたまちゃんのところの和菓子を持ち上げて見せた。

 息を吐くように嘘をついたことにドン引きした私に目もくれない。

 「ご丁寧にどうも…」

 女の子の母親はなんの疑いもなく玄関を開けた。物騒な世の中でほんの少し警戒心が希薄に思える。雰囲気も弱々しく頼りない。

 「亡くなられた娘さんの献花には行きましたか」

 母親以上にぎょっとした私は和泉の腕を掴んだ。

 「ちょっと、」

 「なんなんですか貴方、記者の方ですか?」

 母親は今にも泣き出しそうに眉を下げた。

 「事故現場には伺われましたか?娘さん、まだ小学生でしたよね」

 「貴方たち、失礼だと思わないんですか!そんなこと聞いて」

 「ごめんなさい!酷いことを言ってるって分かってるんです、でも」

 門に手をかけた私に家の中に引っ込もうとした母親が困惑した表情をうかべる。

 地縛霊として貴方を待っている。そんなことを言っても普通の人間には伝わらない。だけどあの子の願いを叶えたい。

 言葉に詰まって目線を落としてはっとした。

 「…妊娠、されてるんですか?」

 母親は目を逸らしお腹を撫でる。

 「……あの子のことを思うと辛いんです。いつまでも、あの子が死んだときから時間が止まったみたいで。でも前に進みたいんです、お腹の子のためにも」

 「会いたがってますよ。貴方に。」

 「和泉、そんななんの説明もなしに」

 「なんなんですか!?これ以上なにかするなら警察呼びますから!」

 玄関の鍵が締められた。動かない和泉を無理やり引っ張り車に乗り込んだ。

 「馬鹿じゃないの!?通報されたらどうすんの!」

 「あの手の者は怖がって何もできません」

 「ちょっと、わ!」

 「シートベルト。してください」

 和泉は私を背もたれに押し付け顔を近づけたと思ったら、カチッとシートベルトを閉めると運転席に乗り込みまた車を走らせた。

 今度は景色がどんどん緑豊かになり、森の奥へと進んで行った。駐車場を出るとそこは霊園だった。

 「足場悪いですから気をつけてくださいね」

 和泉はトランクからビニール袋を取り出すとどんどん先へ歩き、途中にあった手桶とひしゃくを持って坂道で息を荒らげる私を置いていく。坂を登りきると、表札と同じ名字のお墓がぽつんと建っていた。墓石や花瓶は汚れ、雑草が生い茂り放置されているのが見て分かった。

 「あの子の墓です。あの母親はお参りに来てない。父親は仕事の忙しい人だそうです。」

 和泉はそれ以上何も言わず、墓の手入れを始めた。私もすぐに手伝った。線香を焚き、手を合わせた。

 「死者に向き合えるほどの強さを持ち得ない人間もいます。待っていても、あの子の苦しみが長引くだけです」

 和泉の言葉に喉の奥が引き攣るようだった。

 自分の考えが如何に甘かったか、現実を思い知らされた。あの子はずっと、ずっと一人で信じてあの交差点にいたのに。

 「祓いましょう。今日すぐに」

 「でもあの子、火曜にしか出てこないの。…死んだ日が火曜だったから」

 「じゃあ来週。今日のこと、悟られないようにしてくださいね。」

 和泉は正しい。

 私のしたことは偽善だ。気持ちに寄り添った気になって、自分が気持ちよくなっていただけだ。

 自分が不甲斐なくて、悔しさで目頭が熱くなった。

 「え。じゃあ、もう家族は新しい第二の人生歩み始めてるって感じなの?」

 「いや…そこまでのニュアンスでもない気がするけど」

 「でもなんか、受け止めきれないから考えないようにするって薄情っすよね。オレらが死とか魂とかに近いとこにいるから、日常感覚すぎるんすかね」

 「…どうだろう。でも私も、割り切れる自信ない。和泉が聞いたら笑うだろうけど」

 今日は宮田とたまちゃんと三人でお茶屋さんに遊びに来ていた。先日のことを話すと二人とも暗い顔をする。

 「でも、和泉さんにも情くらいありますよ」

 「そうかなあ」

 「和泉さんに頼まれて俺、徹夜でこの地域で直近に起きた交通事故調べ上げて、あの子の名前と住所特定したんですから」

 「え…和泉が?」

 なんのために、そう聞こうとして、宮田の表情で言葉を失った。他でもない、私のためだ。

 私が納得して、あの子を送り出すために。

 仕事として割り切れない、不出来な私のために。

 「なんだかんだ、和泉さんって面倒見いいよね。茅ちゃんの事すごい大事に思ってるの、伝わるよ。茅ちゃんの友達だからって、うちのお店贔屓にしてくれるしさ」

 「あんま冷たくして嫌われたくないのもあると思いますけどねー。やべ、和泉さんいねーよな」

 「宮田さんビビりすぎ〜」

 ケラケラ笑い合う二人の笑い声が遠のいていく。

 和泉はいつだって正しくて、理性的で、大人の選択をする。私の澪標のように、いつも少し先で背中を見せる。

 「これあげる」

 「え?なんですか?」

 家に帰ると似合わないを越してもはや気味の悪いフリルの着いたエプロンで夕食を作る和泉に、買ってきたコーヒー豆を突き出した。

 和泉は日本茶より紅茶より、苦いコーヒーを好む。

 「ありがとう。…あの子のこと、協力してくれて」

 和泉は少し間を空けてビニール袋を受け取ると、目だけで笑って見せた。

 「ありがとうございます。ジブリのカンタみたいな登場してくるから何叫ばれるのかと思いました」

 「最悪。もうあげない」

 「ダメです。もう俺のもんです。」

 「黙って受け取れないわけ?」

 「ん、って言わないんですか」

 「もうダメ。私が全部飲む」

 「致死量ですよこれ」

 その夜、和泉はいつになくご機嫌なのがわかった。ハンバーグの形がクマさんだったからだ。和泉は機嫌がいいとキャラ弁や食べ物に動物を出現させる。クオリティがやけに高いのがまた不気味だ。

 

 月曜日。ついに明日、あの女の子を祓う日だ。その前にお供えをしようと花屋で買ってきた桃の花を手に交差点に向かうと、女の子の母親と鉢合わせた。

 先日のあまりの無礼に申し訳が立たず目が合った瞬間苦渋の表情を浮かべた私に、母親は丁寧にお辞儀をした。

 罵詈雑言を浴びる覚悟でいたから拍子抜けした。

 「あの、先日はすみませんでした」

 「いえ、…実は、事故があってから葬式が終わっても、何だか実感が湧かなくて。…段々、仏壇の写真を見るのも辛くなって。お墓参りにも、行けなくなりました。お線香、上げてくれたのは貴方たちですか?」

 「あ…えっと、…はい」

 既に知ってしまった事実を語る母親の肩は小さく、今にも泣き出しそうだ。

 「お恥ずかしい話です。…娘とはどういったお知り合いで?」

 「え、えーと…こ、公園で見かけたことがあって、声をかけてくれて」

 「そうですか…好奇心旺盛な子でしたから…。だから、道路には飛び出しちゃいけないって散々注意していたんです。」

 当たり前の日常が、突然壊れた。娘を失った悲しみは計り知れない。経験したことのない私には、到底理解は及ばないだろう。

 だけどあの子は、ずっと待っていた。せめて明日、火曜日に来てくれたら良かった。

 「怖くなったんです…、昨日夢にあの子が出てきて。私が、…ずっと避けてたから。あの子から、逃げたから」

 ついに母親は泣き出し、はらはらと涙の粒が膨らんだお腹に落ちた。

 夕日が落ち、私たちの影が伸びてくる。その影とは別のもう一つの影が浮かび上がる。

 息を飲む。

 『───お母さん』

 母親の肩がビクッと震える。影が形を変え、女の子が現れた。

 『お母さん、会いに来てくれたの?』

 「桃花ももか……?桃花なの…?」

 『お母さん、ずっと会いたかったよ。お姉ちゃんが連れてきてくれたの?』

 返事をしようとしたとき、いつもの気配と違うことに気がついた。匂いも変だ。

 「…桃花ちゃんって言うんだね」

 『私…もう自分の名前も思い出せないの……だけど、お母さんのことだけはずっと覚えてたよ』

 「ひっ」

 桃花ちゃんが差し伸ばした手から母親は短く悲鳴を上げて遠ざかった。怯えた表情で、幽霊の桃花ちゃんを見る。

 『お母さん…私の事嫌いになっちゃったの?新しい赤ちゃんがいるから、私はもういらないの…?』

 「逃げて」

 母親の腕を引き前に出る。

 「え、」

 「逃げて!」

 『酷いよお母さん!!』

 桃花ちゃんの叫び声と同時に、黒い影が母親に素早く伸びた。母親を庇い黒い影に包まれると桃花ちゃんの記憶が流れ込む。

 生きていた頃の家族団欒の記憶も、事故の瞬間の記憶も。痛みも流れ出してタイヤに肉が踏み潰される感覚が全身に走った。

 母親はへこんだガードレールに手をついて腰が抜けてしまい身動きが取れずにいる。

 『お姉ちゃん…苦しいよ、悲しいよ』

 桃花ちゃんの手がぬるりと伸びて首に巻きついた。呼吸が浅くなる。

 ごめんね。言葉にならない謝罪が滲む。

 私がもっと早く、浄化すれば良かった。情なんか切り捨てて、もっと早く楽にしてあげるべきだった。

 そうしたら桃花ちゃんも、お母さんも、こんな悲しまなくて済んだのに。

 今更後悔が押し寄せる。和泉の言う通りだ。私はただの偽善者。

 色の葉を発音する事もできないくらいの力で締め上げられ徐々に意識が遠のいていく。

 走馬灯なのか、和泉が家に来た日のことを思い出した。

 お父さんに私の世話係を命じられたその日、和泉は柱の影で伺う私に微笑んだ。

 「貴方をこの身に代えてもお守り致します」

 和泉のその言葉は、その日からずっと嘘がなかった。

 「…和泉、助けて」

 途切れる意識の中で縋った。

 「──『淡藤霜月あわふじそうげつ』」

 腹部に添えられた腕に慣れた感触があった。頬に触れた冷気で目が覚める。降り頻る霜雪の中で、和泉の白い横顔が見えた。

 黒い影に霜が張り音を立てて粉々に割れ落ち、咳き込む私を抱き抱え和泉は一歩距離を取った。

 「遅くなってすみません」

 「和泉…来てくれたの」

 「貴方がいれば何処へでも行きます。」

 和泉の強い瞳で言われたその言葉に体の力が抜けた。

 『痛い…痛いよお姉ちゃん…どうしてこんな酷いことするの……』

 「彼女はまだ救える。祓う覚悟は出来てますか」

 力の入らない身体で這いずりながら、黒い影に纏わりつかれ苦しむ桃花ちゃんを見据える。

 「…私でいいのかな」

 「寄り添ってきた貴方が祓うべきです」

 和泉は、今度は偽善だとは言わなかった。

 怯えて蹲る母親を見る。まだ、救える。

 「『桃色便り』」

 桃花ちゃんを取り巻く黒い影を、桃の花びらが覆う。竜巻のように黒い影を取り込み、最後は空を舞って桃花ちゃんと母親の頭上に降り注いだ。

 「……桃の花」

 母親は花びらを見上げてはっと振り返り、桃花ちゃんのそばに寄った。

 「桃花…一人にしてごめんね」

 大粒の涙を流し、桃花ちゃんの手に重ねた母親の手がすり抜け、その表情が歪む。

 「ごめんね、怖かったよね。寂しかったよね。」

 『お母さん、会いに来てくれてありがとう。もっとずっと一緒にいたかった』

 「っ…お母さんも、桃花ともっと一緒にいたかった。ごめんね」

 母親はすり抜ける桃花ちゃんの体を抱きしめた。桃花ちゃんの腕は母親の背中に回り、私たちと目が合うと桃の花が咲いたように笑った。

 『お姉ちゃん、最後にお母さんに会わせてくれてありがとう。酷いことしてごめんね』

 「なんともないよ。すっごい元気!…だから桃花ちゃんも、元気でね。」

 『お母さん、赤ちゃんとお父さんと、たくさん笑ってね。お母さんの笑顔、ずっと見てるから』

 「…うん。うん。ありがとう、ありがとうね桃花」

 『お母さん、ずっと大好きだよ』

 和泉の目を見ると小さく頷き、私も応えた。

 「『菜の花綴り』」

 菜の花色のガラスペンで桃花ちゃんの名前をなぞると、桃花ちゃんの体が菜の花色に包まれ、光となって消えた。

 母親が蹲って声を上げて泣く。その背中に手を添えた。

 「お怪我は?ごめんなさい、こんなことになって」

 「大丈夫です…、助けてくれて、…桃花を、成仏させてくれてありがとうございました……っ」

 「…身体に気をつけてください。それから、長生きしてください」

 母親はまた涙を浮かべ頭を下げた。面を上げた瞬間、和泉が前に一歩出る。

 私と母親が声を上げそうになったそのとき、小型の赤いボタンを押した瞬間白い煙が暴発し母親は気を失った。和泉はその体を支えてスマホを耳に当てる。

 「ち…ちょっと!」

 「仕方ないです。呈色師のことを一般人に知られるわけにはいきません。彼女は夢を見ていた。そういう事にしときます。もしもし宮田、終わった。回収よろしく」

 唖然としている間に宮田は走ってやってきて、母親をタクシーに乗せ颯爽と自分も乗り込み送って行った。

 あ、あんな光景を見たあとにこの後始末のスピード。開いた口が塞がらなかった。

 和泉はアスファルトに座り込んだままの私の前に長い足を折ってしゃがみこんだ。

 「え、何」

 「よく頑張りましたね」

 普段と違う、包み込むような温度感のある声に耳が焼け焦げそうになった。

 そんな、大事そうな目で見ないで。そう思うのに、和泉から目を逸らせない。

 「初めて一人で浄化できましたね」

 「…前からしたことあるよ」

 「自分から浄化求める理性的な霊ばっかじゃないですか」

 「うるさいな、っうわ、ちょっと」

 「膝、擦りむいてます」

 和泉のピアノの鍵盤のような綺麗な指先が太ももに触れた。心臓が飛び出そうなほど驚いて身を捩った。

 「だ、大丈夫だから」

 「腰抜けてるんでしょ、腰抜けだけに」

 「こし、ダジャレじゃん、っうわ!」

 和泉は反論を無視して私を抱き上げ歩き出した。

 「ちょっと下ろして、恥ずかしいこんなの!」

 「車まで少しなんだから我慢してください」

 こうなってしまったら和泉は意地でも下ろさない。道端でいい歳してお姫様抱っこなんて、小っ恥ずかしいにもほどがある。

 和泉の横顔を見上げて、綺麗な顎のラインが憎たらしく思えた。

 「学校の誰かに見られたら恥ずかしくて死ねる」

 「貴方友達いないでしょ、認識されないから大丈夫です」

 「フォローになってないから!」

 「今日はお祝いですね。何が食べたいですか?」

 顔の近くにある和泉の喉元から音が鳴る。和泉の声がいつもよりも近くて、考え事ができない。

 「お嬢」

 和泉の顔が擦れて、耳朶に唇が触れた。掠れた低音と、冷たい唇の感触。

 体に電気が走ったように痺れてばっと顔を離した。

 「っな、何」

 「夕飯。リクエスト聞いてるんですけど」

 今私は夕飯のことを聞いたんじゃない。

 耳に、キスされた?いや、思い過ごしかもしれない。そうだ、今のは事故だ。なんでもない、ただの事故。

 「…アジフライ食べたい」

 「お任せ下さい」

 「ありがとう。…てか、車どこ停めたの?」

 「…この辺のはずなんですけどね」

 「……まさか持ってかれたとか、ないよね」

 「「……………」」


 藤原俊成は悲しみと苦悩の尽きない世の中を憂いた。時には思い詰めて迷い、哀しげな声に誘われることもある。

 それでも、命ある限り、生きていく。

 それが、今私に出来る精一杯。

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