III-コードネーム:雪の雫

 廃ビルの十階は、埃と硝煙、そして死そのものが放つような甘ったるい匂いに満ちていた。


 剥がれかけた壁紙が亡霊の皮膚のように揺れるコンクリートの空間。そこに、十人の武装した男たちが、まるで澱んだ空気の一部であるかのように佇んでいる。


 床に散らばる煙草の吸殻と薬莢を、割れた窓から吹き込む夜風がカラカラと弄び、不協和音を奏でた。


 その不協和音の中心で、部屋の唯一の異物が震えていた。北山心春だ。


 両手をきつく背中で縛られ、口を塞ぐガムテープが痛々しい。恐怖に見開かれた瞳から止めどなく溢れた涙が、頬に乾いた跡を描く。お気に入りだったカーディガンは無残に袖が破れ、サイドにまとめた髪も、今は見る影もなく乱れている。


「どうなってやがる! 春日井官房長官の娘じゃねぇじゃねぇか!」


 リーダー格の男、向井彰むかい あきらが、フンガムンガ系譜の三日月刃――マンベレを弄びながら吐き捨てた。身長百八十五センチの巨躯から放たれる威圧感に、部下たちが身を竦ませる。


 凶器にこびりついた古い血錆を親指でなぞりながら、向井は傷だらけの顔をさらに醜く歪ませた。


「テレビの後ろ姿だけで決めつけやがったのは、どこのどいつだ? あぁ?」


 向井は怒鳴りながら、手近にいた部下の胸ぐらを掴んだ。誰もが目を伏せ、次の暴力がどこへ向かうのかと息を殺す。杜撰な計画のツケが、重苦しい空気となって部屋に沈んでいた。


「ど、どうしますか、この女は……」


 別の男がおずおずと尋ねる。向井は掴んでいた部下を突き放し、忌々しげに心春を一瞥した。


「決まってんだろ。面倒は芽のうちに摘む。消せ」


 命令を受け、男がためらいなく銃の安全装置を外す。カチリ、という乾いた音が響き、銃口がゆっくりと心春の額に向けられる。


――その刹那。


 窓ガラスが、音もなく砕け散った。


 ガラスの破片が月光を反射しながら舞い散る中、一つの人影が室内に降り立つ。


 矢上亘。


 十階の高さから侵入したにも関わらず、その着地は羽毛を思わせるほど静かだった。


「皆様、お揃いで。私の店の従業員に、何か御用立てでしょうか」


 この場にあまりにも不釣り合いな、穏やかで丁寧な声。しかし、全身から立ち上る殺気は、室温を数度下げたかのような錯覚を与えた。


「誰だてめぇ——」


 最も近くにいた男が、反射的にベレッタM9を抜こうとする。だが、引き金を絞る指が痙攣するより早く、矢上の姿が掻き消えた。


 クラヴ・マガ。イスラエル軍が開発した、世界最強の近接格闘術。生き残るためだけに最適化された、無慈悲なまでのリアリズム。


 矢上の掌底が、顎を下から撃ち抜いた。脳が頭蓋骨の中で激しく揺れ、男は糸の切れた人形のように崩れ落ちる。意識を失うまで、コンマ三秒。


「てめぇ……矢上ッ!」


 向井の顔に、驚愕と、積年の憎悪が深く刻まれる。かつて同じ砂漠で、互いの血を啜り合った旧知の顔だった。


 額に脂汗が浮かび、マンベレを握る手がかすかに震えていた。


「お久しぶりですね、向井さん。その下品な刃物、まだ持っていたのですか。物持ちがいい」


 矢上が一歩前に出る。梁が、彼の体重を支えきれずに軋んだ。


「――その子を返していただけますか?」


「ふざけんな!」


 向井の怒声が、廃ビルの壁に反響する。


「殺せ! 八つ裂きにして、コンクリートにねじ込んじまえ!」


 号令と共に、残りの男たちが銃口を火口に変えた。


 轟音と閃光がフロアを支配するが、矢上は銃弾が描く死の線を、最小限の動きで駆け抜ける。超低姿勢の前転。床すれすれを滑るように移動し、一人の男の死角に潜り込んだ。


 右脚が、鞭のようにしなった。踵が男の側頭部を直撃し、三半規管を破壊する。平衡感覚を失い、自動小銃を取り落として床に倒れた。


「化物が!」


 二人目の男が、コンバットナイフを逆手に握って突進してきた。刃が月光を反射し、銀色の軌跡を描く。


 矢上は流れるように刃をかわした。紙一重。ナイフは彼の頬を掠め、数本の髪を切り裂いただけだった。


 次の瞬間、矢上の手が男の手首を掴む。


 親指が尺骨神経を圧迫し、激痛で男の指が開いた。ナイフが宙を舞い、矢上はそれを左手で捕獲する。


 返す刀で、男の大腿部にナイフの柄を打ち込んだ。大腿神経を正確に圧迫し、男は声にならない悲鳴を上げて膝から崩れ落ちた。


「なにぼさっとしてやがる! 撃て! 撃ち殺せ!」


 しかし、彼らの視界に映ったのは、信じがたい光景だった。


 矢上が、意識を失った仲間の体を盾にして突進してくる。弾丸が人間の盾に吸い込まれ、血飛沫が舞った。それでも止まらない。盾を投げ捨てると、接近した男の懐に飛び込んだ。


 肘打ち。腹部に突き刺さる。男が屈むと、矢上の膝が顔面を捉えた。鼻骨が砕ける音が、乾いた破裂音のように響く。


「ひっ……」


 恐怖に駆られた一人が、震える手で拳銃を乱射した。だが弾丸は、矢上がいた場所の空気を切り裂くだけだった。


 矢上は柱の陰から陰へ、まるで影と一体化したかのように移動していた。そして、天井の配管に手をかけ、体操選手のような動きで体を振り上げた。


 真上からの急襲。二人の男の頭を両手で掴み、そのまま床に叩きつける。頭蓋骨が床に激突する鈍い音が、二度響いた。


「おい……本当に人間かよ……」


 残った男たちが、恐怖に顔を歪めて後退った。その中の一人が、手榴弾のピンに手をかける。


 間髪入れず、矢上は動いた。


 床に転がっていた拳銃を蹴り上げ、空中でキャッチ。刹那の静止。そして、三発の銃声が連続して響いた。


 手榴弾を持っていた男の手首、そして残る二人の膝。全て正確に撃ち抜かれ、男たちは悲鳴を上げて崩れ落ちた。手榴弾が床を転がり、矢上はそれを拾い上げて窓の外へと投げ捨てる。数秒後、遠くで爆発音が響いた。


 廃ビルの一室に、向井だけが立っていた。


「さすがは雪の雫スノードロップ……前線から退いてもなお、腕は鈍っていないようだな……」


 向井の声は震えていた。かつて、アフリカの戦場で矢上の戦いを見たことがある。あれから十年以上。まさか、その技術がさらに研ぎ澄まされているとは。


「喫茶店経営は、意外と体力を使うものでして」


 矢上は拳銃を捨て、ゆっくりと近づく。歩みは緩やかだったが、その一歩一歩が、向井の心臓を鷲掴みにするような圧力を放っていた。


「なめるなぁ!」


 向井がマンベレを投げた。三日月の刃が回転しながら相手の首を狙う。だが矢上は、首を数センチ傾けただけでそれをかわした。マンベレは背後の壁に深々と突き刺さる。


「相変わらず」


 矢上が低く告げた。


「狙いが、甘い」


 向井が予備のコンバットナイフを抜いた途端、矢上は間合いを一気に詰める。手首を掴み、関節を極める。骨が軋む音がして、ナイフが床に落ちた。


 そして矢上の蹴りが、みぞおちに深く沈み込んだ。


「うぐっ……」


 向井は内臓を吐き出すような呻き声を上げて膝をつく。そのまま、前のめりに倒れ込む。意識が、闇の底へと沈んでいった。


 静寂が、廃ビルを包み込む。


 矢上は乱れた髪を手で整え、眼鏡の位置を直した。そして、心春の元へと歩いていく。


「お待たせしました」


 優しくロープを解き、ガムテープを慎重に剥がした。心春の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。


「マス……ター? 本当に、マスター?」


「はい。もう大丈夫ですよ。怖い思いをさせてしまって、本当に申し訳ありません」


 彼の声は、いつもの喫茶店での安らかな響きを取り戻していた。心春は怯える指先で矢上の袖を掴む。彼女の手を、そっと優しく握り返した。


 遠くから、現実世界を引き戻すかのように、パトカーのサイレンが聞こえ始める。


「警察が来ますね。彼らに巻き込まれると、心春さんにご迷惑をおかけすることになります。失礼ですが」


 矢上は心春を、花嫁のように優しく抱き上げる。


「えっ? ちょ、ちょっと、マスター!?」


「しっかりと掴まっていてください。少し、揺れます」


 抱えたまま割れた窓から、外を見下ろした。十階下の路地が、深い闇の底のように見える。普通の人間なら、足がすくむ高さだった。


 しかし矢上は、躊躇なく身を躍らせた。


 心春の悲鳴が夜空を切り裂く。風が二人の体を激しく打ち付ける。しかし、矢上は隣のビルの非常階段に、羽根のように音もなく着地していた。そのまま、階段を駆け下りていく。


 地上に降り立った時、心春はまだ矢上の胸にしがみついていた。震えが止まらない。


「もう大丈夫です。お送りします」


 その声に、彼女はようやく顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃになった顔で、それでも小さく口元を緩ませようとする。


「マスター……ありがとう、ございました」


 神居市の夜風が、二人の間を優しく吹き抜けていった。



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