終わりのクロニクル オリジン

川上 稔

序章『聖者の詩』-01



 夜は何もかもに優しいと、そう思う。



「嘘でしょ……、これ。何よ? 何が襲ってきてるのよ……?」


 終業後の駅ビル内部に、声が響いた。


「……は」


 と、荒い息と共に足を止めるのは、一人の少女だった。


「……どうなってんの? あれ……、狼男?」


 小さな非常灯の下、髪を乱した制服姿は冬の紺。

 抱えているのは、刃物か何かで三本の切り裂きを受けた大きめの黒いケースだった。

 彼女の正面、下りのエスカレーターは動いていない。

 現在の表示階数は黄色で”3F”。

 折り返して降りれば”2F”となる。

 だから、


「そこから外に出るエントランスへ……」


 視線を送ったのは右手側だ。

 テナントが入らず、休憩所のようなスペースとなっている空間には外窓がある。

 窓の向こうに見えるのは、二階外に広がるテラスだった。

 そこに行けばいい。

 外は安全。

 だがその安堵よりも、一瞬、目を奪われるものがあった。


「――――」


 夜だった。



 ……暗い。


 街明かりがあるのに、暗い、暗い暗い窓の向こう。

 あるのは伽藍と晴れた夜の空。

 だが何処までも突き抜ける大気の下。

 立川駅北口と表記されたテラスに出ればいい筈だった。しかし、


「……何で?」


 向かいのビルが壁面時計で夜十時を指す下。

 テラスにも、飲食店の入ってたテナントにも、道路にも、


「何で誰もいないの? 私だけ? ここにいるの」


 気付いたように声を出す。


「チュート君?」


 右手を上げてV字に振るのはモーションコントロール。

 応じるように、空中に光る画面が出た。

 表示枠。

 RARコンソールだ。実際表示式の8インチサイズは、しかし、


《――――》


 ノイズにまみれ、消えかけていた。

 充電課金の不足は無い筈だ。だから、


「ちょっと、どういう……!」


 答えは来た、


《――現在の設定では 表示許可が出ておりません》


「……は!? ここ、立川駅だよ!? 駅ビル!」


 就業時間外のせいかな、と思うなり、追加の説明が来た。


《申し訳ございません 現場監督者に許可を得て下さい》


 その言葉と共に、画面が消えた。

 そして見えたのは夜の向こう。

 窓外。

 見ればテラスの下側、まだ枯れ枝の駅前通りの下には、車の列があった。

 しかし、どの車も動いていない。

 バスも、タクシーも、あるのに、動いていない。

 恐らくは、駅から延びる線路の上にある電車も同じだ。

 それら悉くに、あるべき人の姿が無い。



 誰もいない。



「嘘」


 だって、


「これだと、誰も助けがない……?」


 何だこれは一体。

 世界滅びた? それとも異世界転移? または私が既に死んでる?

 全てまとめて、


「嘘」


 ともう一度言ったら、咳が出た。

 ここまで、上からずっと走りすぎた。

 言葉に続く空咳が、肺の空気を枯渇させる。

 身体を前に折りつつ、唇が言葉を音無く作る。

 御免なさい、すぐに帰らなかった私が馬鹿でした、と。

 腕の中の、傷を持った黒いケース。それを抱きしめる力が強くなる。

 ケースのトップ、メーカーロゴの横にあるマークは、笛のシンボルだ。

 サイドポケットには一つの紙が丸まっていた。

 己は紙を結ぶリボンの白を視界に入れ、


「全部ここからケチがついたんだわ。

 三年分のケチが。それでいつもの隠れ場所でイジケてたら、警備員のお爺さんの姿までなくなってて……、変な影が刃物を振りかざして……」


 その前に、何か、妙な声を聞いた気がした。

 頭に響くような声。

 聞いたことがない響きだった。

 RARコンソールの緊急発信でもない。

 だがそれで目覚めたのだ。

 あれは何? と首を捻り、しかし、返す首を強く横に振った。


 ……早くここから出ないと。


 息をつくと、応じるように頭上で音が響いた。

 直上、上階のエスカレーターから、杭打つように駆け下りてくる足音がある。


「……来た!」



 行こう。


「……うん!」


 自分はケースのストラップを手に掴み、エスカレーターへと身を躍らせた。

 下へ行くことを選択。

 下へ、下へ、下へ、二階へ。

 追加要素は急げという一言だけだ。

 エスカレーターは動かなければ雑な階段。

 アルミのステップを駆け下りて行く。

 足は革靴、強く踏めばステップは堅音を一奏だ。

 走り降りる自分の足音。

 それと重なるように、上から足音が聞こえる。

 だが、そこで全ては終わらない。


「……風?」


 外だった。

 ビルの北面側。

 そちらに、東から一つの音が近づいてきた。

 深く長く広く響く低い音。

 何? と身構えた直後。

 ビルも大気もエスカレーターも、自分も含めて何もかもが、殴られたように横へ震動した。


「――っ!?」



 それは大音。

 飛行機の通過音に似た、身体の感覚を失うほどの大気爆発だった。


 ……うっわ。

 

 全身が震えて総毛が立ち上がった。

 脚など一瞬で止まる。

 身体に聞こえる轟音は高速で東から西へ通過。

 そして後に響く抜けるような風音も、また同じように西へ、西の空へと突き抜けていく。

 沈黙。


「あ」


 と気づけば、音から解放されていた。

 身を一度震わせ、踵をステップ。

 脚に震動を、身に力を。

 感情は叫んでいる。

 意志は前に進むことを望んでいる。そして、


《頑張って!》


 いきなり出て来た表示枠が、聞いたことのない女性の声でそう告げた。



《二階のシャッターをこれから開けるから! 援護も行くけど、急いで!》


 そして、


《――負けないで!》



 ……ああ


 と、己は思った。

 黒革ケースのサイドポケットにある紙。

 賞状。順位は上から三つ目。

 それを今日、貰ったときから聞きたかった言葉が、今聞けた。



 己の望みに逆らうことなど出来はしない。



「は……」


 息を入れて、駆け行く脚に力を入れる。

 下を見れば、エスカレーターはあと数段で終わり。

 急げ、と感情が叫ぶ。

 が、視界から得た情報が心を停めた。

 視界にわずかな闇がかぶっていた。それは上から、エスカレーターの上側から何かが迫っていることを示す影。

 耳の中、上で響いていた足音が消えている。


 ……エスカレーターを、”下りる”んじゃなく”飛び降り”て来た!?


 来る、と思ったときには動いていた。

 手の中、ストラップの握りに力を込め、


「――御免」


 と、ゴルフスイングのような動きをもって、ケースを上に回そうとする。

 叩きつける。

 それをもって不明の迎撃とする。

 その瞬間だった。

 下から、不意に己の動きが止められた。


 ……え?

 

 正面。いつの間にか、目の前に人影がある。

 2F側、下から突っ走って上がって来たのは、


「――――」


 女性だ。

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