序章『聖者の詩』-02
●

「――――」
黒の髪。白の肌。着ているものは、あれだ。

……宇宙開発用の軽装甲服?
インナースーツ基礎の、パワードハーネスを用いた黒い装甲服。学校の授業でも簡易版を着用して救助運搬の訓練があった。
頭に狼耳があるのはファッションだろうか。
しかし、

「……!」
彼女が、狭いエスカレーターを後ろへ、3Fへと突き抜けていった。
何? と思うより先に、肩を背後から叩かれる。
行けと、そう言われたのだ。だから、

「……!」
行く。
背後。エスカレーターの上階側から激音が重なった。
樹脂材の破裂音と金属の軋みは、足下への振動としてエスカレーターのフレーム破砕を伝えてくる。
更に、

「……!!」
あの女性では無いだろう。何者かの太い悲鳴が聞こえてきた。
更に打撃音。五発が一瞬。
そして、

「――――」
構わず自分は走った。
●
解らない、と己は思った、

……解らない。
今、何が起きているのか。
今、何が起こしてるのか。
解らないことばかりだ。
上。獣の声がする。先ほどのとは別のものだ。
他にも”あれ”がいたのだろう。
あれは何なのか。
この状況は何なのか。
すれ違い、激音のぶつけ合いに入った女性は何なのか。
解ることは何も無い。
だが、もう構わない。
視界の中、正面に、両開きの硝子扉がある。

……出口!
開いていた。
シャッターも、そこだけは何故か降りていない。
ゴールだ。
あの扉、空白を抜ければ、駅ビルの二階を南北に貫く立川駅のエントランスだ。
行った。

「……っ!」
息が外気に散った。
逃げ切ったのだ。
●
安堵からか、転んだ。
一回転と半分。
肩から黒のケースのストラップが剥がれ、

「あ」
ケースが自分よりも向こうに転がった。
急いで回収しようとして、

……うわ。
立てない。
エントランスの床、タイルの上に手と膝をついた。
そして気付いた。
やはり無人だと。
●
周囲、誰もいない空間がある。
幅十五メートルほどの広い通路、立川駅のエントランス。
すると、不意に右手の甲に一つの感触が来た。柔らかく湿ったものだ。
何かと思って見れば、猫だ。まだ幼さの残る茶色い猫がいる。
しかし、猫という存在があることに、己は背筋を震わせた。
周囲、見れば人影が一つもない。
今まで見たのは、襲ってきた影と、すれ違った女性だけ。
上から見たロータリーも無人だった筈。
この猫も自分と同じなのかと、自分は猫を抱き上げる。
一瞬だけ合わせた視線の先、猫がこちらを見上げたが、身体を持ち上げると目を細めた。
だから決めた。連れて行こう、と。
立ち上がる。

「とにかく北口のテラスへ……」
とつぶやき、右手側、テラスに繋がるエントランスの北口を見た。
そのときだ。
テラスの向こう、ロータリー側に金属音を伴った風が落ちた。
見れば、ロータリーに立った風は、巨大な灰色の姿をしていた。

『――――』
人型の機械として、だ。
●

「は……? ちょっと、チュート君」
いきなりのことに疑問し、習慣から表示枠を呼ぶが、

《――――》
駄目だ。
空中にグリッチノイズが散って限界。何も出て来ない。
ならば答えは正面にしかない。
前方。テラスから上半身を突き出す身長は十メートルを下らない。全身は灰色の、

「ロボ……、いや、――鎧?」
疑問に答えるように、巨大なシルエットが身を起こす。
そしてこちらに顔を向けた。

『――――』
巨体の顔の中、目のあたりで赤い光が二つ。
見られている感覚が、確かに来る。

……うわ。
鼓動がすくみ、身がしぼむ。
息が出来ず、そこで初めて怯えているのだと自覚する。
すると、震えた腕の中で、猫が身じろいだ。
腕の締め付けをきついと言うように、だ。
猫が鎧の視線など気にもせず、甘えるような鳴き声を挙げた。
場違いな声に、己の口から、ふと、苦笑が漏れた。

……あー、くそ。
思う。自分の恐怖は猫には無関係だと。
何も解らないこの猫は、怯えていないと。

「――私だってそうなのにね」
●
何も解らない。
●

「は」
浅い吐息を一つ。それを合図とするように、身に力が戻る。
いける、いける、と二度思う。
左。
自分がいるエントランスとテラスの間、下へと降りる階段がある。
あの巨人の大きさから言って、テラスの下に回り込むのは容易ではない筈だ。
階段までは距離十五メートル。
全力なら三秒かからない。
だから決断、即座に走る。
一歩目から全力で。だが、

「あ」
と気づいたときには、右足を引っかけられたような動きで転んでいた。

「な、何!?」
痛みよりも驚きで身体を跳ね起こす。
見れば右足の先、革靴が転がっていた。
靴の口からサイドソールまでが裂けている。
先ほどエスカレーターを駆け下りたときに裂いていたのか。
しまった、と立ち上がろうとした右の足首。
そこに痛みが来た。
立てない。
膝から力が抜け、自分は冷たいタイルの床に転がった。
く、と声が漏れ、倒れたまま背後を見た。テラスの向こう、巨人がこちらに右腕を掲げている。その右腕の外側に何か筒のようなものがある。

『――――』
どう見ても、砲だ。
狙われている。
●

「あ……」
と更に声が漏れ、続きそうになる音を飲み込む。
すると涙が出た。
そして己は気づく。自分の抱いていた猫が、倒れた腰のあたりにいることに、だ。
猫は倒れたこちらを気遣うように、脚に首をなすりつけてくる。
もはや反射的な動きで、自分は猫を抱きかかえた。
守る。
そのまま巨人を見上げ、睨む。
次の瞬間。

『……!』
巨人の右腕。砲の先端から、こちら向きの力が炸裂した。
まず初めに見えたのは炎。
続く一瞬で白い煙が大気を走って来た。
風走る先から響くのは、大気を貫く高い音。
砲撃。
来る。
そして危険だ。
自分は再び立ち上がろうとする。

「……っ!」
喉から漏れるのは、悲鳴ではなく、己への憤り。
抵抗を叶えようと望む声は、

「――!」
だが、敵の放った力が一瞬で眼前に到達。
爆発した。
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