第8話 風の中の笑い声

中目黒の空は雲ひとつない晴天だった。

春の陽射しが街をやわらかく照らし、目黒川沿いの桜が賑やかに咲き誇っていた。川辺にはカメラを構える人たちや、桜を見上げて歩くカップルの姿があり、まるで春の歓喜に街の隅々まで満ち溢れているようだった。チェリーブラッサムの屋上は、朝からすでに活気に満ちていた。

テーブルには花柄の紙皿やカップ、色とりどりのクロスが広げられ、京子が楽しげに飾り付けをしている。白いガーランドが風に揺れ、紙で作られた桜の花がまるで本物のように春の空気に溶け込んでいた。

「こっちのテーブル、もうちょっと下げたほうがいいかも!」

「了解です! ……えっと……こんな感じ?」

「バッチリ! あ、スピーカーはこっちの隅に置こうかな」

京子の指示で動いていた事務所の男性社員たちが、それぞれの位置にスピーカーやクーラーボックスを設置していく。京子はその様子を見ながら、紙コップの数を丁寧に数えていた。

「氷、届いたよ」

「ありがとう、冷凍庫に入れておいて。あと、ジュースも冷やしておきたいから、隣のボックス空けておいてくれる?」

「了解」

みんなが協力して準備を進める中、チェリーブラッサムのマスターも、料理と飲み物を入れたカートを押してやってきた。

「はいはい、お待たせ。桜の下で飲むビール、特別に用意してきたからね」

「マスター! ありがとうございます!」

屋上には桜の花びらが舞い、淡い桃色の絨毯のように広がる。ふわりと燻された香りが立ち上り、マスター自慢の料理が並んでいた。特に彩り豊かな春野菜のサラダは、桜の花房を器に閉じ込めたような美しさだ。横には、食欲をそそるパスタや揚げ物も並ぶ。木製のテーブルには、淡いピンクとアイボリーのクロスが敷かれ、桜の紙皿が春の気分を演出していた。グラスに注がれたフレーバーウォーターは、夕方の光を浴びてきらりと輝く。低く流れるジャズの音色が、会話と笑いの波を心地よく包む。風がひと吹きするたびに花びらが肩や髪にひらりと舞い降り、歓声が再び上がる。美しさと日常が交錯する空間で、みんなのテンションは自然と高まっていった。

「これ、最高の花見になるな」

「うん、ほんとに。晴れてよかった」

少し遅れて、宗司が賑わいに飛び込むように屋上のドアを開けて現れた。彼は冷えたビールボトルを誇らしげに片手に持ち上げ、まっすぐ皆の中心へと駆け寄る。

「すみませーん、乾杯まだですか?」

「宗司さん、来るの早すぎですって」

「いやいや、準備してる女子たちを応援しようと思ってさ」

「口だけで手伝ってくれないんだから、もう」

笑い声があちこちで響く中、皆の顔には自然と笑顔が浮かんでいた。

やがて、屋上のドアが静かに開いた。 そこに現れたのは蓮太郎と美幸だった。 蓮太郎はいつもより少しだけカジュアルな装いで、ふと風を背負うようにして屋上に足を踏み入れた。 彼の顔にはまだ微かな疲れが残っていたが、どこか吹っ切れたような晴れやかさもあった。その歩幅はいつもよりゆっくりで、傍らにいる美幸と意識的に歩調を合わせていた。美幸は、薄手のスプリングコートに身を包み、差し入れの紙袋を大事に抱えていた。いつものように柔らかな笑みを浮かべながらも、目の前の花見の光景に少し目を丸くする。

二人の姿を見て、京子がぱっと目を輝かせた。

「社長! ようやく来てくれた〜!」

「ごめんごめん。ちょっと道草してた」

「いいんです、来てくれて嬉しいです」

美幸も紙袋を抱えて頷く。

「あの!差し入れ持ってきました。マスター!料理最高ですね。ありがとうございます」

マスターが手を挙げて応える。少しして、飯塚も合流し、屋上がさらににぎわいを増す。京子がスピーカーのボリュームを少し下げ、皆の中心で手を叩いた。

「じゃあ、そろそろ始めましょうか。社長、乾杯の音頭を!」

蓮太郎は一歩前に出ると、軽く息を吸い、皆の顔を一人ひとり見渡す。

その目にはまだ微かな翳りがあったが、それでも今ここに集まった仲間たちの顔が、確かに彼の心を照らしていた。

「今日は、みんな、忙しい中ありがとう。こうして毎年、屋上で花見ができるのも、ここにいる皆のおかげです」

言葉を切って、蓮太郎はマスターの方に目を向けた。

「そして、マスター。本当にありがとう。美味しい料理とビール、楽しみにしてました。乾杯!」

蓮太郎がそう締めくくると、皆が一斉にグラスを掲げ、場に柔らかな笑いが広がった。その姿を美幸は少し離れた位置から静かに見つめていた。 グラスを片手に皆を前に穏やかに言葉を紡ぐ蓮太郎。どこかまだ寂しげな面影を残しながらも、久しぶりにその表情に温かさが戻っているように思えた。

声の抑揚、立ち姿、軽く視線を落とす癖——それらすべてが、変わらない蓮太郎のままだった。 けれど、ほんの少しだけ、何かが変わりはじめている。そんな予感がした。風がそっと吹き抜け、美幸の髪をやさしく揺らした。クラフトビールの泡が陽の光にキラリと輝き、グラスの中の春が、屋上にそっと広がった。

風の中に、一瞬だけ桜子の笑い声が混じったような気がして、美幸はそっと空を見上げた。

その空はどこまでも高く、青く、

そして——すべてを受け入れるようにあたたかかった。





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