第3話 バニラの約束

 古びたレトロ喫茶のカウンター。

手回しミルの音とジャズが流れる店内に、バニラシェイクの甘い香りが漂う。


 さつきはカウンター越し、男のブラックコーヒーにそっと角砂糖を添えた。


 かつて彼には、決まって彼女がいた。

その彼女のために作ったバニラシェイクの香りは、今もさつきの記憶をかきたてる。


 そして今日、彼はひとり。


勇気を出して、さつきが声をかける。


「…あの、今日私、早上がりなんです。よかったら…どこか行きませんか?」


男は意外そうに顔を上げた。


「いいのか?」


「はい…あの…」


 奥ゆかしさと不器用な好意が透ける、その仕草。

男はふっと笑う。


「なら付き合えよ。どこ行きたい?」


「ボウリング…してみたいです」



 夜のボウリング場。

さつきは初心者、藤原はスッとフォームを決めてストライクを出す。


手取り腰取り教えるうち、ふいに触れる指先。

さつきの心臓は跳ね、手汗で滑る球に思わず笑い合った。


 そのあとドライブ。

レトロな音楽を流しながら、沈黙も心地いい。


 藤原は車を止めると、運転席のドアを開けて降りた。小さな喫茶店の前。


助手席側へまわり、ドアを開ける。


「着いたぞ」


けれど、さつきはシートに座ったまま、じっと夜の街を見つめている。



「…もう少しだけ、ドライブ…したいです」



「お姫様がお望みなら」



 向かったのは、かつて地元の若者たちの秘密基地だった空き地。

そこに残る一斗缶の焚き火台に、藤原が火を灯す。


 ふたりでひとつのブランケットにくるまり、膝を寄せ合う。

さつきは少し震え、藤原はそっと肩を抱く

「ありがとうな。振られた俺のために、気ぃ使ってくれて」


「…気を使っただけじゃないです。…でも、もし無理してるって思われたら、嫌われますか?」


潤む瞳。

男は優しく頭を撫で、額にキスを落とす。


「そんなわけないだろ。…嬉しいよ」


 焚き火の炎が、ふたりの影を揺らす。

甘い香りがふわりと漂う。


「…この香り、前に作ってくれたバニラシェイクみたいだ」


と、男。


さつきは少し笑い、炎を見つめたまま囁く。


 ふと香りを思い出したら、そのとき…あぁ、こんな夜もあったなって、笑ってください



静かな時間。

言葉はなくても、ふたりの距離はもう充分だった。



 そして年月は流れ——


今、喫茶店のカウンターにはふたりの老夫婦。


 藤原はシブい大型バイク乗り。

サイドカーには、さつき。


さつきはバニラシェイク、男はブラックコーヒー。


「若い頃、ここで焚き火しただろ」


「ええ、あのとき…焚き火の匂いと、バニラの甘い香り。いまも思い出すわ」


ふたりは目を合わせて笑った。


 外では若いカップルが、昔のふたりのようにバニラシェイクを半分こしている。


人生には、甘くて、少し切なくて、でも温かい「バニラの約束」がある。


 今も、変わらずその香りは、ここに漂っている。

 

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