Vanilla Memories

逸漣

第1話 初恋バニラ

 停電の夜。

部屋の灯りがすべて消え、静かな闇が降りてくる。

 懐中電灯の電池は切れて、頼れるのは小さなアロマキャンドルだけ。

揺れる炎と、懐かしいバニラの香りが、そっと部屋を満たしていく。


「ほんと、お前んちって物持ち悪いな」

幼なじみの声。少し笑っているのに、どこかぎこちない。

私は隣に座り、軽く肩を触れる。言葉にしなくても、二人の間に昔からの距離感がある。


 暗闇の中で、私は彼の左腕にある古い傷跡に目が止まる。

幼い日のことを思い出す――私を守ろうとして、犬に噛まれたあの傷。

そっと手を伸ばし、腕に触れただけのつもりが、自然と唇が触れてしまう。


「……なんだよ、急に」

彼の目に戸惑いが映る。少し熱を帯びた瞳。

私は笑みを返す。胸の奥がじんわりと甘くなる。


「ありがとう、って、ずっと言えなかった」

目を伏せる私の顎を、彼は軽く持ち上げる。

「好きな女の子くらい、守れないとな」

唇が重なった。甘く、少し苦い、長い年月の想いが胸に押し寄せる。


「ガキ大将からも守ってくれたね。あのパンチの方が痛そうだったけど」

「もっとかっこいいヒーローになりたかったな」

「私には、もう最高のヒーローだった」

キャンドルの揺れる光が、二人の影をひとつにする。








 

夜が明ける少し前、炎は小さくなり、部屋は淡い青に染まる。

彼は窓の外を見上げる。空がうっすら白み始めていた。

寄り添い眠る二人に日が差し始める。


 

「……帰んなきゃ」

私は小さく頷く。恋人がいる現実も、でもこの夜の特別は消せない。

「お前さ、まだあの彼氏と続いてんの?」

「うん」

「お前は?」

「東京の大学で彼女いる」

沈黙が二人を包む。言葉にせずとも、胸の奥で“特別な存在”を確かめ合う。


「……まだわかんねぇけど、帰ってきたいな」

会いたいとも、約束してとも言わない。それでも、気持ちは伝わる――次に会うときも、またこうして寄り添う予感を胸に抱きながら。


 

朝の光に包まれ、彼はそっと歩き去る。

残るのは、甘くて懐かしいバニラの香りと、胸の奥でゆらめく一夜の余韻。

誰にも触れられない、二人だけの秘密。

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