夜明けの空にまいた種
kou
夜明けの空にまいた種
静かな部屋に、時計の秒針だけが響いている。
壁の時計の短針は、とうに夜を指し示していた。
座卓の上の参考書とノートの山。
その間から顔を出すようにして、少年はシャーペンを走らせる。向かいの席では、少女が、長い髪を揺らしながら数式と格闘していた。
隼人と瑠奈は、通う中学校が異なっていた。
けれど、中学3年生になった冬、週末は集まり、受験勉強をするのが恒例になっていた。
「もう無理、脳みそが沸騰する」
瑠奈は、大きく伸びをした。
「休憩にするか」
隼人は瑠奈にココアを淹れた。
「……ねぇ、隼人」
瑠奈は温かいココアを口にし、真剣な眼差しでこちらを見た。
「やっぱり私、隼人と同じ高校、受けようかな」
彼女の言葉に、隼人は不審を感じた。
瑠奈が目指しているのは、伝統的な身体文化教育がある高校。対して隼人が目指すのは、ありふれた普通科の高校。
目指す場所は、まるで違う。
「どうした。お前、居合道が好きで行きたいって言ってたじゃないか」
「……だって、その方が楽しいかなって。高校まで別々とか、なんか寂しいし」
落ち着かない様子の瑠奈に、隼人はため息をついた。
「瑠奈の夢は、俺と一緒にいることなのか?」
「!……っ、そういう訳じゃ」
瑠奈は、しどろもどろになった。
「だったら、俺に合わせるな。瑠奈は自分の行きたい場所に行くべきだ。俺も、自分の行きたい場所に行く。それだけだ」
少し、言い方がきつかったかもしれない。
気まずい沈黙が、部屋の空気を重くする。
二人は男女だが、友達だ。
だからこそ、互いの未来をなあなあにしてはならない。
「……続けるぞ」
隼人がそう言うと、瑠奈はこくりと小さく頷き、再びシャーペンを手に取った。時計の音と、二本のシャーペンが紙をこする音だけが、部屋に満ちていく。
どれほど時間が経っただろうか。
ふと顔を上げると、瑠奈が机に突っ伏して、すぅすぅと穏やかな寝息を立てていた。
「瑠奈。カゼひくぞ」
声をかけたが、起きる気配はない。連日の勉強で、疲れが溜まっていたのだろう。隼人は吐息を零し、カーディガンを、そっと彼女の肩にかけた。
眠っている瑠奈の顔は、幼く儚げだ。
彼女の夢を、一番近くで応援しているのは自分だと自負している。だからこそ、甘えさせてはいけない。そう思うのに、この寝顔を見ていると、守ってやりたいという気持ちが胸の奥から湧き上がってくる。
矛盾した感情に小さく首を振り、隼人は自分の勉強に戻った。瑠奈の分まで、進めておく。彼女が起きた時に、教えてやれる程に。
そこからの時間は、驚くほど速く過ぎていった。
数学の難問に没頭し、英語の長文読解へと移っていた。集中力の波に乗り、次々と問題を解き進めていく。
ふと、目の隅で窓の外が、白んでいた。
夜が明けていたのだ。
「……ウソだろ」
隼人の背筋を、冷たい汗が伝った。
瑠奈はまだ、机に突っ伏したまま眠っている。
(やばい……!)
女の子を、自分の部屋に泊めてしまった。
瑠奈の両親に何て言えばいい? ぐるぐると最悪の事態が頭を駆け巡り、心臓が早鐘を打ち始める。
「る、瑠奈! 起きろ、朝だぞ!」
慌てて揺り起こすと、彼女は「ん……」と身じろぎし、ゆっくりと顔を上げた。寝ぼけ眼で部屋を見回し、やがて窓の外の光に気づく。
「……あれ? もしかして……」
「そうだ。やっちまった……」
頭を抱える隼人の前で、瑠奈は数秒間ぽかんとしていたが、やがてクスクスと笑い出した。
「なんで笑うんだ!」
「ごめん、隼人がそんなに焦ってるのが面白くて。仕方ないじゃない、私朝帰りだね……」
瑠奈は悪戯っぽく笑うと、座卓から立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。
東の空は、深い藍色から燃えるようなオレンジ、それから柔らかな金色へと、美しいグラデーションを描いていた。
街の輪郭が、少しずつ闇から浮かび上がってくる。
夜が、新しい朝を連れてきていた。
「綺麗だね」
と瑠奈が呟く。
その横顔を見ながら、隼人は静かに口を開いた。
「なあ、俺たちが今やってることって、これみたいだなって思うんだ」
「これ?」
「夜明けの空に、種を蒔いているんだよ。今はまだ暗くて、どこに落ちるかも、どんな芽が出るかも分からない。でも、必死に蒔き続けてる。俺と、瑠奈は、違う場所に落ちる。だから……」
隼人は言葉を選びながら、続けた。
「瑠奈は、瑠奈の場所で、綺麗な花を咲かせなきゃダメだ。俺の隣じゃない、お前だけの場所で」
それは、先程のきつい言い方とは違う、不器用な本心。瑠奈は黙って空を見つめていたが、やがて柔らかく微笑んだ。
「うん。分かった。……ありがと隼人」
その笑顔に、隼人の胸のつかえがすっと消えていく。俺達はこれでいい。違う道を歩いても、この空の下で繋がっている。
「それぞれの場所で、一番綺麗な花を咲かせようね」
瑠奈の言葉に、隼人は同意する。
まだ肌寒い夜明けの空気の中、二人は同じ空を見上げていた。
種は、この美しい光を浴びて、やがてそれぞれの未来で、きっと芽吹くはずだ。
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