第2話 薬剤師

 佐野と小毬は、破壊されたアパートの裏口から、夜の野木町の闇へと滑り込んだ。追手の権藤と仁平が乗る黒塗りのジープは、アパートの正面に止まり、大男の権藤が、プロレスラー時代を思わせる巨体で、佐野の部屋へと駆け上がっていくのが見えた。

​「権藤は単純よ。部屋が壊れていれば、佐野さんがまだ中にいると思うはず」小毬は、肥満体にもかかわらず、訓練された射撃や乗馬の特技が示す通り、驚くほど身軽に雑木林の中を駆け抜けた。

​「庄屋の隠し倉庫の場所は?」佐野は脇腹の傷を庇いながら問う。

​「駅前の古い水路沿いの道を抜けて、寂れた団地の向かい側よ。あそこは昔、庄屋の屋敷林だった」

​ 佐野は、全身の傷の痛みに加え、澱読みを使った後の疲労感に襲われていた。彼は総括局の優秀な計算士だが、肉体的なタフさはない。このまま追跡を続ければ、捕まるのは時間の問題だった。

​ 彼らが、夜道を走るトラックの喧騒から逃れるように、一本裏の細い路地に入ったその時、目の前に一筋の光が見えた。

​ それは、一軒の薬局だった。

​ ガラス戸の奥には、わずかな作業灯の光を頼りに、誰かがデスクに向かっている。そのシルエットを見て、佐野はハッとした。

​「結城さんだ…!」

 ​そこにいたのは、昼間図書館で出会ったリファレンス係の結城梓だった。彼女は、昼間の仕事の後、近所の小さな薬局で薬剤師としてアルバイトをしていたのだ。

​ 佐野は迷わず、小毬を連れて薬局の裏口に駆け込んだ。

​「結城さん!助けてくれ!」

​ 結城は驚いたが、血と埃にまみれた佐野と、彼に縋りつく小毬を見て、瞬時に状況を察した。彼女は動揺を見せず、その機関銃のような食欲とは裏腹の、冷静沈着な判断力を発揮した。

​「佐野さん、その傷は深い。奥の休憩室へ。小毬さん、あなたは薬局のカウンターへ隠れて。私は今、処方箋を整理しているだけ、のフリをする」

​ 結城は、佐野の脇腹の傷を素早く消毒し、手慣れた手つきで止血と包帯処理を行った。彼女の迅速で正確な手つきは、ただの図書館員ではないことを示していた。

​「あなた…総括局に追われているのね」

 結城は包帯を巻きながら静かに言った。

​「違う、第三の勢力だ。彼らは庄屋の鍵を狙っている」

​ 結城は、佐野の言葉に表情を変えなかったが、薬局のカウンターに戻ると、佐野が図書館で調べた一角獣の頭骨と、野木町の水神信仰に関する文献のコピーを佐野のポケットに押し込んだ。

​「これを。私にできるのは、これだけ。私も総括局には借りがあるから、深くは関われない」

​ しかし、時すでに遅し。

​ 権藤と仁平が乗るジープが、薬局の前の通りをゆっくりと通り過ぎていくのが見えた。権藤は、佐野の逃走経路を、プロレスラー時代の勘で絞り込んでいた。

​「見つかったわ…!」

 小毬が青ざめた。

​ その時、仁平が鋭い視線で薬局の裏手、古い水路の蓋を見つめた。

​「権藤さん。ここの下、水路が庄屋の倉庫まで繋がってる。匂うな…」

​ 権藤はジープを止め、薬局に降りてきた。

​「結城梓!知っているだろう、計算士を隠したな!」

 権藤は薬局のガラス戸を叩き割ろうとするほどの勢いで威嚇した。

​ 結城は一歩も引かず、カウンターの内側から静かに言った。

「何の御用ですか、権藤さん。私はただの薬剤師です。あなたのような血まみれの客は、お断りです」

​ その瞬間、佐野は、薬局の地下から、微かな水の音と、異臭を感じた。

​ 淀み喰いだ。彼らは、博士を襲った後も、鍵を求めて水路を移動している。

​「小毬、水路だ!鍵の暗号を解くには、あの庄屋の古い水利地図が必要だ!」

​ 佐野は、結城に感謝の意を込めて頷き、小毬と共に薬局の地下室へのハッチを開けた。

​ 彼らが地下へと降りた直後、権藤が薬局のドアを蹴破った。

​「逃がすか、四眼め!」

​ しかし、権藤の足元から、水路の蓋が持ち上がり、黒くぬめった巨大な手が、権藤の足首を掴もうと伸びてきた。

​ 淀み喰い。彼らの戦いは、庄屋の鍵が隠された、野木町の地下水路へと持ち込まれるのだった。

​ 地下水路に舞台を移し、佐野はどのように淀み喰いや追跡者を退け、暗号を解読するでしょうか?

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