第13話 静止する世界 ―沈む夜―
二月第一週、金曜の夜——遥斗
シャワーを浴び、灯りを少し落とした。
湯気の残る空気が、肌にやわらかくまとわりつく。
ソファに腰を下ろす。
テーブルの上には開けかけのワイン。
グラスの底に残った赤が、照明を受けてゆらめいている。
静かだった。
時計の針がひとつ音を立てる。
スマホを手に取り、画面を開く。
莉緒との今日を思い出す。
レストランで向かい合った笑顔、指先が触れた瞬間のぬくもり。
胸の奥が、じんわりと熱を帯びた。
——莉緒といると、本当に幸せだ。
短く打つ。
『今日もありがとう。また明日。』
数秒後、既読。
『こちらこそ。おやすみなさい』
画面を見つめ、息が少し緩む。
小さく笑って、グラスを揺らした。
赤い液面がゆっくり波を描く。
静かな夜。
世界が、音もなく止まっているようだった。
スマホが震えた。
淡い光がテーブルを照らす。
画面に浮かぶ名前——『美香』。
笑みが消える。
指先が止まったまま、しばらく見つめた。
着信音が、静寂を切り裂く。
息を吸う。
そして、ゆっくりと指を滑らせた。
「……もしもし」
「……遥斗」
声が、わずかに震えていた。
「美香……どうした?」
鼓動が速くなる。
胸の奥で、何かがきしむ。
「話があるの」
「……電話じゃ、ダメなのか?」
「会って話したいの。お願い」
静かながら、拒めない力を含んだ声だった。
嫌な予感が、喉の奥で重くなる。
「……いつ?」
「明日の朝。駅前のカフェで、十時」
「……分かった」
「ありがとう」
通話が途切れる。
部屋の空気が変わった気がした。
息を吐くと、冷たいものが背を這う。
何の話だ……。
ソファに沈み、天井を見上げる。
外では風の音だけが続いている。
幸福の夜が、音もなく幕を下ろした。
眠れぬまま、夜が明けていく。
二月第一週、土曜、午前十時。
駅前のカフェ。
遥斗は約束の時間より少し早く着いた。
店内は静かで、コーヒーの香りが淡く漂っている。
窓際の席に腰を下ろし、外を眺めた。
冬の光が、ガラス越しに白く射し込む。
手のひらに、汗がにじむ。
冷たいはずの空気が、息苦しいほど重く感じた。
何を話すつもりなんだ——。
十時ちょうど。
ドアのベルが鳴る。
美香が入ってきた。
少し痩せた肩。
コートの襟を握る手が、かすかに震えている。
目の下には、深い隈。
その姿を見た瞬間、胸の奥がざわめいた。
「……久しぶり」
小さな声だった。
遥斗は、返す言葉を探すように息を飲んだ。
「……久しぶり」
「うん」
視線を合わせられない。
二人、向かい合って座る。
湯気の立つカップが、ゆっくりと冷めていく。
テーブルの上で、美香の手が小さく震えていた。
「……あのね」
美香は一度、深く息を吸った。
声を整えるように、唇がかすかに震える。
「私……妊娠してるの」
時間が、止まった。
遥斗は瞬きを忘れたまま、美香を見つめる。
その一言が、空気の温度を奪っていく。
「……え?」
「三か月。病院で確認したの」
美香はバッグから封筒を取り出し、そっと置いた。
白い紙が、光を受けて静かに揺れる。
「……三か月」
遥斗の喉が鳴る。
頭の中で、日付を追う。
十一月中旬——あの日。
血の気が引いた。
呼吸が浅くなる。
声が出ない。
「……三か月……」
頭の中で逆算する。
十一月中旬——まさか、あの日。
指先から、血の気が引いていく。
胸の奥が、ひやりと冷たくなる。
「……そんな……」
声が出なかった。
喉が固く閉じて、息だけがこぼれる。
「あなたの子よ」
その言葉が落ちた瞬間、美香の目に涙が滲んだ。
まっすぐに見つめられ、逃げ場を失う。
「他に誰もいないの」
「ま、待ってくれ……」
遥斗は両手で頭を抱える。
世界がわずかに揺れて見えた。
「……信じられないの?」
美香の声が震える。
その震えが、胸に刺さる。
「いや、そうじゃなくて……」
言葉が続かない。
喉の奥で、音が途切れた。
——よりによって、あの時。
カップの水がわずかに揺れた。
震える手が、それを止められない。
「私ね……最初は、嬉しかったの」
美香の声は小さく、かすれていた。
涙を堪えながら、唇が震える。
「遥斗の赤ちゃん……私たちの赤ちゃん」
頬を伝う涙が、テーブルの木目に落ちて滲んだ。
「でも……一人じゃ、怖くて」
その言葉が、途切れながら零れる。
指先がカップを握りしめる。
白くなるほど力が入っていた。
「……美香」
呼びかける声が、空気の中で溶けた。
「どうしたらいいのか、分からないの」
顔を覆い、肩が震える。
遥斗はただ、目を伏せたまま動けない。
「ねえ……」
美香はゆっくりと顔を上げた。
涙で濡れた瞳が、まっすぐ遥斗を見つめる。
「私と——やり直してくれない?」
沈黙。
遥斗は言葉を失った。
世界が、再び静止したようだった。
「お願い。戻ってきて——」
「あなたの子どもなのよ——」
その声は、震えながらも真っすぐだった。
美香の瞳が、縋るように揺れる。
「……ごめん。今すぐには……何も言えない」
遥斗の声は掠れていた。
頭の中が真っ白で、言葉が形にならない。
「……そう」
美香の肩が、わずかに落ちた。
カップの中のコーヒーが、微かに揺れる。
「少し……時間がほしい」
「分かった。連絡、待ってる」
美香は立ち上がった。
その動作が、まるで夢の中のようにゆっくりだった。
遥斗も立ち上がる。
足が震えて、思うように動かない。
「……ごめんね。こんな形で」
小さく笑おうとした唇が、歪む。
それでも涙は見せなかった。
ドアのベルが鳴り、冷たい風が差し込む。
そのまま、美香は店を出ていった。
遥斗はその場に立ち尽くした。
周囲の音が遠のいていく。
時間が止まったような感覚。
【断章:美香(回想)】
一月中旬——。
遥斗と別れて、もう二か月が経っていた。
カレンダーを見つめる。
数字の上に、重く影が落ちている。
……生理、遅れてる。
胸の奥で、心臓の音が響いた。
ひとつ、ふたつ——そのたびに不安が膨らんでいく。
ドラッグストアの棚の前で立ち尽くす。
誰にも見られたくなくて、俯いたまま手を伸ばす。
検査薬の箱を握る指が、かすかに震えた。
レジの電子音が、やけに大きく響く。
帰り道の空気は冷たく、頬に刺さるようだった。
自宅のトイレ。
白いタイルの床。
自分の呼吸だけが聞こえる。
結果を待つ数分が、永遠のように長い。
壁の時計の針が、やけに遅く動いて見えた。
結果は——陽性。
「……嘘……」
膝から力が抜けた。
床の冷たさが、肌を通して現実を知らせる。
ベッドに横たわり、天井を見つめる。
呼吸が浅く、胸が小さく上下するだけ。
——遥斗の、子ども。
お腹に手を当てる。
その下に、温もりがあるような気がした。
本当に、いるの……?
目の奥が熱くなり、涙がこぼれる。
嬉しいのか、悲しいのか、もう分からなかった。
一月下旬——。
意を決して、病院へ向かう。
待合室の時計の針が、静かに進む音だけが響く。
手のひらが汗ばみ、冷えた指先を握りしめる。
「妊娠十三週目ですね。おめでとうございます」
医師の声が遠く聞こえた。
意味は分かるのに、言葉が体の奥に届かない。
小さなエコーの画面に、かすかな鼓動が揺れていた。
——本当に、いるんだ。
胸が締め付けられる。
呼吸を整えようとしても、うまく吸えない。
診断書の封筒を握りしめ、歩く。
街の喧騒が遠く、音だけが霞んでいく。
人の流れの中で、自分だけが止まっているようだった。
公園のベンチに腰を下ろす。
風が頬をかすめる。
指先が冷たく、震えている。
どうしよう……。
通り過ぎる人たちは、誰も気づかない。
一人で抱えきれない重さが、胸の奥に沈んでいく。
実家——両親への告白。
「美香……本当なの?」
母の声が、静かに震えた。
「うん」
答えた途端、涙があふれる。
嗚咽をこらえても、止まらなかった。
「彼に話したのか?」
父の声。
短く、いつもより低い。
「まだ……」
「一人で抱え込まないで。私たちがいるから」
母が近づき、そっと肩を抱いた。
その手のぬくもりに、張り詰めていた心がほどける。
美香は母の胸に顔を埋め、声を殺して泣いた。
夜、ひとりの部屋。
スマホを手に取っては、また置く。
画面には、遥斗の名前。
指先が、その文字をなぞる。
けれど、押せない。
何て言えばいいの……。
戻ってきてくれる?
それとも、また拒絶される?
考えるたびに、胸がきゅっと縮む。
怖くて、指が動かない。
二月初旬——。
窓の外では、静かに雪が降っていた。
鏡の前に立つ。
お腹は、ほんの少し膨らんでいる。
自分でも気づかないうちに、姿が変わり始めていた。
——もう、逃げられない。
窓の外の雪は冷たく、白い。
けれど、胸の奥には、確かな温もりがあった。
自分の中に、命がいる。
その事実だけが、心を静かに支えていた。
二月初旬——。
外では、雪が静かに降り続いていた。
鏡の前に立つ。
お腹は、少しだけ膨らみ始めている。
手のひらをそっと添えると、そこに確かな温もりを感じた。
——もう、逃げられない。
窓の外の雪は冷たく、夜の光を淡く反射している。
けれど、自分の中には、ひとつの温かい鼓動。
その小さな命が、静かに背中を押してくる。
この子のために——。
ちゃんと、伝えなきゃ。
二月第一週、金曜の夜。
決意の時。
深呼吸を何度も繰り返す。
震える指で、遥斗の番号を押した。
呼び出し音が鳴るたび、胸の奥が強く跳ねる。
「……もしもし」
その声を聞いた瞬間、涙が滲んだ。
けれど、震えを悟られないように息を整える。
「……遥斗。話があるの」
短い沈黙。
その一言が、ふたりの運命をゆっくりと動かしていった。
二月第一週、土曜の午後——遥斗。
カフェを出て、足の向くまま歩く。
風が冷たく、頬に刺さる。
気づけば、自分の部屋の前に立っていた。
ドアを閉めた瞬間、膝から崩れ落ちた。
床の冷たさが、現実を突きつけてくる。
——妊娠。
美香が……俺の子を。
頭を抱える。
呼吸が浅く、胸が締め付けられる。
思考が音を立てて崩れていく。
ソファに身を投げる。
手が震えて止まらない。
三か月——。
十一月中旬。
莉緒が告白してくれた、あの日の前日。
記憶の奥で、あの夜の光景が蘇る。
雨の音、息づかい、背中に残る温もり。
——なんてことを。
喉の奥で、かすれた声が漏れる。
自己嫌悪が波のように押し寄せる。
そのとき、スマホが光った。
暗い部屋の中で、小さな光だけが揺れる。
『今日、会えませんか?』
——莉緒からのメッセージ。
今日は、会う約束をしていた。
指が止まる。
画面の光が、やけにまぶしい。
言葉が浮かばない。
何をどう伝えればいいのか、分からない。
莉緒に……何て言えばいい。
しばらくして、ようやく打ち込む。
『ごめん。体調が悪くて……』
送信。
数秒後、画面が光る。
『大丈夫ですか? 無理しないでくださいね』
その優しさが、胸に刺さった。
息を吸うたび、痛みが広がる。
同じ夜。
ベッドに横たわっても、眠れない。
天井の影が、ゆっくりと伸びていく。
思考が堂々巡りする。
——美香は、俺の子を産むつもりなのか。
それとも……。
その先を、考える勇気がなかった。
——俺に、何ができる?
答えは、どこにもなかった。
莉緒の笑顔が浮かぶ。
水族館で、涙をこぼした彼女の横顔。
『遥斗さんといられて、本当に幸せ』
あの声が、まだ耳の奥に残っている。
莉緒……。
こんなことになるなら、出会わなければよかったのか。
涙があふれ、枕が静かに濡れていく。
二月第二週、日曜。
朝になっても、体が動かない。
カーテンを閉めたまま、薄暗い部屋で息をする。
外の光が、かすかにカーテンの隙間から漏れていた。
食欲もなく、コーヒーを淹れたが飲めない。
冷めた香りだけが、部屋の中に残っている。
時計の針だけが進んでいく。
音が、遠くでかすかに響いている。
美香のところに……戻るべきなのか。
でも、莉緒が——。
莉緒を選べば、美香と子どもを捨てることになる。
子どもには、何の罪もない。
思い出す。
あの女——母の姿。
胸の奥が、鈍く痛んだ。
——続く。
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