第5話 嘘のない夜

 月曜の朝。目が覚めても、昨夜の決意はほどけていなかった。


 ——もう、逃げない。


 日曜の夜に胸へ刻んでから、まだ十二時間も経っていない。

 シャワーを浴び、いつもの服に袖を通す。鏡の中の私は相変わらずなのに、今日だけは言葉を運ぶと決めていた。


 通勤電車で、心の中の台詞を何度も繰り返す。


 ——葉山さん、私……あなたのことが好きです。


 窓外では、ほとんど葉を手放した街路樹の枝が、冬空へ静かに伸びていた。怖い。でも、先延ばしにするほうがもっと苦しい。



 出社してメールを開くが、文字は水のように指の間をこぼれていく。

 頭の中で何度も言葉を整理する。でも、まとまらない。

 昼休みになっても、食事は喉を通らなかった。


 午後三時過ぎ、廊下で彼とすれ違った。


「葉山さん」


 呼び止めた声が、少しかすれた。


「安西さん」


「少し……お時間、いただけますか」


「今?」


「いえ、終業後に」


 一瞬、彼の表情が揺れる。不安そうな、それでいて覚悟を決めたような目。


「……分かった。どこで?」


「プライベートなお話なので、二人で」


 沈黙。


「駅前のあのカフェで。終業後でいい?」


「はい」


 胸の内側がきゅっと鳴る。もう、戻らない。



 定時で上がり、駅前のカフェへ。

 奥の席で彼が立ち上がり、会釈を交わす。向かい合い、コーヒーを頼む。言葉よりも先に、手の震えがカップを包む。


「……あの日は、ごめんなさい」


 ミーティングルームの夜が喉に戻ってくる。


「いや、俺こそ……」


 短い沈黙。深く息を吸い、胸の奥に息を閉じ込めた。


「葉山さん。正直に、お話ししたいことがあります」



「私……葉山さんのことが、好きです」


 声は震えた。それでも、言葉は届いた。


 彼が小さく息を呑む。


「でも、葉山さんには……美香さんがいらっしゃる」


 視界が滲む。ハンカチを指先で探る。


「こんなことを言う資格がないのも、分かってます。……それでも、嘘を続けるほうが間違いだと思いました」


 涙を拭い、もういちど息を整える。


「もう、自分に嘘をつきたくない。——好きです。困らせたいわけじゃない。ただ、その気持ちだけは、伝えておきたかった」



 長い沈黙。彼は俯き、それからこちらを見た。


「安西さん……」


 いつもより低い声。


「俺、なんて言えばいいのか……すぐには答えられない」


 胸がきゅっと縮む。


「美香のことも、ちゃんと向き合わなきゃいけない」


 テーブルの上に置かれた彼の手が、微かに震えていた。


「婿養子の話も、本当はもっと早く向き合うべきだったのに。美香を傷つけたくなくて、曖昧にしてきた。それが、結局美香も苦しめてたんだと思う」


 彼は目を伏せる。


 言葉が続かない。



「分かっています」


 私は静かに重ねる。


「こんなこと……こんな答えなんて、すぐに出せるわけないって」


 コーヒーを一口飲む。もう冷めている。


「……私、ずっと逃げてました。でも、もう逃げたくなくて」


 視線を上げる。


「だから、伝えました。どう思われるかは分からない。それでも正直でいたかったんです」


 そして、心の奥にあった本音を、さらに続ける。


「でも……美香さんのことを思うと、息が詰まる。彼女は何も知らない。私がこんな気持ちを抱いていることも」


 声が震える。


「私……美香さんを傷つけたくないです。でも、この気持ちも、もう隠せなくて」



 彼が長く息を吐いた。


「……俺も、正直に話します」


 声が少し震える。


「安西さんのこと、気になってました。いつからかは分からない。ただ、気づけばずっと君のことを考えてた」


 心臓が早鐘を打つ。


「美香がいるからって、自分に言い聞かせてた。——だから、安西さんが俺を避けてくれた時は楽になるかと思ったのに」


 苦笑が、すぐ消える。


「全然、楽じゃなかった。むしろ——」


 言葉が詰まる。


 彼は視線を落として、もう一度言葉を探すように間を置いた。


「美香は……悪い子じゃない。むしろ、いい子で。でも、俺が……俺自身が美香に本当の気持ちを伝えられてなかった」


 彼の声に、自責の響きがある。


「婿養子の話だって、美香は真剣なのに、俺は向き合わずに時間をくれって言い続けてた。美香が理解してくれないんじゃなくて、俺が……俺が向き合ってなかった」


 その言葉に、私は胸が詰まる。



 私たちは、しばらく何も言わなかった。


 カフェの雑音だけが響いている。でも、私たちの間には静けさがある。


 初めて、嘘のない会話ができている。


 やがて、彼が口を開いた。


「……どこか、静かな場所で話しませんか。ここだと、ちゃんと話せない気がして」


 私は頷いた。でも、心の中では不安と期待が混ざり合っていた。


 ——このまま二人きりになっていいのだろうか。

 美香さんのことを思うと、胸が痛む。

 でも、今、彼と話したい。


「はい」



 カフェを出ると、外はもう暗くなっていた。冷たい空気が頬を撫でる。


「ドライブに行きませんか? 見せたい景色があるんです」


「はい」


 カーシェアの車に乗り込み、街の灯が窓をすべり落ちていく。


 途中のコンビニで温かい飲み物と軽いものを買い、車内で他愛ないことを話した。仕事のこと、音楽の話。普通の会話が、やけに心地いい。


 やがて街を抜けて、海の方へ向かっていく。



 港を見渡せる丘に着いたのは、九時を過ぎた頃。

 風は冷たく、フェンス越しに夜景が広がる。港の灯、遠い街の明かり。冬の星は、澄んだ針の先のように瞬いていた。微かに潮の匂い。


「綺麗ですね」


「ここ、よく来るんです。一人で考えたいときに」


 二人で、夜景を眺める。沈黙。でも、心地いい沈黙。



「安西さんは……いつから、俺のこと」


「分からないです。……でも、飲み会の帰りに手をつないでくださった時、嬉しかった。たぶん、あのあたりから」


 彼は何も言わない。ただ、夜景を見つめている。


「葉山さんは、いつから」


「俺も、いつからかは分からない。ただ、安西さんと話すと楽だった。分かってもらえる感じがして、そのままの自分でいられるというか」


 風が前髪を少し攫う。


「彼女とは……全然違う」


 その言葉に、私の胸が痛む。


「でも……それって、美香さんが悪いわけじゃないですよね」


「……うん」


 彼が頷く。


「俺が、美香に本当の自分を見せてなかったんだと思う。美香にも、俺にも、お互いに責任がある」



「昔話した、俺の家族のこと……覚えてる?」


 あの夏の残業の夜。


「はい」


「あの頃から、誰かを傷つける選択が怖いままなんです」


 彼の声が、少し震える。


「美香を傷つけたくない。でも、このまま曖昧にしてたら、もっと傷つけることになる。——それが、やっと分かった」


 遠くの街の灯りを見つめながら、彼は続ける。


「安西さんが告白してくれて……俺、やっと自分の気持ちと向き合わなきゃいけないって思えた」


「葉山さん……」


「私も、ずっと誰かを深く好きになるのを避けてきました」


 自分の声が、夜に馴染む。


「傷つくのが怖くて、自分に正直になれなかった。——でも、葉山さんからは逃げられなかった。それが怖くて、でも嬉しかった」



 少し間を置いて、私は続ける。


「でも……美香さんのことを思うと、本当に胸が痛いです」


 涙が滲む。


「彼女は何も悪くないのに。私が……私がこんな気持ちを抱いてしまったせいで」


 葉山さんが、私の手を握った。指先から心に広がる……温かい。


「安西さんは、何も悪くない。好きになることは、誰にも止められない」


 その優しさが、逆に辛い。


「でも、美香さんを……」


「美香のことは、俺がちゃんと向き合う。それは、俺の責任だから」



 気づけば日が変わり、一時を回っていた。

 私たちは、ずっと話し続けていた。将来の夢のこと。好きな映画のこと。子どもの頃の思い出のこと。

 こんなに誰かと話したのは、初めて。こんなに誰かに自分をさらけ出したのは、初めて。


「冷えますね。……戻りましょう」


 頷いて、ふたりで後部座席に座る。

 最初は距離があったのに、自然と近づいていた。

 見つめ合い、彼が私をきつく抱きしめる。そしてそれに答えるように、私も彼を抱きしめる。


 温かい。心臓の音が聞こえる。遥斗さんの匂い。コートの生地の感触。すべてが、愛おしかった。

 ここにいていいんだ——そう思えることが、何よりも嬉しかった。逃げずに、正直でいた。その結果がこの温もりなら、私はもう何も恐れない。


 ——いや、恐れている。

 美香さんを傷つけることを。

 それでも……今は、この温もりを手放したくない。



「……遥斗さん」


 彼に抱きしめられたまま名前を呼んだ。


「はい」


 彼が少し驚いたように、私を見る。


「二人きりの時は、そう呼んでもいいですか」


 少し間があった。遥斗さんが優しく微笑む。


「……はい。もちろん。——俺も、『莉緒さん』って呼んでいいかな?」


 その言葉に、胸が熱くなる。

 名前で呼び合う。それは、二人だけの秘密。

 ——いけないことをしている。

 そう分かっているのに、止められない。


「はい」



「莉緒さん……」


 その声が胸に響く。


「俺、美香とちゃんと話します」


 遥斗さんの声が、真剣だった。


「養子の話も、俺の気持ちも、全部。もう……逃げちゃいけないんだと思う」


「でも、時間がかかるかもしれない。美香を傷つけることになる。それでも、向き合わなきゃいけない」


「……待ってます」


 遥斗さんが私の髪を撫でる。


「答えが……莉緒さんの望む答えじゃないかもしれない」


「それでも、嘘じゃない答えなら……受け入れます」


 遥斗さんが優しく微笑んだ。


「今日、伝えてくれて、ありがとう」



 抱き合ったまま、時間が過ぎていく。

 時々、思いついたことを話す。時々、沈黙する。でも、その沈黙が心地いい。


 二時。三時。

 窓の外が、少しずつ白んでくる。冬の夜明けは遅い。

 窓から、朝の光が差し込んできた。


 遥斗さんが私の髪を撫でる。私も遥斗さんを抱きしめる。

「今日は……ただ、こうしていたいです」

「うん」


 二人とも眠れなかった。でも、心は深く繋がっていた。それが何よりも嬉しかった。


 ——でも、罪悪感も、消えない。

 美香さんを裏切っている。

 そう分かっているのに、この温もりを手放せない。

 私は、どこまで身勝手なんだろう。



 四時半頃、遥斗さんが言った。


「そろそろ、送るね」


「……はい」


 離れたくない。でも、離れなければいけない。


 車が動き出す。街の灯りが、少しずつ増えていく。

 無言の時間。でも、手は繋いだまま。


 五時頃、家まで送ってくれた。


「莉緒さん、また……会ってくれる?」


「……はい。必ず」


 彼が手を握り、「もう少しだけ待ってて」と言う。頷く。


 車が走り去っていく。一人、残される。冷たい空気が頬を撫でる。でも、心は温かかった。



 自宅に戻りシャワーを浴びる。窓の外を見ると、空気が冷たくなっている。

 街路樹の葉はほとんど落ち、枝だけが冬空に伸びている。空気は冷たく乾いていて、吐く息が白く見える。遠くのビル群に朝日が当たり、オレンジ色に染まっている。


 初冬の朝。

 遥斗さんとの一夜を思い返す。寝不足で少しけだるい。でも、後悔はなかった。

 ——いや、後悔はある。

 美香さんを裏切った。

 でも、自分に嘘をつかなかった。

 その両方が、胸の中で渦巻いている。


 ベッドに横になる。目を閉じる。でも、眠れない。

 心が、まだ昨夜のままだった。遥斗さんの温もり。声。微笑み。すべてが、鮮明に蘇ってくる。


 時計を見る。もう八時。出勤の準備をしなければ。

 身体は重かったけれど、心は——複雑だった。



 その日——火曜日も出勤した

 席に着いてふと顔を上げると、彼がこちらを見ている。視線が交わり、彼がごく小さく微笑む。私も微笑み返す。

 それだけで、胸が温かくなった。



 お昼休み。

 ランチルームで美千代と会った。


「莉緒、顔色悪いよ。寝てない?」


 美千代が心配そうに言う。


「実は昨日……葉山さんに告白した」


「え!? それで!?」


「……聞いてくれた。でも、まだ答えは……」


「そっか……」


 美千代が、私の手をぎゅっと握った。


「大丈夫。莉緒なら、きっと」


 その言葉が、胸に染みた。



 帰宅して、窓の外を見る。もう夕方。街に、灯りが灯り始めている。

 昨夜、私は……葉山さんに告白した。答えはまだ。

 それでも、後悔はない。自分に嘘をつかなかった。これが私の選んだ道だ。


 ——でも、美香さんを傷つけることになる。

 それが、怖い。

 遥斗さんが美香さんと話すとき、美香さんはどれだけ傷つくだろう。

 それを思うと、胸が苦しい。


 どうなるかは分からない。でも——待とう。信じて。



 私は、彼を好きになった。

 もう、否定できない。逃げることもできない。

 これから、どうなるか分からない。

 でも……自分の気持ちに正直でいよう。


 そして——もし、遥斗さんが迷ったら。

 そばにいよう。


 冬の風が窓を揺らし、澄んだ空気の中で、私はそっと息を吐いた。


 ——大丈夫。

 そう自分に言い聞かせながら、でも、心の奥では不安が渦巻いていた。


――続く。

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