第5話 嘘のない夜
月曜の朝。目が覚めても、昨夜の決意はほどけていなかった。
——もう、逃げない。
日曜の夜に胸へ刻んでから、まだ十二時間も経っていない。
シャワーを浴び、いつもの服に袖を通す。鏡の中の私は相変わらずなのに、今日だけは言葉を運ぶと決めていた。
通勤電車で、心の中の台詞を何度も繰り返す。
——葉山さん、私……あなたのことが好きです。
窓外では、ほとんど葉を手放した街路樹の枝が、冬空へ静かに伸びていた。怖い。でも、先延ばしにするほうがもっと苦しい。
♦
出社してメールを開くが、文字は水のように指の間をこぼれていく。
頭の中で何度も言葉を整理する。でも、まとまらない。
昼休みになっても、食事は喉を通らなかった。
午後三時過ぎ、廊下で彼とすれ違った。
「葉山さん」
呼び止めた声が、少しかすれた。
「安西さん」
「少し……お時間、いただけますか」
「今?」
「いえ、終業後に」
一瞬、彼の表情が揺れる。不安そうな、それでいて覚悟を決めたような目。
「……分かった。どこで?」
「プライベートなお話なので、二人で」
沈黙。
「駅前のあのカフェで。終業後でいい?」
「はい」
胸の内側がきゅっと鳴る。もう、戻らない。
♦
定時で上がり、駅前のカフェへ。
奥の席で彼が立ち上がり、会釈を交わす。向かい合い、コーヒーを頼む。言葉よりも先に、手の震えがカップを包む。
「……あの日は、ごめんなさい」
ミーティングルームの夜が喉に戻ってくる。
「いや、俺こそ……」
短い沈黙。深く息を吸い、胸の奥に息を閉じ込めた。
「葉山さん。正直に、お話ししたいことがあります」
♦
「私……葉山さんのことが、好きです」
声は震えた。それでも、言葉は届いた。
彼が小さく息を呑む。
「でも、葉山さんには……美香さんがいらっしゃる」
視界が滲む。ハンカチを指先で探る。
「こんなことを言う資格がないのも、分かってます。……それでも、嘘を続けるほうが間違いだと思いました」
涙を拭い、もういちど息を整える。
「もう、自分に嘘をつきたくない。——好きです。困らせたいわけじゃない。ただ、その気持ちだけは、伝えておきたかった」
♦
長い沈黙。彼は俯き、それからこちらを見た。
「安西さん……」
いつもより低い声。
「俺、なんて言えばいいのか……すぐには答えられない」
胸がきゅっと縮む。
「美香のことも、ちゃんと向き合わなきゃいけない」
テーブルの上に置かれた彼の手が、微かに震えていた。
「婿養子の話も、本当はもっと早く向き合うべきだったのに。美香を傷つけたくなくて、曖昧にしてきた。それが、結局美香も苦しめてたんだと思う」
彼は目を伏せる。
言葉が続かない。
♦
「分かっています」
私は静かに重ねる。
「こんなこと……こんな答えなんて、すぐに出せるわけないって」
コーヒーを一口飲む。もう冷めている。
「……私、ずっと逃げてました。でも、もう逃げたくなくて」
視線を上げる。
「だから、伝えました。どう思われるかは分からない。それでも正直でいたかったんです」
そして、心の奥にあった本音を、さらに続ける。
「でも……美香さんのことを思うと、息が詰まる。彼女は何も知らない。私がこんな気持ちを抱いていることも」
声が震える。
「私……美香さんを傷つけたくないです。でも、この気持ちも、もう隠せなくて」
♦
彼が長く息を吐いた。
「……俺も、正直に話します」
声が少し震える。
「安西さんのこと、気になってました。いつからかは分からない。ただ、気づけばずっと君のことを考えてた」
心臓が早鐘を打つ。
「美香がいるからって、自分に言い聞かせてた。——だから、安西さんが俺を避けてくれた時は楽になるかと思ったのに」
苦笑が、すぐ消える。
「全然、楽じゃなかった。むしろ——」
言葉が詰まる。
彼は視線を落として、もう一度言葉を探すように間を置いた。
「美香は……悪い子じゃない。むしろ、いい子で。でも、俺が……俺自身が美香に本当の気持ちを伝えられてなかった」
彼の声に、自責の響きがある。
「婿養子の話だって、美香は真剣なのに、俺は向き合わずに時間をくれって言い続けてた。美香が理解してくれないんじゃなくて、俺が……俺が向き合ってなかった」
その言葉に、私は胸が詰まる。
♦
私たちは、しばらく何も言わなかった。
カフェの雑音だけが響いている。でも、私たちの間には静けさがある。
初めて、嘘のない会話ができている。
やがて、彼が口を開いた。
「……どこか、静かな場所で話しませんか。ここだと、ちゃんと話せない気がして」
私は頷いた。でも、心の中では不安と期待が混ざり合っていた。
——このまま二人きりになっていいのだろうか。
美香さんのことを思うと、胸が痛む。
でも、今、彼と話したい。
「はい」
♦
カフェを出ると、外はもう暗くなっていた。冷たい空気が頬を撫でる。
「ドライブに行きませんか? 見せたい景色があるんです」
「はい」
カーシェアの車に乗り込み、街の灯が窓をすべり落ちていく。
途中のコンビニで温かい飲み物と軽いものを買い、車内で他愛ないことを話した。仕事のこと、音楽の話。普通の会話が、やけに心地いい。
やがて街を抜けて、海の方へ向かっていく。
♦
港を見渡せる丘に着いたのは、九時を過ぎた頃。
風は冷たく、フェンス越しに夜景が広がる。港の灯、遠い街の明かり。冬の星は、澄んだ針の先のように瞬いていた。微かに潮の匂い。
「綺麗ですね」
「ここ、よく来るんです。一人で考えたいときに」
二人で、夜景を眺める。沈黙。でも、心地いい沈黙。
♦
「安西さんは……いつから、俺のこと」
「分からないです。……でも、飲み会の帰りに手をつないでくださった時、嬉しかった。たぶん、あのあたりから」
彼は何も言わない。ただ、夜景を見つめている。
「葉山さんは、いつから」
「俺も、いつからかは分からない。ただ、安西さんと話すと楽だった。分かってもらえる感じがして、そのままの自分でいられるというか」
風が前髪を少し攫う。
「彼女とは……全然違う」
その言葉に、私の胸が痛む。
「でも……それって、美香さんが悪いわけじゃないですよね」
「……うん」
彼が頷く。
「俺が、美香に本当の自分を見せてなかったんだと思う。美香にも、俺にも、お互いに責任がある」
♦
「昔話した、俺の家族のこと……覚えてる?」
あの夏の残業の夜。
「はい」
「あの頃から、誰かを傷つける選択が怖いままなんです」
彼の声が、少し震える。
「美香を傷つけたくない。でも、このまま曖昧にしてたら、もっと傷つけることになる。——それが、やっと分かった」
遠くの街の灯りを見つめながら、彼は続ける。
「安西さんが告白してくれて……俺、やっと自分の気持ちと向き合わなきゃいけないって思えた」
「葉山さん……」
♦
「私も、ずっと誰かを深く好きになるのを避けてきました」
自分の声が、夜に馴染む。
「傷つくのが怖くて、自分に正直になれなかった。——でも、葉山さんからは逃げられなかった。それが怖くて、でも嬉しかった」
少し間を置いて、私は続ける。
「でも……美香さんのことを思うと、本当に胸が痛いです」
涙が滲む。
「彼女は何も悪くないのに。私が……私がこんな気持ちを抱いてしまったせいで」
葉山さんが、私の手を握った。指先から心に広がる……温かい。
「安西さんは、何も悪くない。好きになることは、誰にも止められない」
その優しさが、逆に辛い。
「でも、美香さんを……」
「美香のことは、俺がちゃんと向き合う。それは、俺の責任だから」
♦
気づけば日が変わり、一時を回っていた。
私たちは、ずっと話し続けていた。将来の夢のこと。好きな映画のこと。子どもの頃の思い出のこと。
こんなに誰かと話したのは、初めて。こんなに誰かに自分をさらけ出したのは、初めて。
「冷えますね。……戻りましょう」
頷いて、ふたりで後部座席に座る。
最初は距離があったのに、自然と近づいていた。
見つめ合い、彼が私をきつく抱きしめる。そしてそれに答えるように、私も彼を抱きしめる。
温かい。心臓の音が聞こえる。遥斗さんの匂い。コートの生地の感触。すべてが、愛おしかった。
ここにいていいんだ——そう思えることが、何よりも嬉しかった。逃げずに、正直でいた。その結果がこの温もりなら、私はもう何も恐れない。
——いや、恐れている。
美香さんを傷つけることを。
それでも……今は、この温もりを手放したくない。
♦
「……遥斗さん」
彼に抱きしめられたまま名前を呼んだ。
「はい」
彼が少し驚いたように、私を見る。
「二人きりの時は、そう呼んでもいいですか」
少し間があった。遥斗さんが優しく微笑む。
「……はい。もちろん。——俺も、『莉緒さん』って呼んでいいかな?」
その言葉に、胸が熱くなる。
名前で呼び合う。それは、二人だけの秘密。
——いけないことをしている。
そう分かっているのに、止められない。
「はい」
♦
「莉緒さん……」
その声が胸に響く。
「俺、美香とちゃんと話します」
遥斗さんの声が、真剣だった。
「養子の話も、俺の気持ちも、全部。もう……逃げちゃいけないんだと思う」
「でも、時間がかかるかもしれない。美香を傷つけることになる。それでも、向き合わなきゃいけない」
「……待ってます」
遥斗さんが私の髪を撫でる。
「答えが……莉緒さんの望む答えじゃないかもしれない」
「それでも、嘘じゃない答えなら……受け入れます」
遥斗さんが優しく微笑んだ。
「今日、伝えてくれて、ありがとう」
♦
抱き合ったまま、時間が過ぎていく。
時々、思いついたことを話す。時々、沈黙する。でも、その沈黙が心地いい。
二時。三時。
窓の外が、少しずつ白んでくる。冬の夜明けは遅い。
窓から、朝の光が差し込んできた。
遥斗さんが私の髪を撫でる。私も遥斗さんを抱きしめる。
「今日は……ただ、こうしていたいです」
「うん」
二人とも眠れなかった。でも、心は深く繋がっていた。それが何よりも嬉しかった。
——でも、罪悪感も、消えない。
美香さんを裏切っている。
そう分かっているのに、この温もりを手放せない。
私は、どこまで身勝手なんだろう。
♦
四時半頃、遥斗さんが言った。
「そろそろ、送るね」
「……はい」
離れたくない。でも、離れなければいけない。
車が動き出す。街の灯りが、少しずつ増えていく。
無言の時間。でも、手は繋いだまま。
五時頃、家まで送ってくれた。
「莉緒さん、また……会ってくれる?」
「……はい。必ず」
彼が手を握り、「もう少しだけ待ってて」と言う。頷く。
車が走り去っていく。一人、残される。冷たい空気が頬を撫でる。でも、心は温かかった。
♦
自宅に戻りシャワーを浴びる。窓の外を見ると、空気が冷たくなっている。
街路樹の葉はほとんど落ち、枝だけが冬空に伸びている。空気は冷たく乾いていて、吐く息が白く見える。遠くのビル群に朝日が当たり、オレンジ色に染まっている。
初冬の朝。
遥斗さんとの一夜を思い返す。寝不足で少しけだるい。でも、後悔はなかった。
——いや、後悔はある。
美香さんを裏切った。
でも、自分に嘘をつかなかった。
その両方が、胸の中で渦巻いている。
ベッドに横になる。目を閉じる。でも、眠れない。
心が、まだ昨夜のままだった。遥斗さんの温もり。声。微笑み。すべてが、鮮明に蘇ってくる。
時計を見る。もう八時。出勤の準備をしなければ。
身体は重かったけれど、心は——複雑だった。
♦
その日——火曜日も出勤した
席に着いてふと顔を上げると、彼がこちらを見ている。視線が交わり、彼がごく小さく微笑む。私も微笑み返す。
それだけで、胸が温かくなった。
♦
お昼休み。
ランチルームで美千代と会った。
「莉緒、顔色悪いよ。寝てない?」
美千代が心配そうに言う。
「実は昨日……葉山さんに告白した」
「え!? それで!?」
「……聞いてくれた。でも、まだ答えは……」
「そっか……」
美千代が、私の手をぎゅっと握った。
「大丈夫。莉緒なら、きっと」
その言葉が、胸に染みた。
♦
帰宅して、窓の外を見る。もう夕方。街に、灯りが灯り始めている。
昨夜、私は……葉山さんに告白した。答えはまだ。
それでも、後悔はない。自分に嘘をつかなかった。これが私の選んだ道だ。
——でも、美香さんを傷つけることになる。
それが、怖い。
遥斗さんが美香さんと話すとき、美香さんはどれだけ傷つくだろう。
それを思うと、胸が苦しい。
どうなるかは分からない。でも——待とう。信じて。
♦
私は、彼を好きになった。
もう、否定できない。逃げることもできない。
これから、どうなるか分からない。
でも……自分の気持ちに正直でいよう。
そして——もし、遥斗さんが迷ったら。
そばにいよう。
冬の風が窓を揺らし、澄んだ空気の中で、私はそっと息を吐いた。
——大丈夫。
そう自分に言い聞かせながら、でも、心の奥では不安が渦巻いていた。
――続く。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます