1話:ローブの祈り、紅蓮の記憶

「ーー♪」

 歌声が頭の中に残り、僕は目を覚ました。

 僕は耳を澄ませて、出どころを探した。


 夜の幕よるのまくが下りる中、《碧波あおなみ医院》という看板がかかった建物が見えた。

 その屋上の方から、歌声がしているようだ。


 歌声が懐かしいはずなのに、はっきりと思い出せなかった。

 それどころか、自分自身が誰なのかさえ、わからなかった。

  

「ーー♪」

 歌声はやまない。

 屋上は金網かなあみのフェンスに阻まれており、歌っている人は、ぼんやりとしか見えなかった。


 歌っている人に会えば、何かを思い出すかもしれない。

 正体を確かめるために、僕は《碧波医院》の中へ足を踏み入れた。

 

 中は、暗闇に支配されていた。

 人の存在を全く感じられず、寒々しいと思った。


 記憶が失われているはずなのに、闇の中でも、医院にある家具の配置が頭に浮かんだ。

 

 確か、真ん中に二つのソファーが左右に並べてある。

 壁の液晶えきしょうテレビ。

 右奥には、受付があった。

 

 受付の方に扉があり、屋上につながる古い階段があるはずだ。


 記憶を頼りに、右奥へと進んでいった。

 手探りで扉を探していくと、ドアノブが手に触れる。

 外に出ると、右側に古びた階段を見つけた。


 どうやら、ここに毎日のように通っていたおかげで、覚えているみたいだ。

 全部破損しているわけじゃなくて、ほっとした。


 階段を上がっていく。 

 さびしい夜の中、かつんと靴の音を響かせる。

 

 ふと、空中で止まった枯れ葉を見つけた。

 引かれるように、周りを見渡すと世界は停止した。

 

 白い満月が貼りついたように、空に止まっている。

 雲も、風も、息を潜めていた。


 異様な光景に、目を大きく見張って、足が動かなくなった。

 

「~~♪」

 静寂せいじゃくな世界で、歌だけは生きていた。

 

 その歌に背を押され、僕は再び階段を昇っていく。

 

 空夜くうやに、かつんと靴音が響いた。

 

「願いは--♪」

 歌声がはっきりとする。

 屋上に繋がっているという記憶も、正しかった。

 

 どうして、毎日のようにここに通っていたのだろうか。

 それ以上は思い出せなかった。

 立ち止まるわけにはいかず、歩き出す。

 

 ようやく階段が途切れ、鉄の扉を見つけ、扉を押し開ける。


 白いローブを身に纏った人物が、背を向けて立っていた。

 ローブの裾は、足首に届くほどの長さだ。

 

「どんな君だってーー満月になれる。

 願いは………! 想いは………! 奇跡に変わる」


 満月に強く訴えるように、重苦しく祈りのように歌っていた。

 その姿は、どこまでも冷たくて、凄然せいぜんとしていた。

 

 白いローブの人物が歌うのをやめて、ゆっくりと振り返る。

 左右に揺れていた、銀の懐中時計が静止した。

 裏側になり、白い満月が彫られている。


 フードに隠された顔には、涙が頬を伝っていた。

 その涙に、胸が締め付けられる。

 ひとりぼっちにしたくなくて、思わず駆け出した。

 

「満月に……時を……歌おう。祈ろ……」

 その人は白ばんだ世界に隠されて、歌声が遠ざかっていく。

 もう届かないかもしれない。

 それでも、懸命に駆けた。

 白ばんだ世界に飲まれていくその背中、僕は手を伸ばした。

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