『君と、空を捨てる。』 (後編) 

『君と、空を捨てる。』 (後編) 





 君の羽根を、もいだんだ。


 どこにも行けないように、ずっと俺の傍に居るように。

 俺と同じところまで、堕ちてくれば良いと思った。

 叶うのなら、これ以上俺の醜い望みが叶うなら。

 もう翔べないのだから空なんて忘れて、君と海へ飛び込んで、水の底で君とずっと愛し合いたい。

 そんな最低な望みを、俺は抱いて――君の羽根を、またもいだんだ。





 中学の時から、俺は愛海ちゃんが好きだった。


 出会いは中一の時。

 クラスは違ったけど、体育の時間に調子に乗った俺が派手にこけて怪我したら、合同授業のクラスにいた愛海ちゃんが慌てて俺にハンカチを差し出してきた。


 『血、出てるよ。大丈夫?』なんて心配そうに言ってくる彼女に何だかドキッとして。


 でもその時は照れてしまって自分らしくもなくしどろもどろになって、結局その日は彼女の名前を聞くこともできなかった。


 あの日以降、俺は何度も彼女に話しかけようとしたけれど、結局何もできずただ彼女を目で追うだけの日々が続いた。


 名前を知ったのは、彼女の友達が彼女を呼ぶ声を聴いたから。

 苗字を知ったのは、先生が彼女を呼ぶ声を聴いたから。

 こんなのまるでストーカーみたいだ、なんてひっそりと自己嫌悪した。


 いつか彼女と仲良くなる時の為に、俺は会話の引き出しをなるべく増やした。

 普段なら見向きもしない女の子のファッションに関する知識とか、雑誌に乗ってるフォトスポットとか流行のデザートとか、そういうの。


 元々モテる方じゃない俺はとにかくありきたりで無難なことしか知らなくて。

 それでも彼女には好かれたくて、必死で俺なりに努力したつもりだった。


 仲良くなる以前にクラスも違ったから、彼女と挨拶を交わす仲になるのを夢見たりもした。

 他の男子が彼女を可愛いと噂している時なんかは気が気じゃなくて、その男子をぶん殴ってやりたくなったくらいだ。


 でも結局何もできなくて、そんな無力な自分に嫌気が差して、中一の俺はとにかく我ながらヘタレ街道まっしぐらだった。


 中二になって、部活仲間の一人が愛海ちゃんと同じクラスになって、プリントを配る名目で愛海ちゃんがそいつに話しかけてきたって言うから羨ましいなと思いつつも、愛海ちゃんについてそいつから教えてもらって。

 俺はそれでますます彼女を意識するようになっていって、想いを募らせていって……中二の初夏、その部活仲間のクラスに遊びに行った時。

 出会い以来、初めて愛海ちゃんと話した。


 勇気を出して話しかけたのに、愛海ちゃんは男子が苦手なのか少し俺を怖がっているみたいで、その怯えた様子に胸が痛んだ。

 なんなら出会った時、愛海ちゃんが俺にハンカチを貸してくれたことすら愛海ちゃんは忘れているようだった。

 脈ナシじゃん、なんて家に帰ってから落ち込んだもんだ。


 でもやっぱり仲良くなりたかったから、俺は中一の時に必死に詰め込んだ会話の引き出しをフル活用した。

 とにかく会話が途切れないように、愛海ちゃんと目を合わせて、その日から彼女に懸命にアプローチした。

 部活仲間の男子に用事があって愛海ちゃんのクラスに寄る時なんか、愛海ちゃんに存在を気付いてほしくてわざと大きな声で部活仲間を呼んだりなんかした。


 最初は俺に気にも留めず真面目に予習復習か読書している様子だった愛海ちゃんが、徐々に話す仲になってからは少し顔を上げて、ひら、と控えめにこちらに手を振ってくれるのが嬉しくて、その度に俺の心臓はどきりと跳ね上がった。

 それこそ、心臓が壊れそうなくらい。



 ある時、愛海ちゃんにこんなことを指摘された。


「……未空くんって、髪の毛わざと伸ばしてるの? いつもヘアピンとかしてるし、後ろ髪は髪ゴムとかで縛ってるし」


 わざと髪の毛を伸ばしているのかどうかに関しては、図星だった。

 これもまた、俺が愛海ちゃんと仲良くなる為に用意した会話の引き出しの一環。

 愛海ちゃんの長い髪が好きで、少しでも接点が欲しくて、『髪の毛を切るのが面倒』なんて言い訳のもと、俺は前髪をヘアピンで留めたり後ろ髪を縛ったりしてたんだ。


「ん? あー、切るのめんどくてさ。あ、そうだ。愛海ちゃん、たまにシュシュで髪縛ってるよな? 俺もシュシュで髪縛ったら、愛海ちゃんとお揃いになったりして」


「そ、それは……何だか恥ずかしいかな……」


「あはは、それもそっか」


 そんな会話をしながら、彼女の綺麗な髪に優しく触れてみたいと常々思っていたりなんかもした。

 髪の毛を無遠慮に撫でたりなんかしたら、きっと臆病な彼女は俺の手から逃げ出してしまうだろう。

 まずは慎重に距離を縮めなくてはいけないから、俺はちらちらと彼女を見つめながらもっと親しくなる機会を窺う日々が続けていた。



 ある日、幸運にも……とは言っても他の男女グループも居たが、たまたま一緒に帰れた時。

 雑貨屋に寄り道して愛海ちゃんの真似をしておどけた調子でシュシュを自分の髪に合わせた俺を見て、愛海ちゃんはくすくすと笑ってくれた。


 それから、デートに誘う勇気もないくせに、あの人気のカフェはあの時間帯だとそんなに混んでないらしいよ、とか言ってみたり、愛海ちゃんが好きそうなテレビ番組の話題を振ったり。

 とにかく、毎日会話の引き出しの中身を仕入れるのに必死だった。


 だけど、不思議だ。

 こんなに頑張って、君の為の引き出しをぱんぱんにいっぱいにしている筈なのに、いざ君と話すと、すぐに引き出しの中身が空っぽになってしまう。

 君の為の引き出しが、まるでいつも開けっぱなしで、毎日中身がぽろぽろと零れ落ちているようで。


 俺の声は、言葉は、語る話は、君を満たせているのだろうか。君を慰められたり、支えたりできる男になっているのだろうか。



 アピールし続けてからの中二の夏前。

 俺は部活でスタメンを勝ち取ったこともあり、愛海ちゃんにこんな話を持ち掛けた。


「愛海ちゃん。今日俺、練習試合でスタメンなんだけど……良かったら、応援来てくれないかな? 放課後、体育館で試合やるんだけど……」


「あ……うん、行こう、かな。未空くんのこと、応援したい……から……」


 愛海ちゃんから応援に来てくれるとの返事をもらって、心の中でガッツポーズ。

 よし、と内心闘志を燃やし、俺ははしゃぐように愛海ちゃんに笑いかけた。


「ありがと! いいとこ見せてやるから! 俺が出るからには勝つ! つってもスタメン出場するとか初めてなんだけど……」


 バスケやスポーツに詳しくないらしい愛海ちゃんはきょとんとしていたが、俺は愛海ちゃんに手を振って駆け出す。


「じゃあ、放課後の試合頑張るわ! 愛海ちゃんが応援しに来てくれんの、楽しみにしてるぜ?」


「うん……未空くんのこと、ちゃんと応援するね……」


「絶対来てよ?」


「……うん、行く」


 このまま俺が、愛海ちゃんの目にそういう意味で留まればいいのに。


 そう願って、俺は放課後の試合に臨んだ。

 だけど、俺の調子は良かったとは言えバスケはチームスポーツだ。

 練習試合の結果は惜敗。

 でも試合中、俺はギャラリーの中から確かに愛海ちゃんの声を聴いた。


『……っ、未空くん! 勝って……!』


 ……嬉しかった。

 頑張れ、って言われても嬉しかっただろうけど、愛海ちゃんはその先の勝利を俺に望んでくれた。

 頑張れば報われるって、頑張った先に幸せはあるって、そう言ってもらえた気がして。

 俺は、そんな愛海ちゃんにもっと俺を見てほしくて、もっと俺に興味を持ってほしくて、俺を好きになってほしくて。


 『未空くん』と俺を呼んでくれるその声を聞く度に嬉しくてどきどきして、もっともっと呼んでほしいなんて思ったりなんかもして、できれば下の名前で呼んでもらいたくもあって。



 ミーティングが終わったあと制服に着替えて昇降口に向かうと、なんと愛海ちゃんが俺を待っててくれていた。

 正直、飛び上がりそうになるくらい嬉しかった。


「愛海ちゃん! 今日来てくれてサンキュー!」


「……未空くん、お疲れ様……あの、大活躍、だったね」


「おう! 愛海ちゃんが応援してくれてたおかげだわ。テンション爆上がりしたしめーっちゃ頑張ったからな。……つっても試合は負けたんだけどな! あー悔しい! 次は絶対勝つ」


 俺の言葉に、愛海ちゃんは控えめに、だけど可愛らしく笑ってくれる。

 それから少し、バスケについて話したりなんかしたら愛海ちゃんは頷きながら俺の話を聞いてくれて。

 俺の独り相撲の時は君の為の引き出しがちっともいっぱいにならないのに、君が向き合ってくれると、満たされるくらい、君の為の俺の引き出しがまるで宝箱になる。

 俺は、それが凄く嬉しくて、愛おしい。



 ふと、ぽつりと俺は言った。


「……愛海ちゃんの笑った顔って、可愛いよな」


「え……」


「あ、いや、それ以外の表情も勿論全部可愛いけど!! ……何か、さ。笑った顔がやっぱ一番可愛いなって」


「……は、恥ずかしいよ……未空くん……」


「ほらその顔も! そうやって恥ずかしそうにする姿もすっげー可愛いよ!!」


「あはは……もう、未空くんったら……」


 赤面しながらでも笑ってくれんの、すげー可愛い。

 好き、好き、好き――大好き、だ。


「……俺が、愛海ちゃんの傍で愛海ちゃんをずっとずっと笑顔にできたらいいのに」


 自分らしくもなく、真剣な声色になった。

 こちらに視線を向けてくれる愛海ちゃんに、緊張しながらも問いかける。


「あのさ。……愛海ちゃんって、俺のこと、どう思ってんの?」


「え……そりゃあ、大切、だよ?」


「……俺も愛海ちゃんのことすっげー大切だけど、そうじゃなくてさ。……あー、えっと……いや、やっぱ何でもない」


 つい、がっくりと肩を落とし項垂れてしまった。


 それまでの寄り道とかは他のクラスメイトもいたりしたけど、その時は初めての二人きりの帰り道だと言うのに、なんかモヤモヤした。


 この日だけじゃない。

 彼女とどうにかなりたいとずっと思ってたから、それとなく何度か告白してみたことがあるのだが、それとなくすぎたからか愛海ちゃんにはいまいち意味が伝わらなかった。


 愛海ちゃんにとって俺はただの仲の良いお友達。

 脈のない相手からの好意ほど厄介なものはないだろう。


 だけどそれでも、どうしても諦められなくて、俺がへたれてる間も時計の針は容赦なく進み、俺たちは中学三年生になった。



 愛海ちゃんとは結局中学で一度も同じクラスになれなかったけど、俺は少しでも話したかったから、何かと理由をつけて愛海ちゃんのクラスに遊びに行った。

 他愛のない話をして、たまに控えめながらも愛海ちゃんが笑ってくれるのが嬉しくて、でもやっぱりもっと近付きたくて――触れたくて。

 なかなか縮まらない距離をもどかしく思っていたある日、愛海ちゃんと志望校が同じことを偶然知った。

その時、人生で一番なんじゃないかってくらい舞い上がったのは内緒。


 それからは、頭はどちらかと言うと悪い方だったけど、こんな俺でも必死に勉強して、無事愛海ちゃんと同じ高校に入学することができた。

 しかも、高校生になってようやく初めて愛海ちゃんと同じクラスになれたもんだから、正直飛び跳ねて喜びたいくらいだった。

 愛海ちゃんも俺と同じクラスであることに嬉しそうにしてくれたし、もしかしてもう脈あんのかな、なんて思っちゃったりして。


 幸せだった。

 愛海ちゃんがどう思っているのか確信は持てなかったけど。

 幸せな日々が始まる、筈、だったんだ。





 空が、赤かった。

 どこまでも、血の色をした空が視界に広がっていた。



 痛みのあまり、反射的に押さえた片脚からはとめどなく赤い血だまりが広がっていて、俺は歯を食いしばることしかできなかった。


 サイレンの音が、喧噪が響く。


 ここはどこだろう。

 そうだ、帰る途中の横断歩道で、突然暴走したトラックに跳ね飛ばされて……。


 頭が働かない中、俺が何かを考えようとする前に何人かが駆け寄ってきた。

 救命処置やらなにやらが忙しなくされて、俺は痛みで気を失いそうになりそうだったから目を閉じる。


 意識が闇に落ちる寸前思ったのは。

 痛みを叫ぶように訴えるこの片脚は、もう一度俺の思う通りに動いてくれるのか、ということで。


 奇跡を願いながら、俺はただ限界に身を任せ、意識を失った。



 ――結論から言うと、奇跡なんて起きなかった。


 目が覚めた俺に医者は言った。

 リハビリに励めば、片脚を引きずる形にはなるだろうけどまた歩けるようになると。


 ただ――バスケはもう、二度と出来ないだろうと。


 気付いたら俺は、感情の赴くままに医者に掴みかかっていた。


 どうしてだ、俺はバスケがしたいんだ。バスケが好きなんだ。バスケのない人生なんて、俺には価値なんてないんだ。


 そんな俺に返された言葉は、俺にとってはひどく残酷なものだった。


 回復は望めない、この脚は以前のようには動かせない、バスケにおいて以前のようなパフォーマンスが出来るようになるとは考えられない、って。


 ――それは、紛れもなく俺の夢が、未来が、絶たれた瞬間だった。


 医者の説明を聞き終わったその日の記憶は、朧気だった。

 目の前が真っ暗になったような気分で、迷子になった気分でもあった。

 これからどうやって生きていけばいいのかわからない。

 それが怖くて怖くて仕方なかった。


 入院してから、クラスメイトや中学時代の友人が次々に見舞いに来た。

 一晩経ったからか、その時には俺は作り笑いと空元気で不安を誤魔化し、見舞いに来てくれた友人たちに礼を言って、いつも通りの俺として振る舞った。

 だけど、彼らの自由に動く脚が視界に入る度、心の中では嫉妬心を募らせてしまった。

 ごめんな、おまえらは悪くないんだ。

 俺の貼り付けた笑顔の裏の本当の心は、やっぱり理不尽な悲劇に嘆くばかりで、苦しみや悲しみに満ちていた。

 だと言うのに折角見舞いに来てくれたやつらに悩みを打ち明けたりする気にもなれず、俺はただただ明るく振る舞い続けた。

 その度に蓄積する妬みやどうしようもない苛立ちは徐々に徐々に、積もりに積もって。


 ……よりにもよって、愛海ちゃんが見舞いに来てくれた時。

 俺の中の負の感情は一気に爆発してしまった。

 それは、とても女の子には言えないような暴言だった。

 俺の八つ当たりに対して、愛海ちゃんもいっそ思いっ切り泣いたり怒ったり責めたりしてくれたら良かったのに。

 そしたら俺だって、まだ色々諦めがついて救われたかもしれないのに。

 だけど愛海ちゃんはいつもみたいにおどおどとしながらも、俺の理不尽な八つ当たりさえ受け入れて、あろうことかこんな俺を抱き締めた。


「……いいんだよ。それが本当の未空くんなら。私を妬んでいい、嫌っていい、憎んでいいよ。これは同情じゃないし、哀れんでなんかない。……だって、未空くんはちゃんと、価値がある人だから。未空くんはずっと、素敵な人だから。……だから、一人で苦しまないで。お願いだよ」


 俺は、言葉を失いかけた。

 なんて言ったらいいのかわからなかった。


 ただただ愛海ちゃんの優しさが、慈愛が、胸を抉るように刺して、痛かった。


 その温かさに救われるようで、同時に殺される気分でもあった。


 なんで。

 なんで、君はこんな、俺なんかに。


 面会時間終了を報せる寂しい放送が病院内に流れる。

 それを聞いて、愛海ちゃんの体温がゆっくりと離れて行った。


「……また明日も来るね、未空くん」


 愛海ちゃんの声色は、穏やかだった。


 だけど俺は、愛海ちゃんの顔も、病室を去る後ろ姿さえも見ることができなかった。


 あんなにきれいな存在を視界に映したら、自分の醜さが、幼稚さが浮き彫りになりそうで怖かったんだ。


 いや、違う。本当に怖いのは。

 このまま愛海ちゃんの優しさを受け入れたら、きっと俺は溺れてしまうから。愛海ちゃんに依存してしまうから。

 愛海ちゃんを俺の生きる理由にするなんて、そんな重荷、愛海ちゃんに背負わせたくなかった。


 なんて、俺の綺麗ごとに塗れた言い訳でしかなかったのだけれど。



 その日から愛海ちゃんは、毎日見舞いに来てくれた。

 だけど俺は俺の中の言い訳を盾に、とにかく愛海ちゃんに対して素っ気なく振る舞った。

 無視も、自棄になって怒鳴り散らすのも当たり前になっていた。

 それでも優しくしてくれる愛海ちゃんに泣きそうになるくせに、結局俺は俺でしかなかった。

 健康体の愛海ちゃんが、脚が自由に動く愛海ちゃんが、妬ましくて仕方ないと思ってしまう自分に吐き気がした。

 愛海ちゃんと顔を合わせずに済むきついリハビリの時間が安らぎにさえ感じるほどだった。



 ずっと、愛海ちゃんと仲良くなりたかった。

 仲良くなりたかったと言うか……まあ、つまりは深い仲になりたかった。

 特別な関係に、なりたかった。


 だけど、事故に遭って以来愛海ちゃんと何を話せばいいのかわからなくなった。

 自分の中の感情を、苛立ちを、妬み嫉みを、まるで幼子みたいにコントロールできなくなったんだ。

 みっともない、ぐちゃぐちゃな感情が全部口から飛び出てしまう。


 心配そうな顔で見舞いに来てくれる愛海ちゃんに冷たく当たってしまう自分が、許せなかった。

 そんな俺の内心の葛藤なんて知る由もない愛海ちゃんはいつもみたいに微笑んで、俺の頭を優しく撫でてくれたけど、俺はいつもその優しい手を振り払ってしまった。



 仲良くなりたくて、中学時代から常に、君のための引き出しをきらきらと綺麗な言葉で毎日満たそうとしていた筈だった。


 だけど今はどうだ。

 君の為の俺の引き出しは完全に壊れて、決して綺麗とは言えない暴言を愛海ちゃんにぶつけるばかり。


 それでも愛海ちゃんはずっと優しかった。

 傍に居てくれた。

 罪悪感に押し潰されそうで、俺は毎日泣きたくて仕方なかった。


 もういい、もういいよ。

 こんな俺なんて見捨てていいよ。


 そう言いたい気持ちはあった筈なのに、それとは裏腹に既に愛海ちゃんの存在に縋るように依存している心が消えないのも事実で。


 限界だった。こんなことを延々と続けていたら俺の心は崩壊してしまうだろう。

 愛海ちゃんに暴言を浴びせる度に苦しくなる。

 呼吸がどんどん浅くなっていくような気がして、ぐらぐらと足元から崩れ落ちてしまいそうな感覚が襲ってくる。


 これ以上は耐えられない。

 おかしくなる前に終わらせよう。

 これで終わりにしよう。

 そう思ったことは一度や二度じゃない、のに。


 大好きな女の子の優しさを、温かさを知り過ぎた俺は、結局彼女を突き放すことなんてできやしなかった。



 数ヶ月後、ようやく退院の許可を出された。

 鎮痛剤の過剰摂取で当初より退院が長引いてしまったから、医者にはこっぴどく叱られた。


 でも、毎日のように痛む脚を抱き締めるように押さえて苦しんでいたら、あの子が、愛海ちゃんがぎゅっと俺を抱き締めてくれるから。


 もう手遅れなことには、気付いていた。

俺の彼女への依存が、もはや異常の域に達していることに。


 病室の数少ない荷物をまとめていると、当然のように愛海ちゃんは手伝ってくれて。

 俺はそんな愛海ちゃんの背中をばれないように見つめながら、どろどろとした感情が自分の中に渦巻いていくのを感じ取っていた。


 そうだ、本当は突き放したいわけじゃない。当たり前だろ。

 縋りたい、甘えたい、愛してほしい。それだけじゃ足りないくらい、俺は君が。

 俺は愛海ちゃんにとって特別になりたい。唯一になりたい。一番になりたい。


 綺麗で甘酸っぱい片想いから始まって君の為に飾り付けていた引き出しが。

 世界で君の為だけの俺の引き出しが。

 もうとっくに壊れて全てが零れ落ちて、俺は空っぽのつまらない人間になってしまったんだって、気付いてはいたけどやっぱり見ない振りをした。



 俺の家に帰る途中、愛海ちゃんは懸命に俺を支えて歩いてくれた。

 悔しかった。

 守るのは、俺の役目が良かったから。

 何より、俺よりずっと自由に動く君の脚が、身体が、妬ましくて見ていられなかった。


 最低だ。

 俺は、愛海ちゃんの自由を憎んでいる。

 どろどろ、どろどろと淀んでいく感情を忘れたくて。

 家に帰るなり俺はベッドの中に強引に愛海ちゃんを引き込んだ。彼女を、俺で縛りつけたくて。


「み、未空くん……!?」


「……愛海ちゃん。俺、もう疲れたよ」


「え……?」


「……愛海ちゃん、慰めて」


「な、何言って……」


「お願い。……もうなんでもいいから、俺を慰めて」


 なんでもいいなんて嘘だ。

 誰でもいいとか、そんなんじゃない。


 俺は、愛海ちゃんが良い。

 愛海ちゃんじゃないと嫌だ。


 そうして、愛海ちゃんにも俺を選んでほしい。

 俺を求めてほしい。


 それだけの弱さを、彼女は持ち合わせては居なかったけれど。


 もう何も考えたくなくて、ただこの子に溺れたくて。

 俺は愛海ちゃんを強く抱き締めて、彼女を抱き枕にするかのように目を閉じる。


 いつだったか、『添い寝フレンド』という関係を耳にしたことがある。

 恋愛感情抜きに、肉体関係抜きに、ただ寂しさを埋める為に添い寝だけするフラットな関係の男女。


 俺は本当は彼女と特別な関係になりたいくせに、また新しい言い訳を振りかざして、彼女を腕の中に閉じ込めて眠りについた。

 それは、俺が知る中で最も安らかな眠りだったように思う。


 ――この腕が、君を永遠に閉じ込める牢獄になればいいのに。

 永遠さえあれば、俺は君に救われているという錯覚に酔うことができるのに。

 そんな残酷な願いは、結局声に出せなかった。





 退院してから、俺は愛海ちゃんとほぼ同棲、のような生活を送るようになった。

 学校から二人で帰って、愛海ちゃんが作る晩飯を食って、ただ二人で眠るだけの、そんな日々。


 俺の両親は基本的に仕事で忙しく、どちらも出張が多い為ほとんど家にいない。

 愛海ちゃんも話を聞けば昔から家族とあまり上手くいってないらしいし、世間知らずの子どもである俺たちは、一人と一人のくせに、二人として生きている。


 決してコイビトではない。

 ずっと俺は愛海ちゃんのことが好きで好きで仕方がないのに、夢を絶たれて荒んでからは綺麗な言葉が言えなくなって、告白する勇気は未だに無い。



 深夜一時、ぼんやり目が覚めると、俺はまた愛海ちゃんに縋るように彼女を抱き枕にして眠っていたらしい。

 俺の腕の中で、愛海ちゃんがすうすうと寝息を立てている。


 ……なあ、なんで優しくすんの。

 俺のことどう思ってんの。

 俺はひどいことばっかり言っちまうのに、当たり散らしてばかりなのに、なんで俺の傍に居てくれんの。

 何でずっと変わらず、可愛く笑ってくれんの。

 意味わかんねえよ。俺、どうすればいい?

 ずっとずっと好きなんだ、大切なんだ。

 愛してるんだ。


 愛海ちゃん。

 俺は、どうすれば君に優しくできる?


 添い寝フレンドなんて、そんな関係じゃ満足できないんだ。

 俺は、愛海ちゃんと恋人になりたい。


 でも、きっとそれは俺の独り善がりの感情だっていうのもわかってる。

 だから俺は今日もこの関係に甘んじて愛海ちゃんの隣で眠る。


 優しくされるのが嬉しい。

 心配してもらえるのが嬉しい。

 もっと俺に構って欲しい。

 ……俺の方を、見て欲しい。

 俺だけを見て欲しいんだよ。


 自分勝手な欲求ばかりが浮かび上がって止まらない。

 ああ、やっぱり独り善がりだ。


 それなのに肝心の言葉を何一つ言えず、ただ甘えて恋人でもない関係に甘んじている自分が情けなくてしょうがないのに。

 こんな俺にどこまでも優しくしてくれる愛海ちゃんを手放せないと思ってしまう俺は、きっともう彼女が居ないと生きていけないんじゃないだろうかって最近思うんだ。


 ああ嫌だなあ、このままずっと永遠に彼女に甘え続けていたいと思う自分が心底気持ち悪い。


 あの交通事故をきっかけに、俺の愛海ちゃんへの愛情はすっかり拗れてしまった。

 ただ愛しているだけなら良かったのに、それだけじゃなくなってしまった。


 依存と、執着と、独占欲と、所有欲と、支配欲と、挙げ出せばキリがない程に汚くて歪んだ感情はどんどん膨張し続けて、抑えが効かなくなっていく。

 愛海ちゃんへの想いは、歪んだ形で日に日に増すばかりだ。


 いや、それすらもマシな部類に入るのかもしれない。

 バスケの道を閉ざされた俺の心の傷は、まだ癒えていない。

 だから、愛海ちゃんが普通に歩いているところを見ると、その脚を見ると、攻撃的なくらいの嫉妬心が俺の胸中を支配する。

 それを隠す術なんてまだガキの俺は知らなくて、いつだって酷い言葉しか投げられなくて。


 ごめん、愛してるのに、ほんとにごめん。

 でも無理なんだ。抑えられないんだ。愛海ちゃんを傷つけることしかできないんだ。


 毎日泣きたくなるくらい謝りたいのに、胸を抉るような痛みは消えなくて。

 愛海ちゃんを傷付ける度に自分が嫌いになるのに、それでも俺は愛海ちゃんに傍に居てほしくて、またどうしようもなくなって、その繰り返しだ。


 最低な仮定だけど、立場が逆だったら良かったのに、なんて俺はずっと思っている。

 もし事故に遭ったのが俺じゃなくて愛海ちゃんだったのなら、俺は俺の全部で愛海ちゃんを守れたのに。


 気付けば俺は、愛海ちゃんの弱さを探し続けている。

 こんな俺でも守ってやれるような、支えてやれるような、彼女の欠陥を俺は求めているんだ。


 もし愛海ちゃんがボロボロになってしまったら、俺は彼女を優しく抱き締めて、君が生きててくれるだけで世界はこんなにも美しいよ、愛してあげるよ、なんてこっぱずかしいことも言えるのに。


 だけど現実はそうじゃない。

 俺じゃ愛海ちゃんを満たせない。

 存在を必要としているのは、優しさを求めているのは、いつも俺ばかりだ。


 このどうしようもないくらいぐしゃぐしゃな愛情を全部ぶつけることが許されないなら、まだ愛想を尽かしてくれた方が何倍もマシだ。


 なのに愛海ちゃんはずっと、ずっと、苦しいほどに優しい。


 ねえ、ずっと俺の傍に居てくれよ愛海ちゃん。

 君のことが大好きなんだ、ずっと好きなんだ。


 だけど言えないよ、どうしよう。


 何度も自覚してる。

 ごちゃごちゃになった感情は、時が経てば絶つほど醜いどろどろした想いをどんどん取り入れていく。


 どうしようもない劣等感と、嫉妬。

 決して満たされることのない寂しさ。

 気付いたのは多分最近だけど、俺の愛海ちゃんへの感情はどうやら悪い意味で一線を越えてしまったようだ。


 俺に縋られて窮屈に眠っているからか、目覚めた時の愛海ちゃんは腕を痛めたりと苦しそうな表情を浮かべることが多い。

 愛海ちゃんの苦痛に歪む表情を見る度、俺の心はひどく高揚する。

 ああ、これで俺も愛海ちゃんを助けられるかもしれない、なんて思ってしまう。


 苦しんで、悲しんで、絶望して、俺のところまで堕ちてくれれば良いのに。

 俺が君に依存しているように、君も俺に依存して、縋り付いて、俺なしでは生きていけないようにしてやりたい。


 そんな歪んだ感情を知ってしまった俺の中にある、彼女の為に作った筈の引き出しは、もはや醜く穢れた想いでパンクしそうになっていた。

 今にも壊れそうなくらい。

 いや、きっともう壊れてる。


 こんな俺は、愛してるなんて言葉を言えない。言える筈がない。


 だって、俺が愛海ちゃんを想う気持ちは、そんな綺麗なものじゃないんだ。

 この想いは、きっと誰にも理解されない。

 だから彼女から俺に手を伸ばしてくれる日を待ち続けてる。


 助けてって言ってくれ。痛いよ、苦しいよ、辛いよ、って。


 ただそれだけで良いんだ。許さなくていいから、どうか俺に寄り掛かってくれ。


 俺は、愛海ちゃんに愛の言葉を言えない代わりに、愛海ちゃんの弱さにつけ込む機会を窺って、どろどろの想いを燻ぶらせている。


 だけど当の俺がこんな自分の全てを肯定できなくて。

 ちっぽけなプライドと偽善に舌打ちして、今日も無意味に鎮痛剤を飲み込む。

 今日の服用量はとっくにオーバーしてるけど、気休めくらいにはなるだろう。

 あとは、頭を冷やす目的もある。


 ああ、だるい。気持ち悪い。

 脚が、まだ痛む気がする。

 痛むと言うより、鉛のように重い。


 それなのに俺の口角は醜く、厭らしく上がってゆくばかりだった。


 痛くて気持ち悪くてどうにかなってしまいそうだ。

 吐きそう。

 叫びたいくらい胸が苦しい。


 でもそんな時ですら俺は愛海ちゃんのことで頭をいっぱいにしている。


 愛海ちゃんを傷付けたいのも守りたいのも本当で、そんな自分が嫌で汚くて大嫌いだけど、それでもやっぱり愛海ちゃんが愛しくて、欲しくて堪らない。


 袋に入った錠剤シートを過度に漁っていると、隣から衣擦れの音がした。愛海ちゃんが目を覚ましたらしい。


「……ダメだよ、お薬たくさん飲んだら……」


「……わかってるっつーの……」


「お医者さんにいっぱい叱られたばかりでしょ……」


「……またバレたらドヤされんだよなぁ」


 ついつい口調や態度がぶっきらぼうになってしまう。

 本当はもっと、愛海ちゃんに優しくしたいのに。

 愛海ちゃんが、心配そうに俺を見つめて言った。


「ねぇ、何かして欲しいこととかある?」


「……別にねえって」


 そんなもの、たくさんあるに決まってる。

 だけど全てを馬鹿正直に伝えたら、愛海ちゃんは俺に幻滅するのだろうか。

 その想像だけで怖くなって、愛海ちゃんから顔を逸らす。

 だけど俺の下衆な考えを知らない愛海ちゃんは俺に寄り添い、背中を優しくさすってきた。


 普通好きでもない男にそんな優しくするもんじゃねえよ、と悪態をつきそうになったところで、愛海ちゃんが慌てたように腕を引っ込めた。


 ふと視線をやると、愛海ちゃんは痛そうに片腕を擦っていた。

 ああ、そう言えば遠慮なく抱き枕にさせてもらったから、腕に体重をかけて痛めてしまったかもしれない。


 俺のせいで、苦痛に歪む表情。

 少し赤くなった彼女の片腕。


 それらを見た瞬間、ただでさえごちゃごちゃの俺の感情が、溢れるように脳を支配した。




 好きだ。


 こっちを見てくれ。


 かわいそうに。


 好きだ。


 妬ましい。


 もっと傷付けよ。


 羨ましい。


 好きだ。


 泣けよ。


 俺が守るから。


 苦しめよ。


 ぐちゃぐちゃにしてやりたい。


 そばにいて。


 ああ、妬ましい。


 愛してる。


 好きだ。


 憎らしい。


 好きだ、好きだ、好きだ、好きだ、好きだ――。



 気付いたら、俺は愛海ちゃんをベッドに押し倒して、その細く頼りない喉を両手で絞めようと力を入れていた。


 愛海ちゃんは、抵抗しなかった。

 苦しそうにしながらも、ぼんやり俺を見上げている。


 一瞬、力を緩めた時。


「いいよ」


 愛海ちゃんはただ一言、そう言った。


「……未空くんになら、いいよ」


 愛海ちゃんが、俺の両手を自分の両手でゆっくりと包み込む。

 小さく華奢な手。誰よりも優しい手。


「未空くんのこと、大好きだから」


 その優しい微笑みは、俺が今まで見てきたどんな表情より綺麗で美しくて。


「だから、いいよ」


 そして彼女はまた微笑んだ。


「私を、殺してもいいよ」


 俺は、喉に手をかけたままではあるけど、なかなか再び力を入れられなかった。


 だって、抵抗してほしかったんだ。

 足掻いてほしかったんだ。

 俺に、縋ってほしかったんだ。


「……ねえ、未空くん」


「……なに」


 愛海ちゃんが、さっきよりもずっと綺麗に、微笑む。


「私なんか、でも……未空くんにとっては、死んだら悲しいって、思ってもらえるような価値は、あった……?」


 ――その時初めて、俺は自分が泣いていることに気付いた。


 俺は、彼女の喉から頬に手を滑らせ、叫ぶ。


「……っ、あったよ!! あるに決まってんだろ!! 嫌だよ、愛海ちゃんが居なくなるなんて、嫌だ!! だって守りたかったんだ、俺だけに笑いかけて欲しかったんだよ!! 好きなんだ、大好きなんだ! 頼むからもっと足掻いてよ!! 俺を求めてよ、もっと俺を欲しがってよ!!」


 愛海ちゃんが、驚いたように目を見開く。そして、また笑った。


「そっか……良かった」


 ああもう、なんでだよ。

 なんでそんなに、君は綺麗なんだ。


「死にたくないって言えよ!! 俺と生きたいって、俺の傍に居たいって言えよ!! 頼むから俺の隣を、求めてくれよ……!!」


 俺の口を突いて出た声は、想像していたよりもずっとみっともなく情けなく震えていた。


 馬鹿だなぁ俺。

 好きな女の子に縋るだけで何も出来ないでいて、何が彼女を守りたいだ。


「未空くん……」


 愛海ちゃんが、俺の頬に手を伸ばす。その指先があんまりにも温かかったものだから、俺はその手に自分の手を重ねる。


「私の命も人生も、未空くんのものにして。未空くんの夢には及ばないけど……それしか、私は捧げられないから」


 愛海ちゃんは微笑んでいた。

 だけど声色は本当に申し訳なさそうで、悲しそうで。

 まるで俺にかけられた呪いが自分では解けないのだと言っているようで。


 俺は何か言おうとしたけど喉の奥が締まって上手く喋れず、みっともなく泣いたまま、彼女にキスをした。


 呪いがキスで解けるなんて、どこの童話だっけ。


 お互い妙に息が上がって、苦しくなったタイミングで唇を離す。

 目を合わせると、愛海ちゃんが吹き出すように笑って、言った。


「……すき、だよ。未空くん。だいすき」


 その瞬間、どうしようもない衝動が込み上げてきて俺は彼女を抱きすくめる。

 痛いよ、なんて笑い混じりに言われるのも無視して一層腕に力を込める。

 放してなんかやりたくなかった。


 結局、たった一度の挫折で未来が見えなくなった俺も、自分に価値がないと思い込んでいた愛海ちゃんも、世界を知らない子どもでしかなかった。

 愛し方を知らない一人と一人が二人になって、傍に居ることしかできなかったんだ。


 涙が止まらない。

 このまま溢れ続けて、海を作るくらい泣けたとしたら、俺は愛海ちゃんと海に沈みたい。


 未練がましくバスケットゴールを仰ぐのをやめて、君の澄んだ瞳だけ見ていたい。


 君の視界を俺だけで包み込みたい。

 君の世界になりたい。

 君から空を、奪いたい。


 一人と一人が大人ぶって一緒になっただけだとしても、俺は君と居たい。

 君を求めたい。

 どんな未来も、君の愛を受けて揺蕩えるのなら、俺は怖くない。


 この日、ようやく俺は――俺たちは、空を捨てたんだ。





 春が、来る。

 そんな予感がするくらいの季節感はあるけど、俺は自販機に何故かあったビー玉付きのラムネを二本買って、そのうち一本を少し雑な動作で愛海ちゃんに渡す。


「ありがとう、未空くん」


「……そろそろ下の名前で呼んでくれても良くない?」


「……それもそっか」


「今更?」


 一瞬きょとんとしたあと、愛海ちゃんは俺の目を真っ直ぐに見て、はっきりとと言うには些か頼りない声量で言った。


「……桜弥くん」


「……うん」


「桜弥くん」


「……おう」


「……えへへ、なんか、恥ずかしい、ね」


「いや、慣れてよ……」


 俺は息をつくと、愛海ちゃんと歩き出す。


 片脚を引きずるような歩き方も、愛海ちゃんとゆっくりゆっくり歩くのも、気付けばすっかり慣れてしまった。


 ラムネ瓶の中のビー玉がコロコロと鳴る音が、妙に響く。

 この音は良く知らなかったから、慣れてはいない。


「……あ、そういえばさ。愛海ちゃん」


「? なあに?」


「好き」


「……え」


「……好きだよ」


 ――コロコロと、ビー玉の音が、鳴る。

 愛海ちゃんが頬を赤らめて、ぎこちなく言った。


「……い、今更?」


「そ。今更なの。俺、へたれてて言葉足らずだったから」


 彼女の手を、攫うように握る。

 放さないように、でも傷付けない程度の力加減で。

 愛海ちゃんは照れてしまったらしく、俺から視線だけ逸らして黙り込んでしまう。


 そうしたら、またビー玉の音だけが響く。

 このままラムネを飲んで、家に帰って瓶を割ってビー玉を取り出してしまえば、ビー玉は外の世界を知るのだろう。

 まだ世界について知らないことだらけの、子ども気分の俺たちのように。


 世界は広い。世界は知りたい。

 でも俺は、空を捨てた。


 愛海ちゃんが。

 君が居れば、それでいいから。


 だから君の手を引いて、足元さえ見ていれば、転ぶことなく君を守れるだろう。

 こんな俺でも。


 ラムネ瓶の澄んだ中身が、ちゃぷんと視界の端で揺れる。


 君は自分に価値なんて無いと言う。

 だけどどうしようもなくなった時、俺はやっぱり君に、海に、飛び込みたい。

 俺が君を包み込みたいように、君も俺を包み込んでくれるなら。

 俺は酸素だって要らない。

 ただ、君の愛が欲しい。


 ビー玉が鳴る音と、二人分の足音がシンクロする。

 俺たちが生きている証。


 あの事故の日に見た赤い空は、もう記憶から薄れているから。

 脚を覆う血だまりも、忘れかけているから。

 もう俺は、綺麗も含んだ青を想い出しているから。


 俺は君と共に、在り続けたい。

 そうして二人で歩んでいけば――俺は君の価値を証明する為に、立派に咲けるだろうか。


 下を向いて歩こう。

 君を守る為に。

 君と生きる為に。


「……愛してるよ、愛海ちゃん」


 そう言うと、君はまた顔を赤くして。

 そういう赤なら好ましく思えることが、俺はどうしようもなく嬉しくて――それを求めて。

 君を、俺の世界そのものを、ぎゅうと強く抱き締めた。




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