第27話:鬼教官の洗礼

 ジジ……ッ。

 蛍光灯が、弱々しく明滅を繰り返している。

 私立星光学園の地下深く。その、さらに最下層に、その訓練場はあった。


 通称、「煉獄れんごく」。


 壁も床も、むきだしのコンクリートが黒くすすけている。空気は重く、湿っており、古い鉄と、カビの匂い、そして、かすかな血の匂いが混じり合って鼻についた。

 普通の訓練室にあるような、最新のVR機材やセンサー類は、ここには一切ない。

 ただ、広すぎるほどの空間が、冷たい闇の中に沈んでいるだけだ。


 神原かんばらせんは、その中央に一人、立っていた。

 池袋での一件から、三日。

 あの日の光景が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。


(……クソ)


 脳裏をよぎるのは、東雲しののめさくの、氷のように冷たい横顔。

 ターゲットも、巻き込まれた少女も、まとめて無力化した、あの完璧すぎる「仕事」。

 それに比べて、自分は。

 ただ、守りたいという感情だけで突っ込もうとした、ガキの動き。


 たちばな陽菜ひなは「間違ってない」と言ってくれた。

 風間かざま結翔ゆいとも「その優しさは価値がある」と言ってくれた。

 その言葉は、傷ついた心に、甘い毒のように染みわたった。一瞬、無意識に、心がそっちへ流れそうになった。


(けど、結局……俺は何もできなかった)


 結果として、少女は無事だった。だが、それは東雲がいたからだ。

 もし自分だけだったら?

 考えたくもない想像が、閃の心を重く締めつける。


(俺は、弱い。……プロじゃねえ)


 その、重苦しい空気を切り裂いたのは、背後で響いた、重い金属の扉が開く音だった。


 ギィィ……ッ。


 閃は、ゆっくりと振り返る。

 闇の向こうから、一つの影が姿を現した。

 影ではない。あまりにも巨大な、人間の「壁」だった。


「……」


 身長は190cmをゆうに超えている。鍛え上げられた筋肉が、着ている黒い道着の上からでも、岩のように盛り上がっているのがわかった。

 短く刈り込んだ白髪。顔には、まるで獣に切り裂かれたような、古い傷跡が何本も走っている。

 その両のまなこだけが、闇の中で、獲物を探す猛禽もうきんのように鋭く光っていた。


 霧島きりしまげん

 財団の、全ての戦闘術師範。

 東雲朔や冴島さえじま玲奈れなといった、プロ中のプロたちを育て上げた、伝説の「鬼教官」。


(こいつが……霧島師範……)


 閃は、ゴクリと唾をのんだ。

 空気が、変わる。さっきまでの重い空気とは違う。まるで、濃密な「死」の気配が、肌をピリピリと刺すようだった。

 威圧感。

 これまで出会った誰とも違う。養父であるまもるとも、東雲とも違う。

 目の前にいるだけで、呼吸が浅くなる。本能が「逃げろ」と警告を発している。


「……神原閃だな」


 霧島の声は、地鳴りのようだった。腹の底に、ズシンと響く。


「……ッス」

「池袋での失態、報告は受けている」

「……!」


 失態。その一言が、閃の心の傷口を容赦なくえぐった。

 反論しようと口を開きかける。だが、霧島の次の言葉が、それを許さなかった。


「貴様は、死ぬ」

「……は?」

「そのままいけば、貴様は間違いなく死ぬ。それも、最もみじめな死に方だ。仲間を巻き込み、守るべき市民を危険にさらし、その上で、無様に犬死にする」


 淡々と。まるで、天気の話でもするかのように、霧島は言いきった。

 閃の中で、カッと血がのぼる。


「……何が言いてえんだよ」

「言葉通りの意味だ。貴様は、プロじゃない。任務を私情でけがす、ただのガキだ」


 東雲に言われたことと、同じ。いや、それ以上に、容赦がない。


「貴様の甘さが、仲間を殺す。貴様の未熟さが、組織を滅ぼす。……訓練の不足は、死を招く。それ以外の真実など、戦場にはない」


 霧島は、ゆっくりと閃に近づいてくる。

 一歩、また一歩と。そのたびに、プレッシャーが倍になっていく。

 閃は、無意識に、一歩後ずさった。


理事長ボスは、貴様の才能ちからを買っているようだが……」

 霧島は、閃の目の前で止まった。

 見下ろすその瞳は、あまりにも冷たい。


「俺から言わせれば、それは才能などではない。制御できぬ力は、ただの『破滅の力』だ。貴様は、自分も仲間も焼き尽くす、ただの災厄だ」

「……ッ!」


 閃は、奥歯をギリリと噛みしめた。

 黒い衝動デストロイ・モードが、心の奥底でうずき始める。

 こいつを、目の前のこいつを、殴り飛ばしたい。


「……かまえろ」

「あ?」

零極滅消術れいきょくめっしょうじゅつ、基本の型。……まずは、『安磐基護武アンバンキゴブ』。防御の構えだ。今すぐ、やれ」


 あまりにも、唐突な指示だった。

 こんな場所で、今さら、基礎の型だと?


「……ふざけんな。俺は、あんたに基礎を習いに来たんじゃねえ」

「そうか」


 霧島が、そう呟いた瞬間。

 閃の視界から、霧島の巨体が消えた。


(――!?)


 ドゴォッ!!


 衝撃は、閃の思考よりも速かった。

 みぞおち。まるで、鉄球で殴りつけられたかのような、内臓がひっくり返る衝撃。


「が……ッ、は……っ!?」


 呼吸ができない。体が「く」の字に折れ曲がり、胃の中身がせり上がってくる。

 だが、閃の体は、倒れることすら許されなかった。

 霧島が、閃の髪を鷲掴わしづかみにし、無理やり引き起こしていたからだ。


「……遅い」


 冷たい声が、耳元で響く。


「反応が、遅い。思考が、遅い。呼吸が、遅い。……全てが、素人だ」

「……う、るせ……」


 閃は、残った力で拳を握り、霧島の脇腹を狙う。

 だが、その拳は、まるで分厚いゴムの壁にぶつかったかのように、ピタリと止められた。

 霧島が、最小限の動きで、閃の手首を掴んでいた。


 ミシリ、と。嫌な音が、手首から響く。


「ぎ……ぁ……っ!」

「それが、貴様の力か」


 霧島の目が、閃を射抜く。


「才能におぼれるな、小僧!」


 ゴッ!

 容赦ない一撃が、閃の顔面を打ちのめした。

 閃の体は、今度こそ糸が切れた人形のように、数メートル後ろのコンクリートの床に叩きつけられた。


(……つよ……)


 まるで、歯が立たない。

 東雲とは、また違う「格」。

 純粋な、暴力。圧倒的な、武。


 薄れゆく意識の中、閃は、自分を見下ろす、鬼の形相をした男の姿を、ただ見つめていた。


 どれくらいの時間が、経っただろうか。

 閃の意識が、ゆっくりと浮上する。

 全身を、焼けるような痛みが支配していた。特に、みぞおちと顔面、そして手首が、まるで他人の体のように熱く、鈍い。


(……生きて……る、か)


 薄く目を開けると、ぼやけた視界に、黒くすすけたコンクリートの天井が映った。

 冷たく、硬い床の感触が、背中に伝わってくる。


「……立て」


 地鳴りのような声が、再び響いた。

 見下ろしてくる霧島きりしまの瞳は、先ほどと何一つ変わらない。冷徹な、鬼の瞳だ。


「……う……ぐ……」


 閃は、床に手をつき、体を起こそうとする。だが、全身の筋肉が悲鳴を上げ、力が入らない。

 さっきの一撃で、完全に体が「壊された」のだと、本能が理解していた。


「どうした。その程度か。貴様の才能とやらは」


 その言葉が、閃の心の奥底に、再び火をつけた。

 黒い衝動デストロイ・モード

 怒りが、痛みを麻痺まひさせる。視界が、赤く染まっていく。


(……この、クソ野郎……っ!)


「ガアアアアアッ!!」


 獣のような雄叫おたけびと共に、閃は床を蹴った。

 もはや、型も何もない。ただ、目の前の敵を破壊するためだけの、最短距離の拳。

 だが。


「――おろか者が」


 パァン!

 乾いた音が響く。

 閃の拳は、いとも簡単に、霧島の巨大なてのひらに受け止められていた。


(……なっ!?)


 あれだけの怒りを、速度を込めた一撃が、まるで赤子の手をひねるように、止められた。

 霧島は、閃の手首を掴むと、そのまま、テコの原理で閃の体を宙に浮かせた。


「が……っ!?」

「それを使うか。その『破滅の力』を。だが、制御できぬ力は無意味だ」


 ドサッ。

 閃の体は、再び床に叩きつけられる。

 霧島は、その細い手首を掴んだまま、ギリギリと力を込めた。


「ぎ……ああああああっ!!」

「貴様の動きは、全てが大振りだ。怒りに任せ、力を垂れ流しているにすぎん。基礎が、まったく、なっていない」


 霧島は、閃の手首を解放すると、一歩下がる。


「立て。……もう一度、『安磐基護武アンバンキゴブ』。防御の構えをとれ」

「……ふ、ざけ……」

「立てと言っている!!」


 ビリビリと、空気が震えるほどの、怒号。

 それは、閃の体を、強制的に従わせる「力」を持っていた。


(……クソ……。こいつ……マジだ……)


 閃は、震える足で、よろよろと立ち上がる。

 そして、屈辱に耐えながら、零極滅消術れいきょくめっしょうじゅつの、基本中の基本である、防御の型をとった。


 そこからが、本当の「煉獄れんごく」だった。


「腰が高い! そんな構えで、本当に敵の攻撃を受けきれるとでも思っているのか!」

 ドン!

と、腹部に強烈な蹴りが入る。


「……ぐっ!」

「呼吸が浅い! 防御とは、次の攻撃への起点だ! 息を止めれば、動きも止まる! 戦場では、即、死だ!」

 バキッ!

と、構えていた腕のガードの上から、容赦ない手刀しゅとうが叩き込まれる。


「……がはっ!」

「目線が泳いでいる! 恐怖に目がくらみ、敵の殺気を見失うか! そんな目で、仲間を守れるか!」

 閃の頬を、岩のような拳が、寸止めで通過する。その風圧だけで、閃の体はバランスを崩した。


 何度も、何度も、何度も。

 ただ、ひたすらに、基本の型を繰り返させられる。

 立つ。構える。

 そして、霧島の罵声と共に、叩きのめされる。

 立ち上がる。構える。

 また、叩きのめされる。


 閃のプライドは、才能への自負は、この「煉獄」で、粉々に打ち砕かれていった。

 もう、怒りも湧いてこない。

 ただ、全身の痛みと、疲労と、そして、自分の不甲斐なさだけが、閃の心を支配していた。


(……もう……無理だ……)


 汗か、血か、それとも涙か。わからない液体が、床にシミを作っていく。

 鉄とカビの匂いが、やけに濃く感じられた。


「才能に溺れるな、小僧!」


 霧島の容赦ない一撃が、ついに閃の意識を刈り取った。

 薄れゆく視界の中、鬼の形相をした師範の顔が、ゆっくりと遠ざかっていくのが見えた。


(……つよすぎる……。これが、本物のプロの世界。そして、これが、才能に溺れたガキの、惨めな結末か……)

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