第15話:神の領域への探求者

 ――知的好奇心は、時に麻薬だ。

 一度その甘美なしびれを知ってしまえば、人は破滅に至る道だとわかっていても、足を止めることができなくなる。


 【独立行政法人 電子生体学研究所でんしせいたいがくけんきゅうじょ】、通称・電生研でんせいけん

 その最深部に位置する高坂こうさか浩平こうへい教授の私的研究室は、今、静かな熱狂に包まれていた。

 部屋のあるじである高坂は、ここ数日、ほとんど寝ていない。くまのできた目の下とは対照的に、その瞳は少年のようにギラギラと輝いていた。


「……これだ。これなんだよ……!」


 独り言が、薄暗い部屋に響く。

 彼の目の前には、ホログラムディスプレイがいくつも浮かび、常人には理解不能な数式とグラフが、滝のように流れ落ちては明滅を繰り返していた。

 部屋に充満しているのは、何杯もれ直したせいで煮詰まったコーヒーの香りと、高性能なサーバーが発するかすかなオゾンの匂い。床には、栄養補助食品の空き袋や、読み捨てられた専門誌が散乱している。普段の彼からは考えられない、混沌とした光景だった。


 だが、今の高坂に、そんなことを気にする余裕はなかった。

 彼の意識は、ただ一点。

 数日前の横浜・本牧埠頭ほんもくふとうで起きた、あの不可解な焼失事件の現場から検出された、異常なエネルギー反応のデータに、完全にとらわれていた。


(なんだ、これは……。なんだっていうんだ、この波形は……!)


 ディスプレイに表示された、ひときわ異彩を放つグラフ。それは、まるで生き物のように、滑らかでありながら、ありえないほど鋭角な起伏を描いていた。

 熱反応でも、電磁波でも、放射線でもない。人類がこれまでに観測してきた、いかなるエネルギーの痕跡とも違う。

 既存の物理法則が、音を立てて崩れていくような感覚。

 普通の科学者なら、測定機器の故障か、何かのノイズだと、早々に見切りをつけていただろう。

 だが、高坂の天才的な直感が、警鐘のようにけたたましく鳴り響いていた。


(これは、エラーなどではない。これは……“本物”だ!)


 彼は、あの国家基盤保安財団とかいう、胡散臭うさんくさい連中のことを思い出していた。

 先日、氷室ひむろと名乗る、氷の彫像ちょうぞうのような男が持ってきた、あの、“人”の物とは思えない謎の脳波データ。そして、このエネルギー反応。

 二つの無関係に見える事象が、高坂の頭の中で、一つの巨大な謎を形作り始めていた。


「財団の連中……このエネルギーの正体を、どこまで掴んでいる……?」


 吐き捨てるように呟く。

 彼らは、高坂が集めた埠頭のデータを、「機密事項」として一方的に召し上げていった。詳しい説明は何一つなく、ただ、「これ以上、この件には関わらないように」と、冷たく言い放っただけ。

 まるで、世紀の大発見を独り占めしようとする、欲深いコレクターのような態度。


(ふざけるな……。科学の進歩は、独占されていいものじゃない。全人類の共有財産であるべきだ)


 純粋な科学的探求心。そして、財団に対する反発心。

 その二つが、高坂の中で危険な化学反応を起こしていた。

 彼は、財団には内密で、独自の調査を続けることを決意した。幸い、データは全てバックアップを取ってある。


「……待てよ」


 不意に、ある可能性が脳裏をよぎった。

 もし、この『ありえないエネルギー』が、過去にも観測されていたとしたら?

 国内外で起きている、原因不明とされる数々の不可解な事件。テロや、何かの実験の失敗だと片付けられている、那些あれらの事件の中に、この痕跡が隠されているとしたら……?


(まさか……。いや、だが……)


 一度芽生えた仮説は、つたのように思考に絡みついて離れない。

 高坂は、震える指でコンソールを操作し、政府機関や研究施設が共有する、巨大なデータベースへとアクセスした。閲覧には特別な権限が必要だが、彼ほどの権威になれば、いくつかの裏口バックドアを知っている。


検索サーチ……キーワードは、『原因不明』、『集団失踪』、『異常放電』、『レーダー消失』……」


 入力されたキーワードに応じて、膨大な量の事件ファイルが、ディスプレイにリストアップされていく。

 数十、数百、数千……。

 その、情報の海の中から、たった一滴の真実をすくい上げる。それは、砂漠でたった一粒のダイヤを探すような、途方もない作業に思えた。


 だが、高坂は諦めなかった。

 彼の目は、獲物を見つけた狩人のように、鋭い光を放っていた。

 この先に、誰も見たことのない景色が広がっている。神の領域に、指先が触れようとしている。

 その確信だけが、彼を突き動かしていた。


 どれくらいの時間が、過ぎただろうか。

 コーヒーはとっくに冷めきり、窓の外は白み始めていた。だが、高坂は、そんなことにも気づかずに、ディスプレイの情報を貪るように追い続けていた。

 彼の目は充血し、乾いたコンタクトレンズがゴロゴロと異物感を訴えている。それでも、彼はまばたきすら忘れて、画面に釘付けになっていた。


「……あった」


 絞り出すような、かすれた声が漏れた。

 それは、十数年前に中国南部で発生した、とある武装集団の拠点が一夜にして消滅したという、未解決事件のレポートだった。

 公式発表では、大規模な地滑りによるものとされている。だが、レポートの隅に、ごく小さな文字で、こんな記述が残されていた。


『現場周辺から、地滑りの兆候は一切発見されず。原因は不明。また、極めて微量ながら、観測機器に正体不明の電磁ノイズを記録。詳細は要調査』


(これだ……! 横浜の埠頭で観測された、あの波形とよく似ている……!)


 高坂は、自分のサーバーに保存していた横浜のデータを呼び出し、中国のレポートのデータと並べて表示させる。

 エネルギーの絶対量は、桁違いに違う。だが、その“質”が、驚くほど似通っていた。

 波形のパターン、減衰していく際の特異な挙動……。

 それは、同じ種類の木から生まれた、大きさの違う葉っぱを見ているかのようだった。


(間違いない……。これは、偶然の一致などではない……!)


 全身に、鳥肌が立った。

 それは、恐怖からではない。武者震いだった。

 世紀の大発見の、その尻尾を、今、確かに掴んだのだ。


 だが、彼が掴んだその尻尾が、一体どれほど巨大な獣に繋がっているのか。

 そして、その獣が、どれほど深い闇に潜んでいるのかを、まだ知る由もなかった。

 神の領域を覗き込むとき、神もまた、こちらを覗き込んでいるのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る