8

 その重厚な扉を叩く時は、いつでも酷く緊張する。もうそんな年齢ではないにも関わらず、今でも幼子のような心許なさは消し切れない。

 僅かな強張りを解すように、レオニード・カヴェーリンは小さく首を振った。緊迫の気配を消すノックの音は意図せずに乱暴になってしまうが、しかし応じる声はいつでも柔らかい。

「どうぞ」

 重い樫の扉の向こう側から招かれ、レオニードはドアノブに手を掛けた。

「入ります、……起きていて大丈夫ですか、兄上」

「ああ、いつも心配ありがとう、レオ」

 扉の向こう、執務室に入ると、正面の椅子に腰掛けた兄が、レオニードに向けてゆるりと微笑んだ。父親似の造作は一緒である筈なのに、どうしてこうも似通わないのか。兄、ヴィクトルの相貌を見るといつも、レオニードはそんな感慨を覚えてしまう。

 長めの黒髪をさらりと後ろに流し、漆黒の瞳は緩やかに弧を描いている。すらりとした鼻梁は凛然としているのに、口元を彩る笑みは柔和さを醸し出していた。常に眉間に皺を寄せ、不愛想だの冷酷だのと腐される己とは、余りにも違う。

 知らず渋面を深くしながら、レオニードは執務机の前に座したヴィクトルを見た。卓上には山のような書類が積まれている。辺境伯である父を亡くして以来、溜め込んで来た事務仕事だった。元来はレオニードがやらなければならない雑務である。

 少し待ってくれ、そう言ってヴィクトルは手にしていた書面に目を落とす。長い睫毛が陰を作り、そうして憂いを帯びると一層その相貌は儚く見えた。メイドが目にしたらまた姦しく騒ぎそうだ。思うレオニードの心など露知らず、確認を終えたらしい書面の末尾にさっと署名をすると、ヴィクトルは爽やかに笑った。

「お待たせ、すまないな、時間が掛かって。取り急ぎ必要なものには目を通しておいた筈だ。勿論、領主の――お前の署名が必要なものは避けてある」

「ありがとうございます。兄上の手を煩わせまして……」

「それはお互い納得尽くだろう、レオ。お前は戦場に、俺はその補佐を。それが一番合理的だ」

「それは、そうですが……」

 渋々頷くレオニードに、ヴィクトルは革張りの椅子に座したまま苦笑する。

「まあ、これも秘書官が見つかるまでの間だけだ」

「……こんな辺境の地に有能な秘書官が来てくれるとも思えませんがね」

「違いない」

 重々しく頷いて見せるヴィクトルに、漸くレオニードも表情を僅か解した。

 先の戦いで、領主たる父が亡くなり、秘書官であった老君もまたその座を辞した。レオニードとヴィクトルがまだ幼かった頃から辺境伯の右腕として働いていた辣腕の者である。代わりを探すのは難航していた。

 ふう、と息を吐いたヴィクトルの顔色は僅かに白い。昔から心臓が丈夫ではないのだ。元来ならば長兄であるヴィクトルが伯爵位を継ぐのが道理である。それでもレオニードが世継ぎとなったのは、ヴィクトルの先天的な病が要因だ。

 二十歳まで生きられるか分からないと言われていた兄の、仄白い相貌をレオニードは眺める。体調を慮り学校には余り通えなかったにも関わらず、常に主席に近い成績を叩き出していた兄は、病さえなければ世継ぎとして誰からも望まれた存在となっていただろう。

――お前たちのどちらかさえ完璧だったならな。

 耳元に沸き上がる幻聴を振り払うように、レオニードは机の端に寄せられた書面を手に取る。王都から寄越されたそれは、先の魔獣討伐の際に亡くなった、父を初めとする騎士たちに対する慰問金に関する書類だった。

 既に兄が確認しただろうそれに念の為目を通すレオニードに、突然、ヴィクトルが揶揄いの声を掛けた。

「ところで、件の細君とは仲良くやっているのか?」

 ぐしゃり、意図せず手に力が入り、紙面が歪む。二重に焦るレオニードを、ヴィクトルが呆れたような目で見て来た。

「何を慌てているんだ、只、お前の奥方について聞いただけだろう」

「おく……っ、いや、そういうあれでは……」

「あれとは何だ、きちんと王都で結婚式を挙げたのだろう?」

「まあ……挙げましたが……」

 真っ白なウェディングドレスが脳裏に浮かぶ。幼さと成熟の狭間にある肢体が白に包まれ、鮮やかな金髪が肩口に触れる。化粧を施されている相貌は美しかった。けれどその細い身は柔らかさを持たず、奥方だの細君だのと、そういった呼称とはまるで別物であった。

 一月ほど前に結婚した第三聖女は、レオニードと同じ性を持つ。端から妻としての役割を求めての婚姻ではない。所詮王命による繋がりでしかない相手との仲を聞かれても、答えようがないのだ。

「別段、仲良くする必要もないでしょう」

「何を言っている、聖女がこの地にとってどれだけ有益か、分からないお前でもあるまい。ご機嫌を取っておくに越したことはない、そうだろう、レオ?」

「……それは……そうですが」

 兄の言は至極冷静で真っ当だった。ぐう、とレオニードは唸る。それはそうだ、その通りだ。幾度となく魔獣に襲われ、そしてこれからも戦い続けるノルデュール領において、聖女の力は必須であった。それを見越しての婚姻であったにも関わらず、レオニードが妻たる第三聖女と会話をしたのは、数える程でしかない。

 何だお前、呆れたようにヴィクトルが目を細める。そうしてみると、かつてその椅子に座していた父とそっくりだ。

「未だ聖女に名乗って貰えなかったからと拗ねているのか」

「っな?! す、拗ねてなど!!」

「拗ねているじゃないか、領主としての役割も忘れて、子供じみた意地を張っていられる状況でないのは、お前が一番分かっていることだろう?」

 ぐうの音も出ない正論に、今度こそレオニードは黙り込んだ。力の抜けた手から紙面が落ちる。卓上に翻ったそれを捕まえながら、ヴィクトルは苦笑した。

「すまん、少し言い過ぎたか」

「いえ……兄上が正しいのは、間違いないのですが……」

「レオは妙な所で潔癖だからなあ。この年まで妻帯しなかったのはお前の落ち度だぞ」

 二十六にもなって婚約者の一人も居なかったが故に、聖女を結婚相手としてあてがわれた。女には目もくれず、戦いに明け暮れていたその結果がこれである。それはそうなのだが。そう、なのだが。

「評判が評判だからな、お前が忌避する理由も分かる。都で噂の淫売だそうだからな」

 第三聖女は癒しを対価に体を求める淫乱だ。そうした噂はこの北の地にも広まっていた。それを頭から信じた訳ではない。だが、僅かな偏見が胸中にこびり付いていたのも事実だ。

 しかし初めて目にした聖女は、悪評とは裏腹に、献身と祝福に満ちていた。

 王都で死にかけた子供の上、蹲っていた細身を思い出す。きらきらと舞う祝福の中、全霊を以てして命を救おうとした、その、孤独な背中を。

「……噂は、噂です」

「そうだろうとも。少なくとも、ここでの第三聖女の働きは充分なものだ。とはいえ悪評は簡単には振り払えまい。だからこそお前が補ってやるべきだと言っているのだよ」

「…………善処します」

 不精不精、何とか捻くり出した返答に、ヴィクトルは呆れたように笑った。


 こんこん、執務室の扉が軽く叩かれる。

 誰何するより前に、重厚な扉は勢い良く開かれた。

「ああ、やっぱここに居た。イリヤが心配してるぞ、ヴィクトル」

 さらりとした金色がレオニードの前を通り過ぎる。執務机の前に立った第三聖女は、不貞不貞しく、領主の兄の名を呼んだ。

「……ノックをしたら返事を待て」

「へいへーい、ほんで、ヴィクトルはそろそろ休んだ方が良いんじゃないかって」

 レオニードの小言を適当に流し、第三聖女がちらっと入り口を見た。碧の瞳を向ける先、扉の陰からそっと顔を覗いている兄の嫁、イリヤの姿があった。

 慎ましやかな栗色の瞳が、レオニードに向けて静かに伏せられる。そこに込められたあからさまではない批判の色を感じ、僅かな罪悪感と煩わしさにレオニードは唇を結んだ。

 学生時代から兄と懇意にしていたイリヤは、彼が長くは生きられないことも承知の上で共にあることを選んだ一途な女性だ。ヴィクトルの体調を誰より把握しており、且つ心配している。

 今もまた、レオニードがヴィクトルに無茶をさせていないか見に来たのだろう。何故だか第三聖女を味方に付けて。

「ああ、すまないなイリヤ、今終えたと、こ……」

 愛妻の姿に勢い良く立ち上がりかけたヴィクトルの語尾が、急速に弱まる。中腰で胸を押さえるヴィクトルに、真っ先に駆け寄ったのは第三聖女だった。

 書類を踏み付け執務机に飛び乗ると、第三聖女は伸び上がってヴィクトルの唇を奪う。きらきら、きらきら、聖女の祝福が執務室に溢れ出る。黄金の世界は目映く美しく、そして細い背中は何処か物悲しい。

 急事であることも忘れ、レオニードは暫し、目を奪われた。

「っふ、う……助かった、もう大丈夫」

 どうにか息の整ったらしいヴィクトルの声に、はっとレオニードは自分を取り戻す。

「あっそ? 気を付けろよ、俺は根本的な病は治せないんだから」

 今のは只のたいしょーりょーほー、そう言って机から降りる第三聖女の足下、整えられていた書類が無惨に歪み床に散るのを、レオニードは眉間の皺を深めながら拾い上げた。口から小言が出そうになるのは、床に屈み込んで何とか抑える。あの場面では形振り構わずヴィクトルの治療に当たった聖女の行動が正しい。根源的な病理は治せなくとも、呼気を整え苦痛を減らすだけで、心臓に掛かる負担はかなり軽減出来るだろう。

 あなた、血相を変えたイリヤが治癒が終わったのを見て駆け寄って来る。すれ違い様、心配そうな表情の中に非難の色が浮かぶのは最早隠し切れていなかった。

「イリヤ、人の心配も良いが、君の身も大事にしてくれないと」

「ええ、私は大丈夫……大丈夫だから」

 兄に寄り添う義姉の、その膨らんだ腹に一抹の呵責を覚え、レオニードは机の上に書類を戻しながら極力平坦な聞こえるよう声を掛ける。

「兄上、残りは自分がやりますので」

「そうか、では任せるとするよ」

 寄り添いながら部屋を辞す、兄夫婦の顔は見られなかった。俯き扉が閉まる音を背中で聞くレオニードに、傍らから掛けられる声は無遠慮だ。

「あんた嫌われてんな、イリヤに」

「……余計なお世話だ」

 嫌われているという、そこまでのことはないと思う。思うのだが、反論も出来ずレオニードは部屋に残った者に目を遣った。一緒に出て行けば良かったものを、何故か部屋に残った第三聖女は、机に腰掛け行儀悪くぷらぷらと足を揺らしている。

 確か年は十五か、十六か、そこらだったか。未だ幼いとすら言って良い程のその体躯は、白く厚手のチュニックに覆われている。上から羽織る羊毛の防寒具もまた白く、最早レオニードには他の色を身に着けている第三聖女の姿など思い描くことが出来ない。

 初めて第三聖女を目にした時、その余りの華奢さに驚いた。細く美しいその身で、死に至り掛けていた子供を救い、王族に楯突くことさえ厭わない。その有り様は正に〝聖女〟そのものだった。

 それなのに。それなのに、だ。

「妊婦にあんま圧掛けんなよなー、俺がどうこう出来る領分のことじゃねぇんだから」

 美麗な顔立ちから吐かれる乱雑な言葉に眩暈がする。生まれ育ちについて言及するべきではないだろうが、それにしても行儀も言葉遣いも悪過ぎる。儚げな様相と余りに懸け離れた言動に、レオニードはついつい、苦言を呈さずにはいられないのだ。

「圧を掛けているつもりはない。そして机に座るな、書類を踏むな」

「只でさえ、こーんな怖い顔してんのに」

 こーんな、と言いながら態と眉間に皺を寄せてみせる、揶揄うような仕草にこちらは本当に渋面になる。小言は一切聞く気のないらしい第三聖女に、レオニードは苛立ちを抑えきれなかった。

 どちらかと言えば冷静だ無表情だと言われることの多いレオニードであるから、第三聖女に対してどうしてこうも心がざわついてしまうのか理解出来ない。

――つまらない男に育ったものだ。

 脳裏にちらつく言葉はまるで呪詛のようで、振り切るように、細い第三聖女の肩を掴んだ。

 第三聖女の肩が跳ねた。大仰なまでに身を捩る、その過剰な反応に驚くより先に反発が衝いて出た。身を退きかけた手首を強引に掴む。体勢を崩す体を押し倒し机に縫い付ければ、先程の怖気づいたような反応はどこへやら、挑発するような瞳が見返して来た。

 長い睫毛に縁取られた碧が、真っ直ぐにレオニードを見据える。こうした行為には慣れているのだろう、へらりと笑みを貼り付ける口元が余裕そうで尚更不快に思えた。

 衣服が捲れ、覗いた大腿は白く細い。その奥で幾度となく、数多の男を咥え込んで来たのか。

 かっと全身に熱が回る。言い訳の仕様もなく、苛立ちは下半身へと集中する。

 組み敷いた身は柔らかさを持たず、それなのに、仰向けに縫い止められたその姿に、レオニードの下腹部にいつしか熱が溜まっていた。

 金の髪を乱した聖女もそれに気付いたのか、無遠慮に下の方を眺めながら、ふうん、と息を零す。

「何だよ、怖い顔してても、反応すんだな」

「何を……っ」

 いつの間に靴を脱いだのか、聖女の冷たい足の裏が、レオニードの下肢に触れる。兆し始めた熱源を無遠慮な足先に探られ、レオニードは小さく呻いた。

 手慣れている。そう思うと言い知れない苛立ちが募った。

 片手で両の手首を捉え、頭上に結わえる。無防備に曝された肢体は衣服に包まれて尚、艶めかしい。組み敷かれた聖女は笑っていた。その余裕が腹立たしく、激情のままチュニックの裾から手を差し入れる。捲れ露わになった腹は呆れる程白い。滑らかな肌に手を這わせ、扇情的な相貌に顔を寄せる。

 恋愛については門外漢だ。だが、色事を知らぬ身でもない。夫婦であれば当然の行為だろう。例え同性であれ――互いに望んでいないことであれ。

 唇が触れる瞬間、不意に、第三聖女の口元から笑みが消えた。睫毛の下、瞳が翳る。気取られないようにしているのだろう、僅かな唇の戦慄きが余りにも弱々しい。それは色事に精通した娼婦というより、怯え戸惑う子供にしか見えなかった。レオニードは急速に頭が冷えるのを感じた。

――自分は一体、何をしているのだ。嫌がる相手に、無理矢理――

 ごん、机に打ち付けた額は思いの外響く音を立てた。耳の横で突然額を机に打ち付けたレオニードに、拘束を解かれた聖女はきょとりと目を瞬かせる。

「びっ……くりしたぁ……何やってんの、あんた」

「……それは俺が知りたい」

 額を押さえレオニードは体を起こす。既に熱は去り、残るのは果てしない後悔ばかりだ。

 起き上がった第三聖女は自らの唇をなぞる。レオニードの触れられなかった、それを。

「……何だよ、しないのかよ」

 吐かれる溜め息に呆れが混ざっているようで、レオニードの心臓がきゅうと縮む。つまらない男だ、戦うことしか能のない己をそう思う。それが最早本当に自身の考えなのか、胸に染み着いた呪詛に因るものかは知れない。

 ふうん、と小さく呟く第三聖女の睫毛が揺れる。

「変な奴」

 ぽつりと漏らし、机から飛び降りた第三聖女は足早に執務室の扉へ向かう。聖女の肌は白い。だから、金髪の隙間から覗いた耳元が、仄かに朱色を帯びているのがレオニードにも見えた。

 けたたましい音を立てて執務室の扉が閉められる。去り行く白い背中を、レオニードは半ば呆然と、見送った。


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 城のそこかしこで、金色の残滓を見かけるようになった。気まぐれな金の美猫は一所に留まることを知らず、忙しなく城のあちこちを歩き回っているようだった。

 第三聖女がこのノルデュール領にあるヴァルグリム砦にやって来てから二月程。レオニードを初めとした面々は、聖女の存在を扱いかねている。


「っ団長! 偶には俺とも手合わせして下さいよ!」

 レオニードが鍛錬場に入ると、団員たちと剣を振っていたマルクが、一散に駆け寄って来た。

「よさんか、マルク。不躾だぞ」

「いや、いい。マルク、俺よりセルゲイに習った方がいいぞ。先代の頃は最前線で戦っていた猛者だからな」

 レオニードが苦笑しながら告げると、この春騎士団に入ったばかりの若い騎士は、驚いたように傍らの老兵を見上げた。

「っえ、セルゲイ隊長強いんすか?!」

「強いなんてもんじゃない、俺の師だ」

「っえええ!?」

 仰天したように背を仰け反らせるマルクに、セルゲイが顎髭を撫でながら困ったようにレオニードを見返して来る。

 元々セルゲイは父の代から騎士団を率いて来た老練の騎士だ。父の逝去と主に前線は退いたものの、今は若兵の育成に注力して貰っている。レオニードも幾度叩きのめされたか分からない。

 今年ノルデュール領を守護する騎士団に入団した若者は数名で、ヴァルグリム砦の近隣の村から志願する者が殆どだ。その中でも王都出身ながらわざわざこの辺境の地へやって来たマルクは、団長であるレオニードに過分な期待を抱いていたる。

 “ギフト”もなしに北方の地を守護する要の煤黒の冷酷な騎士。父が存命で辺境伯の座を継ぐより前から、そうした評判は王都までも広がっていたらしかった。山脈から降りて来る魔獣を退ける国の果てのノルデュール領、その地を代々守護するカヴェーリン家の者は、“ギフト”持ちであることが常だった。

 そのことを考えると、レオニードの胸に陰が差す。自分が“ギフト”持ちであったなら、或いは優秀で“ギフト”持ちの兄の病がなければ。騎士団の在り方もきっと今とは違っただろうに。

 だが仮定は無意味だ。レオニードはレオニードとして、この辺境の地を守っていかなければならない。そうした愚直な姿勢が、“ギフト”がないながら魔獣を斬っては捨て、冷酷に退ける騎士である、という評判に繋がったらしい。人の噂というものは往々にして度し難い。

「レオ様もお人が悪い。この老いぼれを酷使しようとは」

 レオニードの胸中を量った訳でもないだろうが、かつての師であり今は部下である老兵は、くつくつと喉を鳴らして笑った。

「え、じゃあセルゲイ隊長、俺と手合わせしてくださいよ! ねえ!」

「鍛錬ならずっとやっているだろう」

「違くて、手合わせお願いしたいです! 真剣試合で!」

 向こう見ずな提案だが、マルクの瞳は期待できらきらしている。若さ故の挑戦は無謀だが大層眩しい。

「怪我をしても知らんぞ」

 やれやれと肩を竦めながらも、若い頃は散々にやんちゃをして来たと噂のセルゲイは、こうした輩が嫌いではないようだ。

 修練用の剣を手にするセルゲイの前で、マルクがふっと口の端を歪めた。

「ま、怪我してもいいでしょう。どうせあの淫売聖女が治してくれるんで」

 マルクの口から放たれた悪意が、耳から入り込んで来る。ぞろりと臓の腑を這い回る気持ち悪さに、レオニードは拳を握り締めた。

 レオニードの顔色を読んだか、セルゲイがそっとマルクを嗜める。

「……口が過ぎるぞ、マルク」

「だってそうでしょ、あの聖女、簡単な怪我を治すばっかで大して働きもしないで、最近色んなとこに顔出してるそうじゃないですか。どうせ男の品定めでもしてるんじゃ……」

 流石に言葉が過ぎる。レオニードが制止しようとした時、背後から呑気そうな声が響いた。

「あんだよ、そこの童貞君は、まーた俺とキスしたくなっちゃった訳?」

 ぎょっとして振り返る先、細い金糸が靡く。いつの間に鍛錬場に来ていたのか、第三聖女が碧の瞳を眇めて、飄々とした様子で肩を竦めていた。

 一瞬、レオニードは言葉に詰まった。この場で陰口を叩いていたのもそうだが、先に執務室で聖女を押し倒したのは記憶に新しい。それ以来、どうにも気まずくて、レオニードは碌に第三聖女と顔を付き合わせようとはしなかった。

 久々に対面する第三聖女は、相変わらず幼さが残りながらも繊細で艶めいた美貌を晒していた。その美しい面立ちにへらりとした笑みを浮かべ、ぞんざいな口調で聖女は言う。

「でもなあ、たかが練習試合の怪我如きで、童貞君にキスしてやんのも癪なんだけど」

 黙っていれば儚げなのに、口を開けばがさつで品がない。第三聖女の軽口にセルゲイは頭痛を堪えるように額を抑え、マルクは逆上した。

「っな、ば、だから、童貞じゃねーっつーの! つか何なんだよお前も、こんな所にのこのこやって来て、夜の相手でも探しに来たかよこの色情魔が!!」

 マルクの言葉が鍛錬場に響く。修練を行っていた騎士たちが、何事かとこちらを見て来るのに、レオニードは内心舌打ちする。第三聖女に対する悪評は当然のように騎士団の中にも広まっていて、騎士団の者も城の者も、聖女の威光を軽視する者が後を絶たない。

 兄、ヴィクトルの忠告を思い出す。確かに聖女はこの地において有用で、存分にその力を奮って貰うべきで、その為に風聞を振り払えるよう領主たるレオニードが助力すべきだった。

 それなのにこの体たらくだ。二月もの間、レオニードは伴侶たる聖女のことを、何も理解出来ないでいる。

 何事かとこちらを見やる騎士たちの、好奇に晒されながら、第三聖女はまたへらりとした笑みを顔に貼り付けた。

「だとしてもお前にゃ関係ないな、童貞だしなあ」

「だから、違うって……!」

「ま、俺は邪魔みたいだから行くけど。後で怪我したからって泣きつくなよ」

 ひらひらと手を振り、第三聖女は騎士たちの視線を振り切るように身を翻す。去りゆく姿を呆然と見送る内に、セルゲイの拳がマルクの脳天を直撃した。

「っ痛!? 何すんすか?!」

「この、戯けが……お前たちも、何をぼうっとしている! さっさと鍛錬に戻らんか!」

 苛立ったようにセルゲイが声を張り上げると、慌てたように騎士たちは散っていった。

「……レオ様、あの態度はいかがなものかと思いますよ」

 非難するような視線を向けられ、レオニードは反論も出来ず押し黙った。聖女が初めてこの地に足を踏み入れた時、セルゲイの部隊は赤竜を退けたばかりで、満身創痍の者ばかりだった。それを助けたのが聖女の奇跡であり、それ以来セルゲイは、第三聖女に対する態度を改めたらしい。

 レオニードとてそれは分かっている。聖女は只々男を漁っているばかりの淫売ではない。こうして城を歩き回っているのも、誰か癒す相手がいないか探しているからだ。兄嫁のイリヤも悪阻が酷い際には随分と助けられたと聞くし、兄のヴィクトルも病自体は治せなくとも癒しの力のお陰で苦痛からは随分と遠のいている。

 それなのに聖女に対する悪評は止まない。きっと、レオニードが強く諫めれば表面上は収まるだろう。それを怠っているのは明確にレオニードの落ち度だ。

「レオ様、」

「……分かっている」

 旧知の老兵にはレオニードは頭が上がらない。金色の影を追って、身を翻した。


 ヴァルグリム砦の中心にある城は、居城と要塞の二つの機能を併せ持つ。中心の広場にある鍛錬場から居城の方へ足を向けたレオニードは、石造りの階段の途中、縁に腰掛けた小柄な背中を見つけた。階段を下りる足が止まる。ぷらぷらと足を揺らす、その背がどうにも頼りなく見えた。

 足音でこちらに気付いているだろう聖女は、振り返ることなく足を揺らし続けた。

 呼び掛けようとして、レオニードは口を閉ざした。聖女のことを、レオニードは何も知らない。何を考えているかも、何をしているかも、呼び掛ける名さえも。

「……なあ、魔獣が沸く山ってあそこ?」

 振り返ることなく聖女が自然と問い掛ける。砦の麓に広がる平野の、更にその先、遠く聳える山脈を細い指先が示した。

「……ああ、そうだ」

「ほーん、赤竜が出るってのも?」

「……ああ、あの山頂に棲みついてると言われている。昔話にもなっているな」

「俺は聞いたことねぇな。こっちの地方の話か?」

「北方では有名だな。悪いことをしていると赤竜に食べられるぞ、と親に良く脅されたものだ」

「っはは、あんたが子供の頃、なんて想像も付かないな」

 白い肩が揺れる。きっと今の聖女の顔には、あの癇に障るへらへらした笑みは浮かんでいないのだろう。何となく、そう思った。レオニードが覗き込んだり、聖女が振り返ったりすれば、その時には上っ面の笑みを浮かべているだろうとも。

 山頂の方へ目をやりながら、第三聖女がぽつりと呟く。

「……何か、もっと魔獣の被害とかあるもんかと思ってたけど。王太子様とやらが討伐部隊出すくらいだし」

「ああ、以前はもっと頻繁に、魔獣が出ていたものだが」

 赤竜だけでなく、ノルデュール領は常に魔獣の驚異に晒されている。近隣の村に害が及ばないよう、最北に位置する砦の騎士団の者たちは、部隊が交代ごうたいで哨戒とその迎撃に当たっていた。

 ところがここ数ヶ月程、魔獣の出現はめっきり減った。聖女の存在は魔のものを退ける。そんな噂を聞いたことがある。実際、王都を守護する大聖女の加護によって、シルヴァリル王国の中心地には殆ど魔獣は出没しないらしい。

 此度の聖女の派遣、並びに辺境伯との婚姻も、聖女の分散の意味合いもあってのことだろう。現に、地方の者の王都付近の者に対する不満は大きい。

 第三聖女が来たお陰で、この地に一時の平穏が訪れた。それは事実だ。けれどそれによって、聖女はどうやら力を持て余しているらしい。

 暇そうな背中が寂しげで、思わず伸ばし掛けた手を中途半端に宙に浮かせる。先に組み伏せた聖女の身の細さを思い起こし、動揺するレオニードの前で、金の髪がさらさらと揺れた。

「ま、やること少ないのはいいけどさあ……何で俺ここにいんだろ」

 それはまるで独り言のように聖女の口から零れ出た。責められている訳ではないだろうに、ぎゅっと心臓が捕まれたような心地がして、レオニードは浮かせた拳を握った。その為の婚姻だった。王宮の意図など知れている。聖女の奇跡をより所に、赤竜を退けろ、北の地を守護しろ、と。

 それを何よりも理解しているのが第三聖女自身であることが哀しい。薄く丸まった背中が、酷く哀しく見えた。

 勢い良く伸ばした手で、レオニードは聖女の肩を掴んだ。

「っお前がいるから、魔獣の被害は減っている。怪我人も目に見えて減った。聖女がこの地にいる理由はそれだけで……充分だ」

 柄にもなく熱くレオニードは告げる。他人に対してここまで強く、言葉が伝わって欲しいと思ったことはない。

 更に言葉を募らせようと息を吸うレオニードの隣、階段の縁に腰掛けた第三聖女が、驚いたように顔を上げた。碧の瞳が大きく開かれている。その表情にはレオニードの感じていたような悲壮も哀切も欠片もなく、只々驚きしかない表情に毒気を抜かれた。

「べっつに俺は、仕事少ない方が楽だから、いいんだけど……って言おうと思ったんだけどさ」

 困ったように告げる聖女の様子に、途端に恥ずかしくなる。かあと耳の裏が熱くなり、レオニードは、いや、その、と口ごもりながら聖女の肩から手を離した。

「相変わらず、変な奴」

 ぼそりと呟き、階段の縁から第三聖女は身軽にぴょんと飛び降りる。

「……そっか、俺、いる意味あんのか」

 ぼそりと囁かれた言葉は余りにも小さく、聞き返すより先に聖女は軽快に階段を降りて行く。角を曲がった金色は、見えなくなってもいつまでもレオニードの胸の内に残るようだった。

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