第31話 空を継ぐ者たち
その日、エルフィナは風の音で目を覚ました。
まだ朝日も昇り切らぬ時間。肌寒い春の風が、木の葉を揺らし、戸の隙間から忍び込んでくる。寝床から抜け出して外に出ると、東の空が朱色に染まり始めていた。あれほど激しい争いがあった世界とは思えないほど、平和な朝だった。
幸福値は、もう視えない。それは不安と背中合わせでもあったが、同時に“幸福の答えを自分で選ぶ自由”を意味していた。
「エルフィナ、起きてたんだ」
振り返ると、焚き火のそばにミーナがいた。寝ぼけた髪を三つ編みにまとめながら、彼女は空を見上げていた。
「旅立ち、今日だもんね」
ミーナは頷いた。
「ラティとグリフ、それに私とユリ。四人で、南の学都まで行ってみることにしたの。『幸福とはなにか』を、自分たちの目で探したいから」
それは“幸福値時代”が終わった今、多くの若者たちが選び始めた道だった。 幸福が与えられるものではなく、自ら探すものになった今——世界の各地で“幸福探究の旅”が静かな流行となっていた。
「心配?」
ミーナがエルフィナを見上げて訊ねた。
「ううん、少しだけ。でも……嬉しい。君たちが自分で“行きたい”って思った道なら、きっと意味がある」
エルフィナは微笑む。 かつて、彼女は神に選ばれ、幸福を“見ること”を運命づけられた。
でも今、その“視る力”は若者たちに委ねられている。
ジャレッドは、村の中心にある“記録の家”に残った。そこでは、神機以前の文明や、幸福値に囚われていた時代の記録を、すべて人の手で文字に起こして保存している。
「未来に、同じ過ちを繰り返させないために」
そう言って、彼は書物と向き合っていた。
診療所ではマリアが、新しい命と向き合っている。
「幸福な出産とは何か、幸福な老いとは何か、それをひとつずつ一緒に考えていく」
マリアはそう語る。
皆が、“答えのない幸福”に、正面から向き合い始めていた。
旅立ちの時刻。
村の広場に、荷を背負ったミーナたちが集まっていた。 子どもだった彼女たちは、もう立派な若者になっていた。
「じゃ、行ってきます!」
ミーナが高らかに声を上げた。 その手には、エルフィナが贈った“空色の布”で装飾された杖が握られている。
「空を忘れないように。風を感じる心を、手放さないように」
それが、エルフィナの願いだった。
ミーナは頷き、グリフとユリ、ラティと共に、東の道へと歩き出した。 背を向けたその姿に、誰も“数値”は与えなかった。
けれど、誰もが知っていた。 ——あの背中には、“選んだ幸福”が宿っていることを。
旅立ちのあとの村は、少しだけ静かになった。
エルフィナは、畑に出て、土を耕しながらひとつ深呼吸する。 空が広い。かつて視えていた幸福値よりも、遥かに果てしない空が、今日も自分の頭上にある。
——選ぶことは、迷うこと。 ——迷うことは、生きること。
幸福を数値で決めることは、もうできない。 けれど、人は“選んで”生きていける。
エルフィナは、耕し終えた畝に、小さな花の種をまいた。 風が吹く。空が広がる。
そして、新章が静かに幕を開けた。
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