第25話 幸福は風のように

朝日が地平線を照らし始めたころ、村の空気がどこか変わったような気がした。 それは言葉にはできないが、誰もがほんの少し深く息を吸い、ほんの少しだけ優しく笑えるような、そんな風のような変化だった。


私は高台にある見晴らしの良い小道に立っていた。 肩に薄いストールをかけ、頬に当たる風を感じる。 かつてこの場所で、私は世界の幸福値を“視て”いた。 だが今、その数字はもうどこにもない。


「視えないって……こんなに自由なんだね」


私はぽつりと呟いた。


幸福の数値が消えて、しばらくが経った。 世界は混乱するかと思われたが、意外にも人々は、思いのほか静かに、自分の“感覚”で生きることを選び始めた。


ラティは新たに“お菓子づくり”に挑戦していた。 彼女は言う。「味見する子どもたちの顔が、何よりの評価基準になるの」と。 マリアは診療所での仕事を続けながら、心の相談窓口を始めた。 「幸福の答えは、ひとつじゃない。でも話すことで、それが少し輪郭を持つこともあるでしょう?」


——そして私は、記録者ではなくなった。 幸福を数値化することも、管理することもない。 それでも私は、以前よりも遥かに“人”として生きている実感があった。


*  *  *


村の広場では、久しぶりに“市”が開かれていた。 旅の商人が戻ってきたのだ。神機停止の影響で一時期は往来が途絶えていたが、今では他の村々も徐々に立ち直りを見せているという。


私は焼きたてのパンを抱えながら、ジャレッドと並んで歩いていた。 彼はかつてのような軍服ではなく、村の織布で作ったラフなチュニックを着ていた。 髪も伸び、ずいぶんと柔らかな雰囲気になった。


「慣れた?」


「まだ半分くらいかな」


彼は少し照れたように笑った。


「でも、こうして何でもない朝に、何でもない人たちと並んでパンを選ぶ……それが、案外悪くないって思えてきた」


私は彼の言葉に頷く。


「それは“幸福値100”ね」


ジャレッドが笑う。


「まだ言うんだ、それ」


「癖って、なかなか抜けないのよ」


私たちは顔を見合わせて笑った。 その瞬間、風が吹き抜ける。 パンの香ばしい匂いと、広場の喧騒と、子どもたちの笑い声が混じり合い、世界はまるで音楽のようだった。


*  *  *


その日の午後、私はもう一度だけ《記録遺跡》を訪れた。 封印された神機リュカオンの中心部。


光も動作もなくなった、静かな石室の中央に立ち、私は目を閉じる。


「ありがとう」


この一言を、言いたかったのだ。 リュカオンは、人々を縛った。 だが同時に、私に“自分を見つめる機会”を与えてくれた。


幸福とは何か。 自分の意思とは何か。 他者と生きるとは、どういうことか。


全ての問いは、きっと“誰かと分かち合う中”でしか、答えを見つけられないのだろう。


私は地にひざをつき、両手を重ねて祈った。


幸福が、誰かに与えられるものではなく、誰かと“紡ぐ”ものとなるように。


——私が、そうあれるように。


*  *  *


村へ戻ると、夕暮れの光の中、ラティとマリアが焚き火の準備をしていた。 その横で、オルステンが子どもたちと小さな劇をしている。


「エルフィナ、これから“幸福劇”をやるの! 見ててね!」


「“幸福劇”?」


ラティがくすくす笑いながら説明してくれた。 「子どもたちが考えたの。“どうすれば誰かを幸せにできるか”を演じる劇よ」


私は笑って、丸太の椅子に腰かけた。 やがて、小さな舞台の上で子どもたちが始めた物語。


「おなかがすいた人にはパンを!」


「泣いてる人には、ぎゅーってするの!」


「寒い人には、火をあげるよ!」


——その全てに、数値はなかった。 ——けれど、どの場面にも“本物の幸福”があった。


私は、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。 光の届かない夜の底で、希望の灯がともるように。


この先、また何か困難があるかもしれない。 神がまた、幸福を定義しようと迫ってくるかもしれない。


でも——


「私は、大丈夫」


自分の中に、小さな光がある。 それはきっと、かけがえのない“幸福の芽”なのだ。


私はそっと、胸に手を当てた。


——ありがとう。


——生きてて、よかった。

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