第8話 幸福値ゼロの記録とオルステンの影

次の日の朝、私は静かに扉を閉め、カフェを後にした。

向かうのは、村の外れ——雑木林に囲まれた小屋。その場所にオルステン・グレイヴが住んでいることは、祭りの夜にこっそり教えてもらっていた。


村人たちは皆、彼に関わろうとしない。

それは畏れではなく、警戒に近い。けれど私は——彼に近づかずにはいられなかった。


幸福値ゼロ。


遺跡に記録された存在。

誰よりも“幸福から遠い”者。


もし彼を幸福へ導くことができれば——その一歩が、次の扉を開く“鍵”になると、私は直感していた。



「……また来たのか」


彼は斧で薪を割っていた。背中は広く、動きに迷いはない。

けれどその姿からは、どこか“生きている実感”が感じられなかった。


「少しだけ、お話をさせてください」


「聞きたくない」


「遺跡で……あなたの名前を見ました」


薪を割る音が止まった。


「——なんだと?」


私はゆっくりと言葉を継ぐ。


「第一層に、“幸福値ゼロ”として記録されていた名前。オルステン・グレイヴ。間違いなく、あなたのことでした」


彼は振り返らないまま、斧を地面に置いた。


「……それがどうした」


「どうして、あなたは幸福を拒むのですか?」


「拒んでなんかいない。ただ、感じないだけだ」


「なぜ——」


「俺が守った人間たちは、誰一人、俺を見ていなかった」


その言葉に、私は息を呑んだ。


「王都騎士団。あんたも知ってるだろ。かつて“聖女”を守る役目が与えられた者たちだ」


彼はゆっくりと腰を下ろした。


「俺は……十年近く、命令に従い、無言で盾となり続けた。前に出ることも、手柄を立てることもない。ただ、影として聖女の祈りの時間を守ってきた」


(私……のこと……?)


「だが、奇跡が消えた日、あんたが追放された日——俺は、役目を失った」


彼の声は、感情を押し殺したように低い。


「それからだ。何も感じなくなった。食っても眠っても、朝が来ても夜が来ても、まるで意味がない。笑っている人を見ると、心がざわつく」


「それは——悲しみです」


「違う。虚無だ。空っぽの器みたいなもんだ。だから、幸福? 冗談じゃない。そんなもの、俺には必要ない」


彼の幸福値は、依然として1。


ただ、ほんのわずか——彼が語った記憶のなかに、私への“視線”が含まれていた。

彼が聖女を見ていたというなら、それはきっと……当時の私の姿。


「……覚えています。祈りの間。私が一人で祈っていたとき、扉の外で立っていた人影がありました」


「……」


「いつも黙っていて、でも、毎日そこにいた。その人は……あなた、だったのですね」


彼の背中が、かすかに揺れた。


私は一歩近づき、手に持っていた紙袋を差し出した。


「パンを焼いてきました。ミルクと蜂蜜を混ぜた、ほんのり甘い柔らかパンです。……あなたがかつて“祈り”を守ったこと、その感謝の気持ちを込めて」


彼は振り返らない。だが、手だけが伸び、袋を受け取った。


その瞬間——


幸福値:1 → 2


私は、その変化を見逃さなかった。


たった1の上昇。けれど、それは“ゼロ”からの確かな一歩だった。


「……たまには、こういうパンも悪くない」


「気に入っていただけて、よかったです」


「……別に、気に入ったわけじゃない。ただ、温かかった」


私は、そっと目を閉じた。


この人は、まだ“何か”を求めている。

いや、かつて求めていた何かが、失われたまま、心の底で灯を待っている。


「オルステンさん。次は、私の店に来てください。あなたのために、一杯のスープをお出しします」


「……行くとは言ってないぞ」


「ええ。でも、来ないとも言ってませんよね?」


彼はふっと、小さく息を吐いた。


幸福値:2 → 2(微かに揺れ)


それはきっと、“言葉にしない”彼の感情の揺れだったのだろう。


私は静かに頭を下げ、来た道を戻った。


その背中に、彼は何も言わなかった。


でも、私は分かっていた。


——この人の“ゼロ”を、私は少しずつ塗り替えていける。


遺跡の記録に名を刻まれた男。

かつての聖女を、誰よりも静かに守り続けた騎士。


その心に、もう一度、幸福の灯をともすために——私は明日もまた、彼のためのパンを焼く。

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