第3話 扉の“しきい値”と幸福の数値化

翌朝。


私は開店前に手帳を開き、幸福値一覧を見直していた。


パン屋夫妻が回復したことで、セリフ村の“平均幸福値”は微かに上昇している。だが、局所的に見ると、数値の“底”が存在する。


——とくに一人、極端に低い少年がいた。


名前は「ラティ・コーン」。村の西端にある小さな家の一人息子で、かつて魔術師を志していたが、何らかの理由で魔法学院を退学し、そのまま引きこもっているらしい。


村でも「変わり者」として噂されており、誰も詳しく接しようとはしない。


私は彼の幸福値を確認した。

5。


「たった5……?」


生きている人間でここまで低いのは、初めてだった。


しかも、数日前からずっと変動がない。笑いも怒りも喜びも、何も動かしていない、完全な“静止”の値だった。


これは——危険だ。


私は手帳を閉じ、ひとつの決意を胸に、ラティの家を訪れることにした。



家の前には古びた木製の門。庭は荒れ、雑草が生い茂っていた。


何度か呼び鈴を押しても返事はなかったが、窓から覗くと人影がある。

私は意を決して、扉越しに声をかけた。


「こんにちは、エルフィナと申します。最近この村でカフェを始めた者です」


しばらくの沈黙ののち、かすかな声が返ってきた。


「……帰ってください」


「お茶と甘いパンを持ってきました。もしよければ、それだけでも受け取ってください」


「……いらない」


「でも、お腹は空いてるでしょう?」


「……っ」


その瞬間、数字が少しだけ動いた。


5→6。


たった1の変化。でも、動いた。それだけで十分だった。


「扉の前に置いていきますね。今日はお会いできて嬉しかったです」


私はパンと手紙を残し、静かにその場を去った。



数日後、彼はカフェにやってきた。


帽子を深くかぶり、目を合わせずに店内に入り、隅の席に座った。


「……パン、美味しかった」


「ありがとうございます。食べてくださったんですね」


「……あの、また……もらっていい?」


「もちろんです。でも、できれば……一緒に、焼いてみませんか?」


彼は驚いたように顔を上げた。幸福値がふたたび、少しだけ——6→9。


「ぼく、魔術しかできない。料理なんて、やったことない」


「じゃあ、魔術をパン作りに使ってみましょう」


私は微笑み、彼の手に古い魔術用の温度計を渡した。


「パン生地の“最適発酵温度”を保つ魔術式を、いっしょに探ってみませんか?」


彼は躊躇しながらも、魔術陣を書き始めた。


パン生地がふんわりと膨らみ始める。


その顔が、ほんの少しだけ明るくなった。


幸福値は9→13へ。


「……できた。膨らんだ……!」


「魔術が“誰かを喜ばせる”ために使われたんです。すごいですよ、ラティくん」


彼は、初めて小さく笑った。


「ぼく、明日も来ていい?」


「もちろんです。今度は、自分のレシピを考えてみましょうか」


そう言ったとき、彼の頭上に浮かんだ幸福値が、ぐんと跳ねた。


13→18。


私は、その数字を手帳に記しながら、ふと思った。


幸福は、ほんの小さな接点から芽生える。

人と人が関わることで、数値は確かに変わる。


そしてその夜、扉の奥から、再び“音”が聞こえた。


——幸福値、合計200を超過。


扉に彫られた古代文字が、うっすらと光りはじめた。

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