七ノ話「禊祓」

 朝食後に案内されたのは廊下にいくつも並ぶ扉の中でも、厚みと重みを増した黒い鋼鉄の扉だった。鎖と南京錠で封鎖されていたが、狼が手をかざすだけで煙のように消えてしまう

 開かれた先には石造りの階段。暗い地下へと伸びており、ひんやりとした空気が足元から這い上がってくる。鼠は先を歩く狼の背中を追う。

 階段の幅は狭く、一本の柱の周囲ををくるくると回るように降りる構造だ。壁は自然のまま剥き出しの状態で、適度に整えられた洞窟のようだ。

 目立った灯りはないが、岩自体が淡く発光している。月光を浴びているような光の中で、ゆっくりと下りていく。


「鎧山は昔から様々な鉱物が採掘される名所でして、禊祓に必要な要素を持っていました」

「みそぎばらい……?」

「すぐにわかりますよ」


 最後尾の梟が詳しい説明をする暇もなく、階段はあっという間に終わってしまう。

 楕円形の薄暗い空間。星の光を散らした岩肌を滑るように、清流がさらさらと流れ落ちている。細い水の筋が空間の中心に集まっていき、石櫃へと注がれていた。

 石櫃は黒曜石だけで作られており、艶のある表面は空間内に散乱する光を受け止めて輝いていた。


「……」


 狭いはずなのに、広く感じる。夜空を閉じ込めたような場所に、鼠は目を奪われていた。

 川の水面に映る空とも違う。汚濁まみれで見上げる天とも異なる。単語でしか知らない宝石よりも尊い輝きが、鼠の眼前で煌めいている。


「――というわけで、主の仕事が始まります」


 梟の話が耳に届いていなかった鼠は、会話に一区切りついたこともわからなかった。

 ただ美しいというものに目を奪われるとしたら、こういうことなのだろうと鼠は理解することができた。

 同時に頬のあたりを突き刺す視線に気づき、振り向いた先には鼠を凝視する狼が立ち尽くしている。

 体が小さく跳ねた。普段であれば逸れる目線が繋がったまま途切れない。

 赤い瞳に映る顔には青痣が広がっているが、薄暗い部屋のおかげで気に留めるほどではない。狼から放たれる気配に知らない感情が交じっている。

 ふらふらと近寄ってきた狼が顔を近づけ、鼠が硬直した瞬間。


「主、ミズネ様。お仕事を終えてからお願いします」


 梟の言葉に今度は二匹同時に体が跳ねた。特に鼠は実際に靴裏が地面から離れたせいで、わずかによろけた。

 咄嗟に助けてくれた狼の腕の中で、鼠は体の震えが消えたのを自覚する。


「……」


 心臓の奥から拳で叩かれているような、激しい鼓動の強さに鼠は困惑していた。

 狼の胸に耳を当てていると、似たような振動を感じる。

 脈打つ音が重なると、不思議と落ち着く。けれど狼が突如として手を離し、石櫃の方へ進んでしまった。


「こ、この石櫃に霊気を込めるから見てろよ!」


 狼がばんばんと石櫃を叩くせいで、梟が「家宝ですから丁寧に」と軽く注意した。

 三歩くらい下がった場所で眺めようとしたが、手招きされたことにより狼の横――石櫃の手前まで移動する。

 磨かれた黒曜石はつるりとした光沢に、緑など鮮やかな光を宿す。さらに室内の岩肌が放つ星の光のおかげで、天の向こう側にあると言われている、童話の中の闇星の海を思わせた

 狼が石櫃の蓋に片手を添える。すると鳥肌が立つほどの、莫大な霊気が空間を駆け抜けた。共鳴するように、空間内の光が強くなる。


 下位の聖獣である鼠は霊気の扱い方や感受性などの才覚がない。世界に満ち溢れているとしても、大気のようなものだとしか認識していなかった。

 しかし石櫃に集まる霊気には圧力に似たものがあり、感覚で「変化」を覚えていた。

 狼の統治下、黒曜の国全土が呼応している。目に見えない手のようなものが伸びて、奔流となって聖なるものを捧げるために集まってくる。


 肌が痺れる圧が消えた頃、狼が石櫃の蓋を開けた。

 すると中には作物や貨幣というものが所狭しつと積まれていて、銅貨などは溢れてくる始末である。


「冬前の割に多いな」

「それだけ人間達も危機感を持っている証左です」


 驚く鼠の前で、梟と狼は慣れたように話し合っている。石櫃は鼠の体くらいは難なく入りそうだが、大きいというわけでもない。

 次々と石櫃の中身は増えているのか、芋が転がり落ちた。新鮮なものではなく、少し小さく萎びている。

 しかし輝いていた。信仰が光となって、視覚に訴えかける。祈り、願い、応じてほしいと縋る心地。


「カミヲ殿。これは……」

「どれどれ。ああ、家族の治癒願いか」


 鼠が壊れ物でも持ち上げるかのように両手で持った芋。薬代で日々の食事もままならぬ子供が、大事な食糧を捧げた――ということが皮膚感覚を通して伝わってくる。

 石櫃の中にある餅や銀貨も輝いているが、萎びた芋の方が強い。指から伝わる心情は、熱さのあまり火傷しそうだ。

 幼子が母を想う気持ち、統治者である狼を純粋に信じている心。自らを追い詰めての願い


「父親は商売で遠出。母子二人で畑の手伝いだが……なるほど。賃金ではなく、支給品で誤魔化されてるな」

「そこまで……わかる、のか?」

「まあな。おい、ロウフク。西の所領で悪い噂はあるか?」

「丸い人間。野盗と繋がっているとか」

「詳しい情報をまとめておけ。後で現地に赴く」


 狼の指示に梟は厳かに頷く。統治者としての威厳ある姿を、鼠は目に焼き付けた。。


「どうせならお前も来るか?」

「……え?」


 急に話を振られた鼠は、すぐに返事ができなかった。把握するのにも時間が必要で、絞り出せたのは一言。


「いいの、か?」

「俺の仕事を見せてやりたいからな」


 統治者の仕事。鼠は見たことがないが、聞いた話では獣として相応しい仕事だという。

 誰もが敬い、頭を垂れ、その偉大さに感涙する。上位の獣として、素晴らしい仕事。

 そう伝え聞いた上位の獣――蛇の仕事は直接見たことないが、遠い光に焦がれるような興味があった。川の掃除とどんな違いがあるのか、詳しいことは知らない。


「主。ミズネ様のお肌は快癒しておりません。あまり無茶させては……」


 梟の言葉は正しい。打撲痕は薄くなったし、痛みも消えた。しかし完全に消えてはおらず、なにかの拍子に見られてしまう可能性は否めない。

 青い肌も健在で、鼠は己の体に蔓延る青痣を、初めて少しだけ鬱陶しいと感じた。


「お前の霊術で誤魔化せ。できるだろ?」

「できますが……ミズネ様。貴方のお気持ちはいかがでしょう?」


 梟は視線の先を狼から鼠に変えた。金色の瞳はいつも穏やかだが、今は少しだけ不安そうだった。

 意見を求められるとは思ってなかった鼠は焦るが、思考を挟む余地もなく言葉が出てくる。

「い、きたい……と思う」


 語尾は弱くなってしまい、声も小さい。けれど二匹の耳にはしっかり届いたらしく、梟が軽く息を吐いた。


「かしこまりました。それでは対応しやすい霊術を探しておきますので、主は引き続き禊祓をお願いします」

「おう。任せとけ」


 階段を上がって館の一階へと戻っていく梟の背中を見つめて、現状の把握が追いついた鼠は右往左往する。

 鼠は仕事を貰っている。与えてくれたのは狼で、教えてくれるのは梟だ。本来ならば梟の後を追うのが正しいだろう。

 しかし梟が今取りかかり始めたのは霊術。その知識が全くない鼠は力になれず、足手まといになるのは必須だ。


 狼の仕事も手伝えない。次の仕事は昼食の片付けだったはず。一匹で戻って、教えられた通りに働いた方がいいのか。

 階段と狼の間で、鼠は首を忙しなく動かす。やるべきこと、やった方がいいこと、やらなくてもいいこと。この分別が鼠は苦手だった。

 全てが大事で、一つでも失敗してはいけない。けれど鼠は愚図で鈍間な役立たずだから、上手くいった試しがない。


「どうした?」

「あ、の……」


 狼はわずかに考え込んだ後、ゆらゆらと手を動かす。その仕草に少しだけ落ち着きを取り戻し、鼠は戸惑いながらも近寄る。

 石櫃から落ちた小さな芋を手にしたままだったことを思い出すが、戻そうにも中身は増え続けて隙間が埋まり続けていた。


「人間の美点であり欠点は、願いが尽きないことだな」

「なにか……問題が、あるの、か?」

「願いや祈りは心が生んだものだ。それを込められた物品はいずれ九十九になる」

「つくも?」

「足りないものだ。生命になれず、獣にもなれず……ただ心へ帰ろうとする」


 途方もない話のような、身近な不可思議にも似た語り口。

 石櫃から溢れた銅貨や敷き詰められた野菜を見下ろしながら、狼は説明を続ける。


「ただ物品に憑いたままだと心に触れられず、人に害をなす。だから洗い流して、清める。そして還す」


 何処へ、と問う暇もなかった。手の平の萎びた小さな芋がぐにゃりと動き出し、紫色の皮が剥けたと思ったら、黄金の蝶が無数に生まれた。

 それは部屋を埋め尽くすほどに増殖し、口を開けば翅が入ってきそうな勢いだ。瞼を開けるのは困難で、肌を掠める鱗粉に痛みを感じた。

 助けたい。生かしたい。愛したい。そんな気持ちと一緒に別視点の言葉が混ざっている。

 助けて。生きたい。愛して。強い渇望が羽音となって室内に響き渡り、耳の奥を痺れさせた。


「トホカミエミタメ」


 無数の羽ばたきの音を突き刺すように、その言葉だけは明確に耳へ届いた。

 初めて聞く単語だった。それなのに懐かしくて、羽音が一斉に止む。鼠がゆっくりと瞼を上げれば、蝶の群れは鉱石にでもなったかのように空中で停止していた。


「心より生まれ、体を手に入れ、魂なきまま進むもの達よ。星の脈を辿り、彼方へと至らん」


 さぁっ、と蝶の群れが砂となって床の上に積もる。小さな芋が変化したとは思えない、大きな砂金の山に水が染みこむように溶かしていく。

 細い水の流れはささやかに、砂金の山を崩して運んでいく。水の色が黄金となって、星の光を受けて輝いていた。

 石櫃の中からも水が溢れ、銀や真珠が砕けたような砂を流していく。そして捧げられた品々から輝きは消えていき、いつの間にか普通の野菜へと戻っていた。


「今のが九十九だ。供物は霊術で毎日集めないと、ああやって動き出すんだ」


 腕や肩を動かしながら息を吐く狼を見つめる。説明に対して頷くしかなかったが、九十九についてはなんとなくわかった。

 善悪で語るべきものではない。ただ生まれ落ちて、衝動に任せて動き出す存在。

 獣への信仰で発生する副産物なのだろうと、ぼんやりした感覚で受け止める。


「で、禊祓を終えた物品は消費するしかない。貯めるのは礼儀違反だしな」

「……それで食事を?」


 狼の館に来てから、毎日三回の食事が用意されていた。この統治下は荒れた土地が多いのに、館では尽きることがなかったのが不思議だった。

 その謎の一部が解けたことに喜ぶことはないが、喉の奥につっかえていたような感覚は淡く消えた。


「まあな。食い切れないのは貧困地域に炊き出し用に使っているぞ」

「人間に渡すのならば、食べなくてもいいのでは?」

「俺への捧げ物だ。俺がちゃんと受け取って、使わないと意味ないだろう」


 受け取る。それくらいは知っているはずなのに、鼠は少しだけ戸惑った。


「意味……?」

「お前もいつかわかるといいな」


 星の光に囲まれた地下室に響く狼の声は優しかった。けれど表情は悲しそうで、それを見た瞬間は胸が痛んだ。

 痛みの原因がわからなかった鼠だが、一瞬で消えたのを確認する。けれど狼の顔に浮かんだ感情の意味がわからず、胸の奥に重みがかかったように感じた。

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