第三十七話  襲撃

 ヴィクターが会議へ一時間以上も遅れたのには理由があった。

 ――到着予定の一時間前。

 作戦の最終確認を終え、集合場所へ向かおうとしていたときのことだ。

「準備は済んだのか?」

 部屋のベッドに寝転んでいたアナスタシアが声をかけてきた。

「ああ。細かい調整は現地で詰める。大枠は固まった」

「それで、私にも役割があるんだろう?」

「当然だ。お前とハンニバルには特に働いてもらう」

 革鞄に資料を詰め込み、部屋を出ようとした――その瞬間。

「ヴィクター!」

「ん? おい――!」

 アナスタシアが突然、ヴィクターの袖をつかみ、床へと引き倒した。

 何が起きたのか理解する間もなく、理由はすぐに分かった。

 外から何かが窓を叩き割って飛び込んできたのだ。

 鋭い斬撃が窓枠ごと割り裂き、その軌道はまさにヴィクターの首元を正確に狙っていた。

 アナスタシアが引き倒していなければ、一撃で絶命していたに違いない。

「……っ! 私の一撃を!」

 侵入者が砂埃の中から姿を現す。

 ヴィクターとアナスタシアは、扉を背に後退しながらそいつを注視した。

「異様な襟足に、男か女か分からない顔つき……お前、ダグラスのところにいた奴だな。名は――ミハイルだったか」

「やっぱり覚えていたのね」

「記憶力はいい方なんだよ」

 ミハイルは細剣を構え、刃越しに鋭い眼光を送ってきた。纏う気配は尋常ではない。何人も殺めてきた者だけが持つ、冷たく濁った殺気。

 一方、ヴィクターは――武器がない。

 軍刀は部屋のテーブルに掛けたまま。

 視線だけで距離を測る。三メートル弱。

 ――あの速度の斬撃を避けて軍刀を取る……無理だ。取れても互角には戦えない。

 ヴィクターとミハイルの技量差は歴然としていた。

「悪いけど、ここで死んでもらう!」

 ミハイルが細剣の切っ先を向け、足に力をためる。

 床板がきしむほどの踏み込み――。

 だが、その瞬間。

「アナスタシア!」

 ヴィクターより早く、アナスタシアが影のように飛び出した。

「こいつ、邪魔だろ?」

 ミハイルの顔面めがけて一直線に突撃。

 開いた手のひらで頭部をつかみにいく。

 だが――紙一重。ミハイルは刃のように身体を捻り、寸前で回避した。

「くっ……!」

「早いな? 並みの奴なら今ので頭を掴まれて終わっていたぞ」

 アナスタシアは顔を掴み潰すつもりで突っ込んだ。

 だがミハイルは、産毛が逆立つほどの殺気を感じとり、紙一重で身を捻っただけ――偶然に近い回避だった。

 それを感知できなければ、今ごろこの場に立っていない。

 ミハイルはローブを剥ぎ捨て、軍服姿を露わにする。

 一方アナスタシアも、わずかに目を細めた。

 デンケンハルトに続き、このミハイルまで一撃で仕留められなかった――その事実に。

 しかし、それは失望ではなく、むしろ高揚。

 口元に笑みが浮かぶ。

「……何を笑っている?」

「いや、人間がここまで進化するのかと。興味深いと思ってな」

「何を……?」

 ミハイルが問い終えるより速く、アナスタシアが地を蹴った。

 空気が裂ける音。

 爪先と細剣の切っ先が、火花を散らしながら幾度も衝突する。

 ミハイルは細剣をしなやかに、縦横無尽に振るう。

 相手に一瞬の隙すら与えない――それがミハイルの秘技『疾風烈波』。

 この間合いに入った者はすべて仕留めてきた。

 例外はただ一つ。魔女のみ。

「やるな……! それほどの剣術、初めて見るぞ!」

 アナスタシアの賞賛にも、ミハイルは無言のまま。

 淡々と、だが冷徹に刃を振るう。

 当たるはずの刃が当たらない。

 アナスタシアは滑るように回避し、拳と蹴撃を繰り出す。

 ミハイルは左へ、右へと細剣をうねらせ、

 右上腕に力を込め、一気に横へ振り抜いた――。

「当たらんよ」

 アナスタシアは身体をしならせるようにのけぞり、横薙ぎの一刀を紙一重で避けた。

「くそ! なら――!」

 ミハイルは即座に態勢を切り替え、突き上げに転じる。

 踏み込みと同時に前へ滑り込み、腕を一気に上へと振り上げる鋭い突進技。

 だがそれすら、アナスタシアの顎先にかすりもしない。

 動きを読まれているというレベルではない。

 攻撃が届く未来が存在しないような、説明し難い嫌悪感と不気味さがミハイルの背筋を這い上がった。

「……あなたは何者?」

「んーーーー」

 アナスタシアは戦闘中だというのに、腕を組み、真剣に考え込み始めた。

 魔女であることをどう隠すか、嘘の肩書きでも捻り出そうとでもしているのか――目を閉じて悩み込む。

 だが、ミハイルにとってその問いは答えを求めたものではない。

 静かに細剣を鞘へ納め、深く息を吸う。

「……すぅーーーー」

 踏み込み、一閃。

 神速の抜刀術。

 ミハイルの体が残像を残し、刹那、細剣はすでに鞘から解き放たれていた。

「あー! そうだ、わたしは――」

 アナスタシアが目を開いた瞬間、

 切っ先は彼女の首元に迫っていた。

 瞬きを挟む暇すらなかった。

「獲った!!」

 確かに刃が首筋に触れた感触があった。

 だからこそ、ミハイルは思わず勝利を口にしてしまったのだ。

 ――だが、手応えは空。

 細剣がアナスタシアのいた空間を裂いた瞬間、

 彼女の姿はすでにそこにはなく、ミハイルは思わず周囲を見回した。

 その刹那。

「……っ!」

 背後から鈍い衝撃。

 視界が揺れ、身体が床へ叩きつけられるように沈む。

 顔をどうにか動かすと――

 そこにはヴィクターが冷静な目でこちらを見下ろしていた。

 ミハイルの上にはアナスタシアが跨るように押さえつけ、

 首元を確実に封じた体勢。

 中指をミハイルの耳孔に差し込み、

 わずかに力を入れれば脳を貫ける危険な角度だ。

「最後の最後でミスったな。ダグラスの命令に逆らってでも逃げるべきだった。……こんな化物を相手にするべきじゃなかった」

 ミハイルは力なく呟く。

 独り言のように、諦めのように。

 ヴィクターもアナスタシアも、それに即座に返事はしない。

「殺してよ……。もう、殺せばいいでしょ? 早く! 殺して!!」

 悲鳴のような叫びの中で、ミハイルは大粒の涙をこぼしていた。

「……お前、なんで泣いてる?」

 ヴィクターの問いに、ミハイルはハッとしたように目を見開く。

 気づけば、頬を伝う涙は止まらない。

「そんなの……どうだっていいでしょ……。殺してよ……」

「それほど死にたいのは、何故だ」

「……たくさん殺してきた。心も、感情も、ぜんぶ殺して……。私は、生きてちゃいけない人間なんだよ……。だから――」

 堰を切ったように、弱音がこぼれる。

 抑え続けてきた本音が、苦しげに、ひたむきに吐き出されていく。

 ヴィクターは静かに腰を落とし、つま先立ちでミハイルの視線の高さまで降りて、その悲痛を真正面から受け止める。

 彼女は、耐え難い現実を噛みしめながらここまで生き延びてきたのだろう。

 今際の際のような日々を、何度も越えて――。

 ヴィクターは、その姿にどこか自分自身を重ねていた。

 腐敗した帝国を変えたいと足掻いているが、アナスタシアと出会わなければ、アシュフォードに刺されたところで命を落としていただろう。

 殺すことは簡単だった。だが、それを選べば何も残らない。

 ただひとつの命が消えるだけで、そこに意味は生まれない。

「死ねば罪が償えると思ったのか?」

 声に優しさはない。

 甘い言葉で慰めるのではなく、残酷な現実を突きつけて立たせる。それが彼のやり方だった。

「違う! 私は――」

「違わない」

 その叫びを断ち切るように、ヴィクターは低く静かに言った。

 逃げ場を与えない声音だった。

「お前は多くの人間を殺してきた。罪のない者たちをだ。……だから今、逃げようとしている。その現実から」

 言いながら、胸の奥がひどくざらつく。

 自分がその言葉を口にする資格など、本来ない。

 それでも、言わなければならなかった。

「殺してほしいと言ったな? あれが……お前の本音か?」

「……は?」

 ミハイルが、理解できないというように目を丸くした。

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