(四)
すでに、夕霧がうっすら立ちこめていた。曇天はますます重く、海面を圧迫している。
大山は、小走りで桟橋に着いた。四時ころのことだった。
出発がすっかり遅れてしまった。私学校を出てすぐ椎原邸に赴き、会談の段取りを確認した。そしていったん県庁に戻り、書類仕事などを済ませたうえで、港を目ざしたのだった。
今回は単身だ。野村忍介とは、いつの間にかはぐれてしまっていた。
桟橋で艀を呼んだ矢先、大山は目を疑った。
ほんの一刻前、台場横に錨を下していたはずの高雄丸が――ない。
まさか私学校の連中のせいで、離脱を余儀なくされたか。
あわてて湾内を見回した。すると、はるか沖、桜島の前あたりに、おぼろげに浮かんでいる小さな艦影があった。
――驚かせよって。
深いため息がもれた。
荒波に、始終横揺れが酷かった。ようやく高雄丸の脇につくや、大山は急いで舷梯を上った。
伊東艦長が出てきて、同じ船室に案内してくれた。しばし座って待つと、川村と林がやってきた。
「
大山は挨拶代わりに言った。
眉を歪め、川村が答える。
「
本当に馬鹿どもが――大山も舌打ちを禁じ得ない。もっとも彼は、その三艘が桐野篠原らの一団だったこと、そして何より、西郷が川村との会談を断念してしまっていることを、まだ知らなかった。
「そげんか……
自然、顔が得意げになる。
だが、つづく河村の言葉は意外なものだった。
「……上陸は、出来んど」
両眼に、冷たい光が宿っている。
大山の笑顔は、たちまち引きつった。
「何ちな……!」
「考えてみやんせ。あん状況じゃ。……私学校ん
——できるわけがない。
「与十郎、
「……
「馬鹿ぁ……、そいでは、浜で
「
お互いに肩をいからせ、二人はしばし睨み合った。
「格之助
伏し目のまま、川村が懇願するように呻いた。
早期収拾の途は断たれた。無念だが、もはやその事実を受け入れざるを得ない。
となれば、あとはこの愚かな男を最大限利用し、次善の策に活路を見出すのみ――大山の切り替えは早かった。すでに思考回路そのものが、私学校に憑依されつつあるのかもしれなかった。
にわかに、悄然とした顔を作った。全ての希望を失った、憐れな男——できるかぎりの演技で、ぼそぼそと力なく呟いた。
「今まで黙っちょったどん……実はもう、先鋒の兵は出発しちょっ。そんうち、肥後境に着っじゃろ……」
「何じゃっち……!?」
川村と林が顔を見合わせる。
「大目に見っくいやんせ……」
そこまで言って、じろりと川村の目を睨んだ。
「……
川村は一瞬視線を泳がせ、やがてまた下を向いた。
手応えあり――そう確信した。
もはや、虚実にこだわっている暇はない。いかに彼らを丸め込むか、そこだけに大山の神経は集中していた。
そのまま顔を横に振る。ずっと黙り込んでいた林に向かって、居ずまいを正した。
「林
彼が静かに頷くのを確認しつつ、言葉をつづける。
「……そいから、私学校の者どもが、県庁の公金を奪おうとしており申す。甚だ懸念しておるが、如何にすれば良かろう?」
林はかすかに笑い、肩をすくめた。
「それは致し方なかろう。まずは御身を大切にされよ……。万事片づいたあとで、しっかり取締まってくだされば十分じゃ」
この長州人は、どこまでも良い御仁だ――率直な敬意と、冷ややかな軽侮とが、大山の心をさらに軽くした。
結局、談判は決裂した形だった。
椅子を立ち上がる際、大山は言った。
「与十郎、頼んど」
適度に力のない笑みを見せる。
「そいから……馬関の海には、軍艦は送ら
川村が、軽く首を縦に振った。
「分かい
長崎は外国公館も多い。川村の懸念ももっともだった。
「おう、心得た」
一同は、そのまま甲板に出た。
大山が梯子に手をかけたとき、川村が穏やかに言った。
「格之助
どこか、さびしさをたたえた笑顔だった。
大山は無言で頷いた。
海はほとんど真っ黒に澱み、城下の灯が遠方で瞬いていた。
凍てつく風にまじって、雨粒が降りかかる。外套を頭の上からかぶった。
ふと振り返る。錨を上げた高雄丸の黒い影が、舳先をゆっくりと南へ回していた。
――彼奴らは大丈夫だ。
当初の算段は、残念ながら潰えた。しかし、手土産は十分だった。
***
すっかり暮れた城下。道を足早に進み、大山は椎原邸に着いた。
しかし、西郷らの姿はない。家人に訊くと、そもそも来ていないという。
私学校でまた、ひと悶着あったな――だが、今となってはどうでもよかった。
私学校は相変わらず、中庭も廊下も若者の熱気にあふれていた。
西郷は講堂にいるらしい。訪ねていくと、例によって一同が集まっていた。桐野など、昼にはいなかった者の姿もあった。
中心に西郷、それを幹部連が囲み、さらにそのまわりに無数の校員が群がっている。室内に、ざっと百人はいそうだった。
西郷は変わらぬ紋服姿。大山に気づくなり、また「
正面に座り、艦上での顛末を説明した。
――結局、会談は流れてしまった。代わりに、川村は騙しておいた。林もまた然り。彼奴らは東京に戻り、我が方のため存分に尽力してくれるだろう。
大山は、どうも話を都合よく誇張する癖がある。このときも「与十郎と林は、
西郷は腕を組み、じっと聴き入っている。不満はなさそうだった。
試しに、川村からの依頼を投げかけてみた。
「……じゃっで、吉之助
周囲の視線が、一斉に西郷の顔へ注がれる。
西郷はふっと顔を上げた。
「
どこか、遠い目だった。
――
桐野は安堵しつつ聞いていた。川村に会う、と言い出したときはどうしたものかと焦ったが、やはり決心は揺らいでいないらしい。
大山の立ち回りには感謝している。とはいえ、この期に及んで余計な政治工作は無用だ。高雄丸がまだ湾内に残っていたのは意外だったものの、結果的にはいい形で落ち着いたといえるだろう。
大山が西郷に答えた。
「……そいなら、仕方なかな。
大山はやはり、関門海峡のことで頭がいっぱいらしい。桐野としては正直、その場でどうとでもなるとしか思わないが、手当てがあるならそれに越したことはない。
西郷の顔には、いつの間にか余裕が戻っている。
「与十郎は、我が方につくじゃろうな。熊本には、
一同を見回し、にこりと笑った。
熊本鎮台参謀長・樺山
「
淵辺が呵々と笑った。
小一時間ほどの謀議を終え、大山は私学校を後にした。
これからまた、県庁で山のように仕事が待っている。
連日の奔走で、単衣も袴も皺まみれだ。寒風がひとしお沁み入った。
――きっと、熊本では歓迎の宴席が待っている。馬関には、川村の汽船も来ているだろう。吉之助らは、桜を見ながら京都入りだ!
終わりのない狂騒の日々。眼前に浮かぶ夜道は、もはや現実の輪郭を失いはじめていた。
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