(四)

 出師準備は、粛々と進んだ。

 校員登録は、昨秋激増して一万人を超えている。にわか作りの義勇軍とはいえ、既存の名簿情報を振り分けていくだけだから、組織化は思いのほか円滑だった。

 ただ、薩摩兵児ヘコ一万超といっても、その大半はいわば無為徒食の子弟たちだ。戊辰の実戦をくぐった者は、多く見積もっても三千程度に過ぎなかった。そのうえ彼らとて、従軍から十年近い年月をへて、すでに壮年の域に差しかかっている。仮に戦端が開かれた場合、近代国軍の正規兵たる近衛鎮台とどこまで戦い得るか――冷静に考えれば、疑念が生じないはずはない。

 しかし、それを気にする者は、この熱のなか皆無に近かった。西郷はもちろん、桐野、篠原、村田といった大幹部連中ですら、鎮台兵に対する評価は極めて低い。

 倨傲の誹りは、禁じ得なかった。


 私学校の幹部室。

 板間に長い卓が置かれ、桐野以下はそれを取り囲んで座っていた。

 中心に、粗末な日本地図。より具体的な上京方針を定めるための、軍議だった。

 玉体みかどは今、京阪にある。

 孝明帝十年祭、鉄道開通式などに伴う、大規模な行幸の最中だった。三条実美さねとみ大臣以下の政府中枢もまた、それに供奉ぐぶしている。

 したがって、まずは近畿までの道程を定める必要があった。


 西郷隆盛の末弟・小兵衛がおもむろに立ち上がった。兄に似ず痩身で、精悍な総髪の若武者だ。

 地図を指し示しつつ、口上を述べた。

――熊本鎮台は侮れぬ。全軍を三手に分けよう。一軍は北上して熊本を囲み、一軍は日向より豊前豊後へ回り、一軍は海路潜行して長崎を制す。九州要路を扼したのち、熊本を一挙陥れて我が根拠となし、満を持して政府と対決すべし。

 明哲な戦略だ。当座の現実性という意味でも、大きな説得力があった。

 辺見や淵辺など部隊長格の連中は、口角を上げてしきりに頷いている。

 篠原もまた、小さく「良かな……」と呟いた。

 傍らの村田は膝に手を置いたまま、やはり一言も発しなかった。


うんにゃ……!」

 穏やかな空気を破ったのは、桐野だった。

 机を囲む顔が、一斉に振り向く。

俺達オイタッは、精強比類なき義軍を引っ提げっせえ発つとじゃ。全軍、正々堂々とゆくべし!」

 同じく、判然たる論旨で応じた。

 小兵衛が、やや戸惑いながら反論する。

じゃっどんしかし信作様シンサッサア、みすみすユッサを失うわけには……」

 違う。戦にしてはならんのだ。

 桐野は諭すように言った。

「よう、聞いてくいやんせ。確かに、小兵衛殿ドンの策は見事ミゴッじゃ。そいどんしかし、初めっから戦法に走れば、いたずらにユッサを招くのみか、天下は俺達オイタッを卑怯モンち、けワロうじゃろう!」

 その顔には、快活な色すら浮かんでいる。

「……こん出陣はあくまで、政府の非を四海に鳴らし、闕下けっかに馳せ参ずっためのもんじゃ。我が方から、ユッサを仕掛くっとではなか……ただ一路、進むのみよ!」

 部屋はやがて静まり返った。

俺達オイタッが撃つっとは、あんが仕掛けっきた時だけじゃ。まってかとはいえ、鎮台の百姓どもなんど、蹴散らしっせえ押し通るばっかいやっどんなだけれどもな!」

 一転して、皆が桐野に頷いた。「じゃ然り」「じゃ然り」の声が、ざわざわと響く。

 小兵衛は、口を結んで座った。


 するとまた、隅から質疑が上がった。

そいどんしかし、もし政府があくまでユッサに出っせえ、我が軍を海陸から押し留めようちしたぎいなときは、どげんしもんそ」

 声の主は野村忍介おしすけ。元近衛大尉、現在は三等警部として鹿児島警察署長を務めている。思慮深く、鬼謀で知られた戦術家だった。

「……政府とて、馬鹿じゃあなか。まして熊本鎮台は、佐賀ノ乱、神風連ノ乱をも鎮めちょっ。防備はカテち、カングっべきではごわはんか」

 桐野は小さくため息をついた。

――また、この男か。いつもいつも、しか見えておらぬ。

 野村はいつの間にか立ち上がっていた。一座を見まわし、熱弁を振るう。

「勝てるユッサを捨つっとは愚じゃ。アタイにちっと、兵児ヘコを預けっくいやんせ……六百ばっかいで十分ごわす。兵は詭道、海路若狭へ上がっせえ、そんまま西京を衝きす。天子様から西郷セゴ先生お召しの勅を得れば、そいで万事成りもんそ!」

 あきれざるを得ない。

——なぜ戦をしたがる。だからお前は、いつまでたっても小才子なのだ。

 しかし、淵辺、辺見はまたもぐらついているようだ。気づけば一同は、恐る恐る桐野の顔色をうかがっていた。


 桐野は柔らかい笑みとともに、口を開いた。

「……かの奈波翁ナポレオン遠島おんとう先で決起したとき、手勢はほんのわずかじゃった」

 野村が、怪訝そうに眉をしかめる。

 かまわず、朗々とつづけた。

――国王は討手を差し向けた。しかし、奈波翁ナポレオンは動じぬ。それどころか、小手先の謀略も奇襲も、何ひとつ弄さなかった。ただ、威風堂々たる大行進にうって出たのみである。その雄姿に民は心を奪われ、雪崩をうって列に加わった。そして、ついには討手のネー元帥までもが、軍勢ごと帰順した……!

 こうなれば、もはや独擅場だ。

「……俺達オイタッには西郷セゴ先生ち、奈波翁ナポレオンにも勝る大英雄がおらるっ! 而してその手勢も、精強薩摩兵児ヘコ一万余! 姑息な奇策など、何の用があっどかい!」

 誰かが「そんとおりじゃ!」と叫んだ。次々に賛同の声が上がり、議場を包んだ。

 野村は、下を向くほかなかった。

 唇をかむ顔。桐野はそれを横目に、心の奥で呟いた。

――いずれ立場が変われば、お前も分かる日が来よう。


 軍議は決した。「全軍陸路北進」である。

 桐野らは別室の西郷を訪れ、簡潔に報告した。「良か、良か」と西郷は満足そうに頷き、すぐに決裁した。

一度イッド、格之助サアと、話そかい」

 去り際、西郷が言った。

「明日、呼びもんそ」

 桐野は微笑み、軽い声を返した。

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