境界の人格
ヤオロウ
第1話 happyな柔道
鮮やかな緑と眩しい日差しのなか、僕は昼休みを満喫していた。声を張り上げてテニスを楽しむ体格の良い若者の汗が光る。それを見つめる老人や子供、その母親の表情が、僕を癒す。
ただの仕事の合間の公園で過ごす昼休みがこの上なく幸せに感じられた。特に何の変哲もない普通の時間が幸せに感じられるような人生の局面は、たいてい、その時間以外もうまくいっていることが多かった。
昼休みが終わり、仕事に戻る。よく見ればパソコンのデスクトップの画像は、アフリカかどこかの雄大な自然の中で、断崖絶壁を見下ろした、広い森に設定されていた。もちろんそれはずっと前から目に入っていたはずではあるが、デスクトップの画像が広大な自然であるということを、初めて心の中で言葉にし、初めて実感した。それほど今の僕の心は落ち着いている。
携帯を覗き見、LINEを開く。メッセージの1番上には、「香織」という名が表示されていた。僕が最近出会った、気になっている女性の名前である。
本当にこの人に恋をしても大丈夫だろうかと、これまで生きてきたなかで何回か思ったことがあるが、そう自問している頃にはすでに遅い。そんな不安を抱くような恋愛は大概失敗し、恋愛したことを後悔するのである。
失恋してから1週間も経てば、心に余裕が生まれる。相手の顔を思い出すと、心の奥にある堅い地盤が、銀色のスコップで削り取られるような、独特の絶望感を感じなくなる。
しかし今回は、そういう不安を感じさせない恋愛だった。
初めて彼女を見たのは、僕が趣味として通っている柔道教室だった。彼女は美しいというよりも、小さく可愛らしい女性であった。肌は雪原のように白く、目は大粒のトパーズのようだった。鼻は小さいが研いだようで、唇はふっくらと優しい血流を感じた。
彼女の柔道歴は浅いようで、足と手の動きに初心者らしい時差を感じたが、その一瞬一瞬を切り取ったような統合されていない幼さが可愛らしかった。僕は彼女を初めて見たその日から、帰り道に彼女の顔を思い浮かべるようになった。今日は背負い投げの踏み込みを先生に注意されていた、受身で畳を叩く音が空気を切るように冴えていたなどと、その日の彼女の様子を考えてしまっていた。彼女のことを考えていると、帰り道が楽しくなった。何の変哲もないビルの狭間の退屈な道が、月の光が泡となって弾けて特別になった。
そんな思いが高まりつつも、彼女と話すことはないまま、彼女を初めて見た日から数週間が経っていた。話しかける機会はなく、彼女も僕に話しかけることはなかった。
ある試合形式の稽古の日、僕は自分よりも20kgは重いであろう大柄な男と試合することになった。試合開始の合図とともに、その大柄な男は手加減することなく僕の胸ぐらに荒々しく掴みかかり、僕を引き倒そうとした。僕は抵抗したが、その大柄な男は構わず僕の前方、斜め下に力をかけ、大振りな払い腰をかけてきた。僕は彼の腰を押さえて遠ざけた。すると彼は一旦僕の正面に戻って一呼吸置いた。
その呼吸が終わるか終わらないかというタイミングで、今度は僕が彼を引き倒すように力をかけた。彼はそれに抵抗するように身を起こそうとしたため、それと同時に僕は背負い投げに入った。その背負い投げは、きれいに彼を宙に舞い上げたのだが、彼は身をよじって回避した。その結果、一本とはならず技ありとなった。
彼は焦ったのか、そのまま寝技に移行し、僕の後ろから力任せに僕の襟を絞り上げた。締め技だ。僕は強烈な力で首を圧迫され苦しんだが、頸動脈がきまっていなかったため、気絶することはなく時が過ぎた。
その様子を見て審判は「待て」をかけ、なんとか僕は負けを免れた。その一連の流れは試合開始から20秒程度で展開され、それがその試合の1番の見どころとなった。その後試合は膠着し、ポイントは動かず僕の勝ちとなった。
大きな相手と組むのはとても疲れる。僕は試合が終わっても、しばらく息を整えることができなかった。大柄な彼は、171cm、62kgという平均より少し細身な僕に負けてどう思っただろうか。
彼の表情には疲れこそ見えていたものの、悔しさは読み取れなかった。きっと柔道が、時には自分より小柄な者に負けるスポーツだということを知っているのだろう。僕も何回もそういう経験がある。
練習を終え、帰路に着いた。その日のビルの狭間の道は、ほとんどその大柄な男のことを考えていた。心地よい疲労と、ひりついた試合展開による得難い興奮をくれたことに感謝した。僕は柔道に、そういう興奮を求めているのだ。
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