第32話 奪い返してやる
王都の裏通り、西日が差し込む安宿の一室。
かつて勇者パーティーが寝泊まりしていた部屋には饐えた匂いが立ち込める。
酒瓶が床に転がり、壁紙は湿気でめくれ、窓の隙間からは煤が忍び込んでくる。
「……また飲んでるのかい、あんた」
宿の主人が半ば溜息のような声をかけ、ドアを押し開けた。
レオンは机に額を押しつけていたが、ゆっくりと顔を上げる。
頬が赤く、目の焦点は定まらない。
あの頃の“勇者”の面影は、もうどこにも残っていなかった。
「俺は……勇者だ。俺が……いなきゃ……この国は……」
言葉は途切れ、舌はもつれるばかり。
それでも自分に言い聞かせるかのように、何度も繰り返していた。
その時、階下からくぐもった笑い声と話し声が聞こえてきた。
「聞いたか? 例の英雄様、また依頼をひとつ片づけたってよ」
「王都はしばらく安泰だろ。あの人に任せときゃ間違いない」
「勇者パーティーの女たち? ああ、今は全員カイ様の屋敷にいるらしいぜ」
酒瓶を掴む手に力が込められる。
白い指先が、かすかに震えている。
「……なんだと?」
階下の連中は、勇者に聞こえているなど夢にも思わない。
「あの女たちな、今じゃ英雄様にべったりだ。自分たちが追放したってのにさ。掌返しってやつだな」
「昔は散々見下してたくせに……よくまあ、厚かましく戻れたもんだ」
笑い声が遠ざかっていくと同時に、部屋の空気が軋むほど静まり返った。
レオンの胸で、なにか黒いものが膨れ上がった。
嫉妬という名の渇きか、怨嗟という名の飢えなのか。
「俺の……女たちを……仲間を……ぜんぶ……奪いやがって」
酒瓶が壁に叩きつけられた。
乾いた音がして、瓶は砕け散る。
レオンはその上を踏みつけるように立ち上がり、息を荒げた。
「俺は勇者だ……神に選ばれた――聖剣を持つ者……だ!」
しかし、その手にはもう聖剣などなかった。
握っていたはずの柄はとうに失われ、
代わりに冷たい空気だけが指の隙間を抜けていく。
「……そうか」
レオンの目が細まり、焦点の定まらない輝きを宿した。
(王城の宝物庫だ。聖剣に匹敵すると噂された宝剣が……あそこに……まだ眠っているはずだ)
もう“理性”などと呼べるものはどこにもない。
(奪われたのは仲間ではない……な。
よくよく考えてみれば、あんなもんはもうどうでもいい。
誇りだ!俺は誇りと栄光を奪われたんだ!
そして奪ったのは、あの“英雄”――かつての荷物持ち)
その夜、レオンの身体は怒りに後押しされるかのように安宿を出た。
王城の外壁を影がよじ登り、月光が彼の足跡をぼんやりと照らす。
かつて魔王討伐の祝賀で迎えられた城門。
だが今、そこに彼を迎える者はいない……。
「待っていろ……盗人め……お前から全部、奪い返してやる……」
声は、もう勇者のものではなかった。
――同じ頃。
カイの屋敷では、彼を囲むように少女たちが寄り添っていた。
「カイ、今日もお疲れさま」
「ずっとあなたを待ってたの」
「合理的に考えても、あなたがいない時間は……」
「ねえ……これから一緒に……」
柔らかな声が重なり、触れる指先がいちいち厭らしい。
カイは肩を竦めて、やわらかく笑った。
「やれやれ、ほんと君たちは……」
(勇者のほうがまだ自分の意志ってものを持ってたな。こいつらは風向き一つで靡く糞袋だ)
内心の呟きに反して、少女たちはさらに頬を赤くした。
彼女たちには、カイの目の奥の蔑みが見えていない……。
――こうして、王都の夜は静かに更けていった。
勇者の嫉妬と怨嗟が、
やがて大きな破滅を呼び込むことを、まだ誰も知らなかった。
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