レベル999の暗殺者、異世界の秩序を殺す

桃神かぐら

第1話 静寂の果て、森に生まれた影

 ――風が止まった。

 スコープ越しの視界は、夜の呼吸まで見えるほど澄んでいる。

 黒瀬零(くろせ・れい)、七十歳。老いは確かに骨に宿っているが、指先だけは若いころよりも静かだった。震えは呼吸と同期し、鼓動と同速で往復する。それを数え、消す。

 一、二、三――。


 標的は、国の中枢に座す男。

 夜会のガラス越しに笑う眉間へ、細い月が針先のように刺さっていた。

 零は息を吐き切る。世界の音が、ふ、と薄くなる。

 引き金は“押す”のではない。指が“戻りたい位置”に帰るだけだ。


 ――音は、ない。

 空気が遅れて悲鳴をあげるころ、弾丸はすでに仕事を終えている。

 スコープ中央、男の瞳から光が消えた。グラスのきらめきが床に砕け、会場に遅い嵐が走る。悲鳴。混乱。無線。

 零はどれも聴かない。狙撃台に膝をつき、銃を解体する。ボルト、バレル、フレーム、スコープ――布で拭う順番は、祈りの順番だ。


「……終わりだ」


 呟きは夜と同じ温度で消えた。都市の灯が遠くに散っている。どの灯も狙撃点に見えるのは職業病。下り階段で膝がわずかに笑い、七十という数字が関節の軋みになって響く。

 無線は使わない。報告はいらない。彼の世界では、結果だけがすべてだ。


 安アパートの一室。

 ウイスキーのキャップを捻り、琥珀色を薄いグラスに一指ほど落とす。

 口に含めば、喉が焼ける。焼ける痛みが生きている証拠で、零はその痛みが好きだった。


「俺は、何を守りたかったんだろうな」


 誰にでもない問い。答えは、どこにもない。

 窓の外、雨に濡れる街の光が、狙撃の閃光に似ていた。


 その夜、彼は初めて“終わり”を考えた。


     ◇


 ――そこから五年。

 山の匂いは、鋭い。薪の割れる音、湯が沸く音、雪を踏む音。生を構成する音は、戦場のどの爆音より豊かだと零は思った。

 黒瀬零、七十五歳。

 小屋は斜面の端、冬は風が直接壁を叩く。暖炉の火が小さく揺れ、天井の煤に星のような影を作る。


 昼は薪を割り、夕方は斧を研ぎ、夜は火の音を聞く。

 殺しをやめてから、時計の音が唯一の警告音になった。コチ、コチ。

 眠る前、零は手を眺める。何百という命を奪った手。節だらけで、骨張って、しかし驚くほど静かな手。


「……ようやく、静かになったな」


 ある雪の夜、彼は椅子にもたれ、目を閉じた。

 痛みはない。恐怖もない。

 呼吸が浅くなる。鼓動が遠くなる。

 炎が一本の線になり、その線がふっと切れた。


 世界は、彼をやさしく手放した。


     ◇


 光はない。闇もない。

 ただ、“意味”だけがあった。

 音ではなく、色でもなく、温度でもない。

 存在が、存在であることをやめないまま、形だけなくした場所。


 無数の粒子が漂い、一つ一つに微かな言葉の残響が宿っている。

 それらのいくつかが彼に触れる。温かい。冷たい。どちらでもない。

 彼は、彼だった。


『黒瀬零。七十五年の生を確認』


 声、ではない。世界が意味を置く。

 零はその“置き方”が気に入った。


『お前は死を恐れなかった。では――生を恐れるか?』


「恐れる理由があれば、な」


 粒子たちが明滅し、彼の“内側”にしみ込む。

 遠くで、森の匂いがした。風、土、樹液、若芽の青。

 彼は目を閉じ、目を開いた。


     ◇


 ――風が来た。

 湿った土。若い草。樹液の甘さ。鳥の羽。遠い水音。


 目を開くと、世界が色の洪水だった。

 青が空、緑が森、白が雲、影が黒、光が金。

 身体が軽い。手が小さい。腕が細い。


 七十五から、七へ。

 数字が反転しただけのように、世界は柔らかく、骨は羽のようだった。


 起き上がろうとして、二度転ぶ。笑う。

 自分の笑い声に驚く。こんなに幼い音が、自分から出るのか。

 頬に手を当てる。すべすべしている。掌――震えがない。血の匂いもしない。油の匂いもしない。森の匂いしかしない。


 名前。

 自分を呼ぶ音を探して、霧の奥をまさぐる。

 黒瀬零、という音は遠く、雪に埋もれた標識みたいに輪郭を失っていた。

 代わりに、もっと新しい音が勝手に口から落ちる。


「……リオン。リオン・クロウズ」


 木々がざわめく。風が一度だけ強くなる。

 森が呼吸を合わせてくれたような気がした。


 立つ。足裏で土の粒の形がわかる。耳の奥で風の線が引ける。

 影の濃い方へ足が出る。枝を踏まない角度を体が選ぶ。息を短くして、頷くように地面を蹴る。


 《Skill:心眼(アクシス)》――起動。

 合図はいらない。詠唱も構えもいらない。

 ただ、世界の“線”が浮かび上がる。

 獣の移動、鳥の旋回、水の流れ、葉の震え、虫の羽音。

 全部が地図になり、胸の奥に刺青みたいに刻まれる。


 《Skill:影走(シャドウラン)》――発動。

 影の中を滑る。音がない。

 自分の存在が薄い布になって、風の下を通過する感覚。

跳躍。着地。次の影へ。

 身体が勝手にやる。

 七十年、いや本当はもっと長く、“こう”してきた感覚が戻ってくる。


 枯れ葉が小さくめくれ、茶色の小動物が顔を出す。

 すぐに引っ込む。その鼻先がどこへ向くか、心眼は教えてくれる。

 リオンは手を伸ばさない。追わず、見送り、笑う。

 狩らない、という選択が胸に軽い灯をともす。

 生きていれば、いつでも狩れる。今は、世界を知る。


     ◇


 日が傾くころ、川の音を“見つけた”。

 心眼に先に“音の線”が地図を描き、足が空気の薄さを選ぶ。

 川は澄んでいた。石が丸い。

 水面に空が揺れて、そこに自分の顔が映る。

 知らない顔。幼い。だが、目の奥にだけ、古い影が住んでいた。


 指先を水に入れる。冷たい。

 指が一つ、古い動作をやる。

 反射的に――銃の安全装置を外す筋肉の“形”。

 自分で自分に笑って、指を握る。


 水を飲む。甘い。

 喉に冷たさが落ちていく感覚に、リオンは少しだけ涙ぐんだ。

 すぐ消える。泣くほどの理由は、この世界ではまだ見つけていない。


 岩陰に気配。世界の線がひとつ、こちらを指す。

 立ち上がらない。座ったまま、顎だけを向ける。

 ――獣の匂い。小さい。だが、牙の形が鋭い。


 《Skill:静血(サマタ)》――常時。

 心が波立たない。風の音と同じ速度で鼓動が往復する。

 呼吸を一つ。間を置く。


 茂みから飛び出したのは、灰色の鼠――いや、鼠に似た、霧をまとった魔物だ。

 鼻先が長く、口腔が深い。

 足音は軽いが、走るたびに“生きた音”が霧に吸われる。


 〈識別:魔霧鼠(フォグ・ラット)〉

 〈性質:音と匂いの“生”を捕食〉

 〈数:一、後続未確定〉


 牙が光る。

 リオンは立ち上がらない。

 立たずに戦える場所を選ぶのは、前世からの癖だ。


 《Arts:無声脚殺(ムート)》

 膝の角度、足裏の圧、重心の移動――音を殺す。

 鼠が跳ぶ。

 地面の上で、影が先に動き、牙より前に“空白”が生まれる。


 《Arts:零閃一心(アクシオン)》

 一点へ収束。呼吸、鼓動、重力、視線――全部を一本の刃に変える。

 刃はない。拾った木の枝。

 だが、**刃だと“決めて”**前へ押し出す。

 空気が裂け、霧の繊維が一本、切断される。

 鼠の胴に細い空白が走り、遅れて崩れた。


 音はない。血の匂いも薄い。

 だが、森の“生”が一つだけ減ったことを、心眼は確実に記録する。

 リオンは目を閉じ、短く祈るでもなく、息を吐いた。


 茂みの奥で、二つ、三つ――低い擦過。

 群れ。

 初手の静けさを破らないうちに、次の準備へ移る。


 《Skill:狙命視界(スナイプ)》――短起動。

 風のベクトル、距離、落差、光の屈折。

 昔はスコープの役目だった計算が、今は眼球と鼓動の間だけで完結する。

 右、二。左、ひとつ。

 左右の茂みが同時に“膨らむ”。

 なら、踏ませる。


 地面の小石を三つ、指ではじく。

 乾いた音――は、霧に食われる。

 だが足場は変わる。踏み心地が変われば、獣はわずかに重心をずらす。

 ずれた重心に、影を差し込む。


 《Skill:心眼(アクシス)》拡張――線ではなく面を視る。

 鼠の着地面に、先回りして“空白”を置く。

 霧がその空白を埋められず、獣の体がわずかに沈む。


 《Arts:無声脚殺(ムート)》からの《Arts:零閃一心(アクシオン)》

 ――二体、落ちる。

 最後の一体は警戒して距離を取った。賢い。

 霧を巻き、匂いを奪い、こちらの動作の予測線を砕こうとする。


 なら、こちらは“線”を要らない。

 音で視る。


 《Skill:心音律(エコー)》――胸の奥で鼓動を一つ、多く打つ。

 波が外へ滑り、岩の裏の虫が跳ね、枝の鳥が首を振る。

 生きているが音になり、敵の心臓の位置が“音の影”として浮かぶ。

 重さが、そこにある。

 そこだけ、刃を通す。


 《Arts:影葬刃(レクイエム)》――試作。

 影を手の中で細く固め、霧と皮の“生”をわずかに剥がす。

 鼠は叫ばない。叫びは霧に吸われる。

 ただ、足が、一本、遅れる。

 遅れた足は、死ぬ。


 沈黙。

 霧の床に、穴がひとつだけ残る。

 そこから、森の光が上がった。


 《Log》

 Lv.1 → Lv.3

 《Skill獲得》

 ・影葬刃(レクイエム):影を細刃とし、形なき敵の“生”を薄く剥離する。

 ・心音律(エコー):鼓動の波で周囲の生を探知/同調。

 《Inner安定》

 ・静血(サマタ):動揺を抑え、呼吸と鼓動を一定に保つ。


 数字より先に、森が反応した。

 木々が一度ざわめき、葉が静かに二枚、落ちる。

 風が頬を撫で、どこからともなく、くすぐったい声がした。


『――やあ』


 声の主はいない。

 いるとすれば、風そのもの。

 リオンは目を伏せ、短く笑う。返事はいらない。

 彼の静寂が、風の遊び心をそっと抱き留める。


     ◇


 夜。

 焚き火はない。火起こしの方法は知っているが、手は伸びない。

 暗闇は怖くない。暗闇は友達だ。

 根の柔らかいところを探し、背を預け、空を見上げる。

 星が、都市の夜景のように配置されている。

 あの夜、スコープの向こうで見た光の粒と、どこか似ている。

 似ているが、違う。

 あの光は命を奪った証明。今の光は命がある証明。


「……昔は、命令で引き金を引いた。

 今は、自分で選んで、剣を抜く」


 小さく言葉が落ちる。夜はそれを誰にも聞かせず、抱え込む。

 戦うことは変わらない。

 ただ、目的が変わった。

 それだけで、世界の匂いが違って感じられる。


 眠りはあっという間に来た。

 夢は見ない。

 代わりに、風が何度か、名前を呼んだ気がした。


     ◇


 翌朝。

 森は目覚める音で満ちている。鳥は鳥で鳴き、風は風で走り、水は水で笑う。

 それぞれがそれぞれの“仕方”で動くのを眺めているだけで、退屈しない。

 だが、空腹は生の合図。

 今日は食べる。

 ――狩るためではなく、生きるために。


 川筋を離れ、木の実を探し、酸の強い赤い実を避け、堅い殻の群れを見つける。

 石で殻を割る。音は小さい。

 口へ運ぶ前に、心眼で“毒の線”を探る。

 問題ない。

 嚙む。甘さと油が舌へ広がる。

 腹が、静かに喜ぶ。


 食べることも、戦いの一部だ。

 生き延びるための判断。

 かつての自分は、戦うことしか知らなかった。

 今は、生きることを練習している。


 木陰で体を伸ばし、関節の角度を確かめる。

 《Arts:無声脚殺(ムート)》の歩法を素足に合わせて微調整する。

 靴がない分、足裏が拾える情報は多い。

 しかし、傷も負いやすい。

 そこで落ち葉を重ね、樹皮と蔓で簡易の足袋を拵える。

 厚みは最小限、感覚は保つ――仕事だ。

 少年の手で作業するのはもどかしいが、慣れはすぐ来る。


 昼過ぎ、風向きが変わる。

 甘い匂いと、鉄の匂い。

 獣。

 だが昨日の鼠より大きい。

 心眼の線が、地面に近い位置で重く揺れる。

 背を低く、腹を擦って移動。

 茂みを割らず、葉脈の“筋”をなぞる。


 見えた。

 灰色の体毛、低い姿勢、長い鼻面。

 だが鼠ではなく――猪に似た魔物。

 額に骨の板があり、口腔が異様に深い。

 地面へ鼻を押しつけ、土の匂いから“生”を探す。


 〈識別:嗅獣(ノーズ・ボア)〉

 〈性質:匂いの濃度差に反応/突進〉

 〈弱点:鼻先/膝関節〉


 突進されたら致命。

 避けるには、間がいる。

 “一拍”ではない。一呼吸、しばし――間。

 その間を自分で作る。


 リオンは匂いの線を組み替える。

 自分の汗と泥を混ぜ、風下へ薄く塗る。

 実の殻を砕き、油を含んだ粉を、逆方向の草へ落とす。

 匂いの濃度が、そこだけ“丘”になる。

 丘があれば、獣は登る。鼻で。


 《Skill:影走(シャドウラン)》――横へ流れる準備。

 《Skill:心音律(エコー)》――突進の前振れを聴く。

 胸の奥で、獣の鼓動が速くなる。

 ――来る。


 大地が唸り、太い枝が震え、猪が直線を描く。

 リオンは一歩、先を踏む。

 突進の直前に、獣の鼻先の匂いの丘が“消える”。

 油は揮発し、風が変わる。

 獣の鼻は空振り、突進の角度が半歩ずれる。

 半歩。

 それで、十分。


 《Arts:零閃一心(アクシオン)》

 枝――いや、今は石。

 拳大の石を“刃”だと決め、骨板の縁、柔らかい“生”の入り口へ叩き込む。

 石は割れ、皮は裂け、膝が沈む。

 同時に《Arts:無声脚殺(ムート)》で背へ回り、もう一撃。

 獣が崩れ、地面の振動が息へ伝わる。


 息を吐く。

 勝った。

 だが、殺しきらない。

 必要な分だけ肉を取る。

 骨へ手を当て、短く目を閉じる。

 祈りではない。礼だ。


 《Log》

 Lv.3 → Lv.5

 《Skill進化》

 ・心眼(アクシス)→拡張心眼(アクシス・ワイド):感情や魔力の流れを薄く視る。

 《Magic習得》

 ・火種(イグニス):指先で火の粉を一つだけ起こす。小。無詠唱。


 火を扱うのは初めてではない。だが、この世界の火は、生きている。

 指先の火種を枯れ草へ落とすと、火は“喜ぶ”。

 小さく、控えめに。

 肉を少し炙り、塩代わりに灰をまぶす。

 噛む。

 静かに美味い。

 生きるための味がする。


 腹が落ち着くと、眠気が波のように来た。

 影の濃い場所を選び、体を丸める。

 耳は働かせたまま。

 心音律を低く流し、周囲の“生”の波を寝息に合わせる。

 世界と呼吸を合わせるのは、戦いのときだけじゃない。

 生きるときもだ。


     ◇


 夜半。

 雨。

 雨が来る前の匂いから、彼は場所を移していた。

 根の張り出しが屋根になる窪地。

 そこへ風が潜り込み、雨粒の音が変わる。

 点から線へ。

 その変わり方で、雲の厚みがわかる。

 ――訓練、ではない。癖だ。


 目を閉じると、遠い記憶が肩口を撫でる。

 ホテルの窓、雨粒、赤い光、グラスの砕ける音。

 彼は首を振らない。

 戻らない。

 今は、ここだ。


 雨の境目で、何かが立った。

 獣ではない。

 もっと軽い。

 たぶん――精霊。


『……眠ってる?』


 声にならない声。

 リオンは目を開けない。

 開けなくても、見える。

 水の粒が跳ねるたびに、空気の輪郭が柔らかく変形し、小さな何かが興味深げに覗き込んでいる。


『音がしないひと。息、どこ?』


「ここにあるよ」


 口を開かず、胸の奥で答える。

 精霊は満足したのか、雨を一粒、彼の鼻先へ落としていく。

 冷たい。

 笑う。

 精霊も、笑った気がした。


 《Spirit適性》

 ・風精/水精――微親和。

 無詠唱で小さな手助けを“受け取りやすい”。

 友だちというほど簡単ではないが、敵でもない。


     ◇


 三日。

 森に馴染むのに、そのくらいあれば十分だった。

 体の軽さは利点。力の足りなさは工夫で埋める。

 足袋は改良し、蔓の締め方を変え、滑りやすい岩肌には樹脂を薄く塗る。

 匂いの“線”は風と相談し、心音律の波は弱いまま維持。

 《Skill:影走(シャドウラン)》の滞空を短く切り、着地の衝撃を根へ逃がす。

 できることを増やすのではない。

 できることを深くする。


 深い茂みの手前で、心眼が“硬い静けさ”を拾う。

 音がないのではない。音が消されている。

 嫌な思い出の形。

 霧――ではない。

 網だ。

 見えない糸が、空気の中に張られている。


 〈識別:糸蜘蛛(スレッド・ウィーバ)〉

 〈性質:空気の震えを糸で拾い、獲物の呼吸を弱らせる〉

〈対策:糸の“節”を断つ/空気の流れを変える〉


 糸は斜めに三本、水平に二本。

 節がある。

 節は弱い。

 節の位置を少しだけ変えれば、網は自分で自分を崩す。


 リオンは小枝を数本、指で弾き、別方向から当てる。

 音は霧ほど食われない。

 糸のうち一本が、思ったより強く振動し、隣の節を“ずらす”。

 ずれた節は、次の節を引きずり、網は勝手に破れる。

 蜘蛛の躯体が露出。

 四つの目が彼を視る。

 毒、持ち。

 近づきたくない相手。


 《Magic:風裂(エア)》――短い切れをひとつだけ。

 詠唱はしない。

 言葉を橋にしない代わりに、間を橋にする。

 一呼吸で風を尖らせ、節の間に滑り込ませる。

 糸が切れ、蜘蛛の足がもつれ、体が落ちる。

 落ちる前に、《Arts:影葬刃(レクイエム)》で足の根元だけ剥ぎ、動きを止める。

 殺さない。

 毒嚢と糸を使うためだ。

 生存に使う。


 《Log》

 Lv.5 → Lv.6

 《Skill合成解放》

 ・無音疾風(サイレント・ゲイル):影走(シャドウラン)+風裂(エア)

  影の滑走に風の薄刃を重ね、走るルートそのものを“無音の刃”にする。


 試す。

 短い距離で。

 ――走るだけで、草が静かに二つに割れる。

 音はない。

 切れ味は、十分。

 逃げ道にも、攻め道にもなる。


     ◇


 夕方、空が銅色に沈むころ。

 谷の向こうから、重い鳴き。

 低く、長く、腹にくる音。

 音そのものが武器の獣がいる。

 遠い。

 だが、ここまで届くということは、近づいている。


 彼は背を低くし、地形を調べ、逃走経路を三つ確保する。

 戦うか、退くか。

 昔の彼なら、任務で決めた。

 今の彼は、生で決める。

 守るもの――今は、自分自身の息。

 退く。


 退くと決めるのも、戦いだ。

 影走で谷風の背を択び、無音疾風で草の鳴きを消し、匂いを川筋に逃がす。

 背を向ける勇気は、正面を向く勇気と同じくらい、難しい。

 少年の体は軽く、心は静かだ。


 そのとき――

 足裏の小さな痛みが遅れて上がった。

 棘。

 足袋の薄いところを突き破り、皮膚に刺さっている。

 血は少し。

 匂いが、風に乗る。


 悪い。

 この匂いは、呼ぶ。


 谷の鳴きが一段低くなり、方向が変わった。

 こちらへ。

 退くはずの道が、戦いの場所に変わる。

 ――選ぶときだ。


 リオンは走りながら、棘を抜く。

 痛みは一瞬。

 《Inner:静血(サマタ)》で波を押さえ、心音律で匂いの広がりを逆算。

 血を土と混ぜ、匂いの面を作り、谷側へ投げる。

 風精がそれを見つけ、面白がって少しだけ手伝う。

 匂いは向こうへ濃くなり、こちらは薄くなる。


 《Spirit:風精交感(ヴィント)》――無言の頷き。

 ありがとう。

 風は笑い、丘を駆け下りる。


 足裏の痛みは残る。

 なら、動きで補う。

 《Arts:無声脚殺(ムート)》の歩幅を短く刻み、《Skill:影走(シャドウラン)》の滞空をさらに短く。

 接触時間を減らし、痛みの“音”を体内で拡散させない。

 痛みが一点に集まると、動きが“鈍る”。

 散らせ。

 散らせば、動ける。


 谷の鳴きは遠ざかった。

 助かった。

 助かったのは、風と、判断と、少しの運。

 昔なら、運は嫌いだった。

 今は、少しだけ好きだ。

 生きていると、運が働く場所が増える。


     ◇


 夜。

 彼は小さな窪地で指先に火種(イグニス)を落とし、蜘蛛糸で組んだ弱い光を作る。

 強い火は呼ぶ。

 弱い火は守る。

 守る火の前で、彼は足袋を外し、棘の傷を洗い、樹液で蓋をした。


 雨は上がって、星が増えた。

 風が「おやすみ」と言い、葉が「またね」と言い、水が「大丈夫」と言う。

 森はやさしい。

 やさしいが、甘くはない。

 その差を嗅ぎ分けるのが、生きるということだ。


 眠る前、彼は胸の中に短い言葉を置いた。


「昔は、世界を静かにするために戦った。

 今は、静かな世界を守るために戦う」


 言葉は夜に吸い込まれる。

 遠いどこかで、光の輪がひとつ、深く沈んだ。


     ◇


 ――空でも地でもない場所。

 円卓、という語が最も近い。光の輪の集合。

 その内側に、複数の“意志”が座っている。


『観測:対象、森にて適応速度――極めて良好』

『詠唱、いまだ無し。無詠唱に対して精霊側の微親和反応』

『戦闘目的の変化を確認。「命令」→「選択」→「保護」』


「彼は戦いの構造を変えた。

 殺すために戦っていた者が、守るために戦い始めている」


「無詠唱は危険だ。橋を渡らぬ者は、海を歩く。沈むかもしれない」


「――海を歩けるなら、なおのこと見たい。どこまで行く?」


 光の輪が笑い、別の輪が息をひそめ、さらに別の輪が数を数える。

 彼らは人の言葉で言うなら“神々”。

 世界を見て、数え、ときに支える者たち。


『補記:黒数核――微弱反応』

『旧世界の技が、こちらの魔に“形”を与えつつある』

『危うい。だが、美しい』


「観測継続。干渉――なし」


     ◇


 明け方、露が光る。

 彼は足袋を履き直し、立つ。

 影が伸び、鳥が飛び、風が頬を撫でる。

 彼は笑う。小さく、短く。

 その笑いは、誰にも聞こえない。

 だが、森は知っている。


 《成長ログ》

 Lv.6

 新規:影葬刃/心音律/火種/無音疾風

 進行:拡張心眼

 備考:精霊との距離、縮小中


 世界は、今日も彼に優しい。

 優しいが、試す。

 彼は応える。

 応えるのは、戦いではない。

 生きることだ。


 春のような匂いの風が吹き、森が笑い、どこかで小さな鐘に似た鳥の声がした。

 リオン・クロウズ、七歳。

 走り、転び、笑い、気配を読み、影を縫い、時々、世界の端に指を掛ける。

 人には、まだ会わない。

 だが、世界と、もう友達になりかけている。


 はじめの音は、いつだって、静かだ。

 その静けさを守るためなら、彼は何度でも戦う。

 ――戦う目的が変わった、ただそれだけのことで、物語はまるで違う方向へ転がりはじめる。


 そして森のどこか、まだ遠い場所で、重い鳴きが一度だけ響き、止んだ。

 それは予告。

 次に彼が選ぶ間のための、短い合図だった。

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