婚活女子、モテない理由を知る

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第1話 走馬灯と竜との出会い











 不知火愛しらぬいあい、三十二歳・独身。

 彼女はいま、人生で初めての「走馬灯」というものを体験していた。


 山もなく谷もない――世間的には恐ろしいほど順調な人生だった。

 大学を卒業し、社会という荒波に乗って早十年。希望していた一流企業に就職し、着実にキャリアを積み、いまではそれなりの役職も任されている。生活は安定し、仕事においても不満など一つもなかった。


 その環境に見合うように容姿にも気を配り、対人関係には慎重を期してきた。

 余計な波風を立てず、誰からも「感じのいい人」と思われるよう努力してきたつもりである。

 もっとも、そんな順風満帆な日々は、日々のたゆまぬ努力と根性の賜物でもあるのだが──努力していようといまいと、「順調であること」を妬む人間というのは、どこにでもいる。


 そう、たとえば。

 信号待ちの時に、突然背中を押してくるような“おかしな女”とか。






「あんたのせいよっ! あんたさえいなければ、今ごろあの人の隣には私が──!」

 




 崩れた体勢のまま、愛が顔だけを後ろに向けた瞬間、鬼の形相でそう叫んだのは、つい先日、彼女が担当する企画チームのメンバー選考に落ちた同僚だった。

 そういえば、この人──企画チームのイケメン社員に異様な執着を見せていたっけ、と愛はふと思い出す。

 だがそのイケメンは、ただの同僚であって恋人でも何でもない。誤解を招くような言動を取った覚えもない。

 そもそもあのイケメン同僚には既に結婚を約束している恋人がいる。一流企業のイケメンがあの歳で売れ残っているはずなどないだろうに。


 そんなことを考えられるくらいには、この瞬間、愛の世界は不思議なほどゆっくりと動いていた。

 悲鳴も、景色も、すべてが緩慢に流れ、やけに静かだ。

 そして脳裏に、これまでの人生の断片が次々と浮かび上がる。


 ああ、これが「走馬灯」ってやつなのね。


 思わず可笑しさが込み上げたその瞬間、彼女の身体は大型車にはね飛ばされていた。







 そう、跳ね飛ばされた――はずであったのに。


 次に目を開けたとき、なぜかそこは見たこともない森の中だった。

 鬱蒼と茂る木々に囲まれた広場のような場所で、愛は呆然と立ち尽くす。

 しかもあれほど盛大に吹き飛ばされたというのに、どういうわけか傷一つどころか服の擦り切れさえも見当たらない。


「なにこれ、どういうこと……っていうか、あの女ぁぁぁっ!」



 愛は思わず声を張り上げる。


「完全に勘違い拗らせて私を恨むとか、筋違いすぎるでしょ!? 恨むなら私じゃなくてイケメンの恋人の方だっての! なんでたまたまチームが一緒なだけの私が殺されかけなきゃならないのよっ!」


 愛はやり場のない怒りを発散するように、その場で喚きながら地団太を踏んだ。

 ただでさえ、惨敗した合コンの帰り道で気分がどん底まで落ち込んでいたというのに、さらにはこんな理不尽まで降りかかるなんて。


 しかも、文句を言いたい相手が見当たらないどころか、ここがどこなのかすらわからない。

 死後の世界なのかと疑ってみもしたが、頬を撫でる優しい風と、それに乗って運ばれてくる草木の青々しい香りが――これは夢でも幻でもなく、現実なのだと訴えかけてくる。


「そのうえ、なによここ! さっきまでどこにでもある普通の道路だったでしょうよ! もー、いやぁぁっ!」


 晴れやかな空に向かって咆哮するように一通り不満をぶちまけた愛は、肩で息をしながら、力なく地面を見つめた。


 何もかもが理不尽だ。

 順調すぎる人生の中で、唯一つまずき続けたを解決しないまま、今度はわけのわからない状況に追い込まれるなんて――混乱を通り越して、もはや屈辱に近い。


 そう、順調すぎるがゆえに。

 ひとたび躓くと、どんなに積み上げてきたものがあっても、すべてが駄目になったように思えてしまうのだ。



「……なによ、もう……」



 ぽつりと零れた言葉とともに、愛はどうしようもない虚無感に襲われて、その場へとへたり込んだ。

 耳鳴りがするほどの静寂の中で、時折遠くから軽やかな鳥の鳴き声が聞こえる。

 座り込んだ草の湿った感触と土の香りが余計に現実であることを愛に訴えかけてくるように感じて、愛はまとまらない思考を紛らわせるようにして深いため息を吐いた。









『……ん? この気配は……』




 次の瞬間、掠れるような誰かの声が耳に届いたかと思うと同時に、背後から突風と地響きが一気に襲いかかってきた。

 思わず体勢を崩して四つん這いになった愛は、反射的に振り返る。だが、巻き上げられた自身の髪が視界を覆い、何も見えない。

 バッサバサと風に煽られたその髪が、黒から鮮烈な赤へと変わっていることにも気づかぬまま、愛は吹き荒ぶ風が止んだ先の光景に息を呑んだ。




 ―――竜だ。




 初めて目にするはずの存在なのに、愛は直感的にそれが「竜」だと理解した。


 炎を宿したような深紅。その中には、火花のように瞬く儚くも美しい金の虹彩が揺蕩うように浮かぶ。

 それが目の前に居る生き物の瞳であると認識できたのは、いったいいつなのだろう。

 愛は自分が息を止めてしまっていることにも気づかずに、ただ眼前に広がる生き物の姿を言葉なく凝視した。


 ズズズ……と地を這うような音とともに、竜が巨体をゆっくりと起こした。

 そのたびに、身体にこびりついていた苔や土がばさばさと音を立てて落ちていくと、荒れた山肌から美しく整列した滑らかな鱗へと変わっていく。

 しかし、本来ならば艶やかで美しいであろう偏光する黒い鱗も、今は長い年月の中で苔むして鈍色に曇り、随分と色褪せて見えた。


 竜はその間も片時も愛から視線を離さず、大きな頭をゆっくりと近づける。

 そして、まるで彼女の存在を確かめるかのように、深く、静かに息を吸い込んだ。



『あぁ、やっぱり、君なんだね』




 唸りのように耳に届いたそれが、竜の言葉なのだと何故理解できるのか。

 そんなことは些末だというように、愛は目の前の生き物から目が離せなくなった。


 気付けば、愛が手を伸ばせば続くような距離に竜の顔があった。

 愛を見て、まるで悲しいとも苦しいとも違う感情が溢れそうになるのを抑えるように、竜はその大きな瞳を伏せる。

 伏せた瞳の奥から、涙の粒がポロリと落ちると、その涙が大地に着く頃には美しく輝く宝石になっていた。


「……綺麗」


 思わず零れた言葉とともに、愛は竜の鼻先へと手を伸ばし、ためらうことなく撫でた。

 想像していたよりも、鱗はしなやかで温かい。

 指先で苔をそっと払いのけるように撫でると、竜はぽろぽろと涙をこぼしながら、クルルと甘えるような声を洩らし、愛の掌に鼻先を押し当ててくる。


『……おかえり、僕の番。ずっと待ってた……ずっと』


 頭の中に直接響くような、美しく澄んだテノールの声。

 少し震えを帯びたその響きがあまりにも切なくて、未だ様々な感情に揺れる愛の心を締めつける。


 番とは何なのか――。

 そもそもこの状況は何なのか。

 考えるべきことはいくつもあるのに、いまはただ、目の前の竜が泣いているという事実の方がずっと大事に思えた。


 竜からすれば小さな人間の両手で、それでもできるかぎり優しくその鼻先を撫でながら、愛は竜の涙が止むのを静かに待つ。

 こんなにも懐かしさを滲ませて縋られてしまえば、恐怖など抱きようがなかった。





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