ジェヴォーダンの獣 其ノ肆

「うそでしょう?」


 日の光が届かないような薄暗い路地を抜けた先。まるで隠されたように、軍から貸与されたとルーメンが言う拠点は存在した。

 江戸時代から使われていたという古民家。近隣に家は存在せず、あるのは好き放題に伸びた樹木ばかり。冬なので葉がほとんど落ちてしまい、庭は枯れ葉で覆われている。傾き始めた日の中で、玄関引き戸の前に立つ太宰の素っ頓狂な声が響いた。

 そんな彼の声を聞くのは珍しく、それだけでもルーメンの誘いを受けた甲斐があったと思えてしまう。

 シゲルと結んだ協力関係の経緯について、ルーメンが弾丸のような早さで語り始める。その中でも頻繁にシゲルの勇気に対する称賛が入るため年甲斐もなく照れてしまった。


「…………ちょ、ちょっと待ってください。一旦止まって」


 どれほどそうしていただろうか。つらつらと止まらないルーメンの話に、さすがの太宰も制止をかける。彼は何かを考えるように頭を掻き、次いでじろりとすみれ色の瞳をシゲルに向けた。


「……あーそれで、先生はその誘いに『いいよ』って言ったんです?」

「うん」

「うん、じゃないでしょう」


 うなずいたシゲルを見て、太宰がため息をつく。ここまで感情が表に出ている彼を見るのは初めてかもしれない。


「なんだってこう、あなたは……本当に後先考えないんですか」

「考えたよ」


 太宰の言葉に昨夜の苛立ちがぶり返す。思わず、語気が強くなってしまった。


「考えた上で、ここいにる……!」


 太宰が瞠目しこちらを見ているが、もう止まれなかった。


「そりゃ、危ない目には遭いたくないし、太宰にも遭ってほしくないよ! でもここで踏み込まないと、私は何も知らないまま記事を書くことになる! 太宰のことも、『ジェヴォーダンの獣』のことも!」


 ――だから、ここに来たのだ。記者として、目の前にあるものを、人を、知るために。


 真正面から太宰を見つめる。すると、太宰は再度長いため息をついて俯いた。


「……先生の言い分はわかりました」


 そう言い顔を上げる。そこには一目で作っているとわかる笑みがあった。

 直感的に悟る。これは相当怒っている。一緒にいる時間が長かったからだろうか。表情は変われど感情を表に出していなかったこの男について、少しわかるようになっていた。


「そこまで言うなら手伝ってもらいましょうか。もちろん、なんでもやってくれますよね?」

「え、いや、なんでもとは……」

「やってくれますよね?」

「……やります」


 圧に耐えきれず了承してしまう。これでは呉葉の時と同じだ。そんなことを考えた時、というか、と太宰が話題を変えた。


「なんか先生遠くありません? そこじゃ話しづらいでしょう。もっと近くに来てくださいよ」

「え、いや、私はここで十分なんで」

「なんでそんなに頑ななんです?」


 怪訝そうな太宰。いや、その……と言いづらそうなシゲルを見てルーメンが吹き出す。太宰はいよいよわけがわからないとでも言いたそうな顔をした。

 シゲルは両手を前に出し、これ以上近づくなと意思を示してから口を開く。


「……実は、ここ来る前に、犬か猫か馬の糞を踏んで……多分まだ匂うから、さすがに近づくのは申し訳なくて……」

「いいえ鬼門さん。あの大きさで猫はありえません。おそらく大型犬か人間のものだと思われます」

「やっぱり人間のですかねあれ! うわぁ、犬とかならまだ許容範囲だけど人ってなると話が変わってくるよ……」

「あの、そろそろ糞の話から離れてもらえません?」


 協力関係になった以上、いつ獣と対峙するかもわからないというのにあまりにも緊張感がない会話だ。太宰は呆れたような顔をしてシゲルに問いかける。


「で、それくらいのことをあたしが気にすると思ったんです?」

「私にとってはそれくらいじゃないよ! 覚悟決めてここに来たっていうのに糞臭いんじゃ格好つかないでしょ!」


 太宰は理解できないとでも言いたそうにため息をつく。今日はやけに彼のため息を聞いている気がした。もっと頼りがいがあるような姿を見せようと思っていたのに散々だ。これでは恥の上塗である。

 そんなことを思っているシゲルに向かって太宰は一歩踏み込み、彼女の右腕を自分の方へ引いた。急なことに反応できずたたらを踏んでしまう。彼から一歩分の距離。もう慣れてしまった場所でシゲルの足は止まった。


「いつもこのくらいの距離で話してたでしょう? 今さら遠くに行かないでくださいよ」

「それ、急にいなくった太宰が言う?」

「ええ、ええ、あたしが悪うござんしたよ」


 太宰はシゲルの腕から手を離し、降参とでも言うように両手を上げる。そして、すぐに眉根を寄せて鼻をひくつかせた。


「……やっぱり、ちょっと臭いますね」




 二十代半ばを過ぎてからだろうか。もう昔のように無茶はできないと思う日が増えた……はずだった。


「連日の深夜徘徊はさすがに堪えるって」


 白い息を吐き出しながら、シゲルはあてもなく闇に包まれた帝都をぶらつく。だが、昨夜よりも足取りが軽かった。おそらく、明確な理由があるからだろう。彼女が一人で歩いている理由、それは簡単に言えば、餌になるためだった。

 「ジェヴォーダンの獣」の姿は見ることができたのだ。次に悩んだのは、どうやって捕まえるかだった。まずはおびき出さなければならないが、そこらの犬猫とは違うため食べ物で釣ることもできない。そもそも何を食べるかすらわからないのだ。

 うんうんと唸っていたシゲルに、ルーメンはきょとんとした顔で言った。


 ――餌を用意すれば食いつくのでは?

 ――いや、その餌がわからないですし……


 そう言うと、ルーメンはにっこりと無言で笑い続ける。なんだ、どういう感情の顔だそれは。助けを求めて太宰の方に顔を向ければ、彼もルーメン同様、口角を上げている。


 ――え……あ、もしかして――餌って私?


 二人共、示し合わせたように大きくうなずいたのだった。


「……たしかに『なんでもやる』って言った、いや、言わされたけどさ。あの獣を見ておいて餌にしようと思うかね普通。まぁ、黒い断髪女性しか狙わないから理に適ってはいるけど」


 きょろきょろとシゲルは辺りを見回す。影一つ見当たらないが、作戦によると、太宰とルーメンは近くで見張ってくれているらしい。何かあればシゲルが声をあげるよりも先に駆けつける、とルーメンが親指を立てていたことを思い出す。普通であれば嘘のような言葉だが、あの二人の人間離れした身体能力であればそれも可能だろうと思えてしまうから不思議だ。

 寒さから二の腕をさする。雪は降っていないが、昨夜に負けないほどに冷え込んでいる。

 ぽつぽつと忘れたころに現れるアーク灯。しん、とした空気が音を吸い込んでしまったようにその場は無音だった。ここまで音が無いと逆に不気味さが増す気がする。慣れているはずの帝都の地が知らないものになってしまったかのような気分だ。

 努めて長い息を吐く。肩掛け鞄がずり落ちてしまったので掛け直したその時、


「――うあっ⁉」


 強い力で背を突き飛ばされる。

 その勢いのまま倒れれば怪我は確実だったが、目の前で黒い何かがシゲルを受け止めた。流れる金糸――どうやらルーメンが受け止めてくれたようだ。となると、突き飛ばしたのは太宰のはずである。しかし、振り返ったシゲルの視界に飛び込んできたのは、想定していた人物だけではなかった。


 もう一人、鼠色の髪をもった長身の少年がそこにいる。


 鋭利な形の石を持った右手は、太宰によって動きを封じられていた。もし突き飛ばされなければ、あの石がシゲルの頭や腕を切り裂き血が噴き出ていただろう。あったかもしれない未来にぞっとする。しかし、そんなシゲルとは反対に太宰は呑気な声を出した。


「獣じゃなくて別の人が釣れちゃいましたねぇ」

「■■■■ッ! ■■ッ!」

「なんて言いました?」


 少年は暴れ、無理やり拘束から抜け出す。そして、持っていた石を太宰の脳天に目がけて振り下ろした。だが、石が頭を切り裂くよりも太宰が殴る方が速い。危ない、シゲルがそう声を出す前に、少年の顔面に拳が叩き込まれた。


「グゥッ⁉」


 少年は後方へ数歩分吹っ飛ぶが、どうにか倒れずに耐える。


「あら?」


 太宰は不思議そうに声をあげた。

 ぼたぼたと道に大量の鼻血を垂らしながら、少年は太宰を睨みつける。その瞳は月のように青白い。骨の形がわかるほどにくぼんだ目と、こけた頬がやけに目を引く。石を持った右手の甲で鼻血を拭うが、まったく止まる兆しはなかった。

 太宰は少年に近づいていく。


「おかしいな。普通ならもっと吹っ飛ぶはずなんですが」


 その言葉に、シゲルは見世物小屋の座長を思い出す。ただの平手打ちでけっこうな距離を飛んで行ったはずだ。


「まぁ目当てのもんじゃないですが、れっきとした現行犯です。これを機にいっぺん痛い目見てもらいましょうか」


 太宰がもう一度拳を作る。刹那、空から鼠色の何かが降ってきた。

 弾丸の如き速さで現れたそれは、少年と同じ青白い瞳を持っている四足歩行の獣――シゲルたちがおびき出そうと画策していた「ジェヴォーダンの獣」だった。


「■■■■■■■ーッ‼」


 鼓膜が破れんばかりの咆哮。何を言ったか理解はできないのに、威嚇であることは本能的に感じ取れてしまう。

 太宰が腰を落として身構える。獣は少年を守るように前へ立つと、月のような瞳で目の前に存在する三人の人間を見た。そしてシゲルの方向に顔を向けると、異様に発達した後ろ足で力強く地面を蹴り突進する。耳元で、ひゅっと息を呑む音が聞こえた。

 その瞬間、身体を強くつかまれた痛みと浮遊感に襲われる。ルーメンが自分を抱えたまま後方に飛んだのだと気づいたのは、流れていく景色と彼のたなびく金糸が見えたからだ。同時に、シゲルの視界の端には己に向かって大きく口を開ける獣も映っていた。

 超人的な跳躍を見せたルーメンだが、どこまでいっても人の範疇である。化物である獣の突進には敵わない。

 このままでは二人一緒に喰われる。確定した未来を理解するだけの機械のように、ただ単純にそう思った。しかし顔の中心にしわを寄せた獣は、突進と同じほどの速度でシゲルから距離を取る。……なんだ、何が起こった?

 現状の把握をする前に、獣は少年の後ろ襟を咥え、屋根の上へと跳躍する。そして低い唸り声を漏らし、月がある方向へ駆けて行った。後を追うことは不可能な速度だ。


 獣の姿が見えなくなって数秒後、シゲルの全身から冷や汗が噴き出る。心臓の音がやけにうるさく感じたが、それこそが生きている証である気がして安心してしまった。

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