ジェヴォーダンの獣 其ノ弐

 その夜、シゲルは愛用している肩掛け鞄に、手拭いで包んだ包丁を入れた。

 殺人を犯すためではない。護身用だ。警察に見つかったら一発で事情聴取行きだが、ほかの荷物に紛れ込ませていればそうそうばれることはないだろう。……おそらく。

 彼女は一度深呼吸し、木製の引き戸に手をかけた。

 骨が軋むような寒さだ。もう冬も本番である。


「…………」


 歩く度に白い息がもれた。しん、とした静けさの中、シゲルは歩を進める。

 どこの家も真っ暗だ。時刻は午前弐時を回っている。この時間に起きているのは、不良少年少女に、夜行性の獣たち、たしかに存在する化物、それとシゲルのような変わり者しかいないだろう。


「……ん?」


 目の前をちらつく白いもの。雪だ。

 最近は雪がちらつく日が多くなった。こういう時期は鍋に限る。だが、最近はめっきりあたたかい食事にありつけていない。それもこれも、太宰が急に失踪したせいだ。

 シゲルの眉間にしわが寄る。正直な話、なぜ太宰が何も言わず消えたのかわかっていなかった。鬼無里村で会った太宰と同じ姿をした奴が原因なのか。もしそうなら一言くらい何か言ってくれてもいいだろう。自分にも何か手伝えることがあるかもしれない。

 どれくらいそんなことを考えて歩いていただろうか。設置されているアーク灯の数がぐんと少なくなる通りまで来てしまった。しかし、苛立ち始めていたシゲルは引き返すなんて考えることもせず、ずんずんと暗い道を進んでいく。そんな時、


「ぎゃあぁぁぁぁぁぁ‼」

「ひぃあぁぁぁぁぁぁ‼」


 男性と女性のつんざくような悲鳴が響き渡る。

 急いで声の方へ向かえば、夫婦だと思われる男女が尻を地面についており、その横で屋台が粉々に壊れていた。蕎麦屋だったのだろう、細かく切られたネギやちくわが散乱している。だが、それよりも驚く光景が目の前には広がっていた。

 それは、牛ほどの大きさの獣が男女を喰らうほどの近さで口を開けているというものだった。シゲルも口を開けたまま動けなくなってしまう。


 その獣は狼に似ていた。しかし毛は鼠色で、後ろ足の筋肉が異様に発達している。尾は太く長い。開いた口から覗く犬歯はこれでもかというほどに鋭利で、面長の顎は美しい形である。


 こんな獣は見たことない。寒さの問題ではなく、恐怖によって体温がぐっと下がる。錆びついたように動きの悪い関節を無理やり動かし、肩掛け鞄の中から蛇腹式カメラを取り出す。獣はこちらに気づいているはずだが、興味なしとでも言わんばかりに蕎麦屋の夫婦だけを凝視している。開かれた口からは粘ついた唾液が垂れているが、一向に喰おうとはしない。まるで何かを思案しているかのように見えた。

 カシャリ、と音が鳴る。シゲルのカメラからだ。

 ようやく、ゆっくりと獣がこちらを向く。まるで月のように青白い瞳が、シゲルを捉えた。

 息が、止まる。その目に、感情なんてものは存在していなかった。ただ珍しい音が鳴ったから顔を向けただけ。なのに、蛇に睨まれた蛙のようにシゲルの身体は動かない。生物として圧倒的強者を前にした感覚を、シゲルは生まれて初めて理解した。

 その瞬間、月の色を吸い込むような美しい金糸が目の前に現れる。そしてそれは凄まじい速さで獣との距離を詰めると、何の捻りもなく、その横面を殴り飛ばした。獣が数歩よろめき、呻き声をあげる。


「なっ、はぁ⁉」


 突如としてシゲルの視界に飛び込んできた漆黒の神父服に身を包む金髪の男は、獣に向かって歩を進めていく。その姿は、月光のように優雅で、品があった。己に近づく存在に気づいた獣は後ずさり、ぐっと腰を低くしたかと思えば凄まじい跳躍力で付近の屋根に上った。そして金髪の男を一瞥し、背を向けて去って行く。

 シゲルは思わず瞠目してしまった。この男はあの獣を拳一つで撃退したのか。なんとも人間離れした動きと腕力だ。

 獣か、はたまた男か、顔を青色に染めた蕎麦屋の夫婦は足をもつれさせながら逃げていく。シゲルは小さくなっていく二人の背を眺めた。目の前の男性に吃驚こそしたが恐怖はない。似たような男を、シゲルは知っている。

 声をかけようと口を開くと、


「失礼、お怪我はありませんか? あぁ、カメラを持っているということはライターの方でしょうか。あの『ジェヴォーダンの獣』を前にしても写真を撮ろうとするなどその心意気や良し。素晴らしい、尊敬いたします」


 シゲルが言葉を紡ぐ前に、目の前の男は続けざまに話す。


「ニホン人はすごいです。ライターの方までが獣討伐に参加しているとは思いませんでした。どうでしょう、ボクと一緒にあの獣を――」


 金髪の男がそう言った時、ただ開けていることしかできなかったシゲルの口を背後から現れた何かが塞ぐ。それが手だと気づいたのは、


「そんなこと言ったらこの人は二つ返事でうなずいちまうでしょうが。これ以上危ない橋渡らせるのはご遠慮願いたいですね」


 そんな、聞き慣れた声が鼓膜を震わせたからだ。

 勢いよく見上げれば、想像通りの鼠色の髪が見える。やつれた感じもない。よかった、会っていない間も元気でいたようだ。

 安堵していると、目の前の男性が首を傾げる。


「覚悟さえあれば、みな立派な戦士では?」

「この国にそういう教えはないんです」


 太宰はため息交じりにそう言った。金髪の男はまだ納得していない様子である。


「ルーメンさんは先に帰っててください。あたしはこの人を送ってから合流します」


 このままでは埒が明かないとでも思ったのか、太宰は無理やり話に区切りをつけた。

 いや待て、それは困る。まだ話は終わっていないのだ。このまま帰されたら事件の調査もできないし、太宰にも話が聞けないじゃないか。抗議のため口に添えられた手を剥がそうすると、より一層強い力で押さえつけられた。


「はい、いい子は素直に帰りましょうね」


 太宰が笑顔を浮かべて覗き込んでくる。その顔は普段通りだが、雰囲気の端々に怒りを感じる。

 物理的に声が出せないシゲルは、ただうなずくことしかできなかった。




 軽そうにちらつく雪とは正反対に、二人の間に流れる沈黙は重たい。どんよりとした雲の多い夜空は、シゲルの心境をそっくりそのまま表しているように思えてしまう。太宰は何も話さない。ただ、シゲルの一歩ほど後ろを犬のようについてくるだけだった。

 彼に質問をするためにも今は時間が必要だ。遠回りをするため脇道に足先を向けると、


「本当にそっちですか?」


 と、咎められる。

 比較的忘れてしまう太宰のことだ、きっと道なんてわかっちゃいない。しかし、彼を騙すことはできなかった。そうなると素直に最短の道を進むしかない。そんなことをしていると、すぐ古い二階建ての木造長屋が見えてしまった。

 変わりはなかったか。しっかりご飯は食べているか。風邪などはひいていなかったか。何か手伝えることはないか。奇妙な傷害事件について知っているか。聞きたいことはたくさんあるのに言葉にならない。

 そんなシゲルの様子に気づいたのだろう。太宰は足を止める。


「……で、先生。なんでこんな時間に、あんな所にいたんです?」

「えっ、あ、えっと……」


 まさかあちらから声をかけてくれるとは思っていなかったため、しっかりとした言葉がすぐに出てこない。意味をなさない音だけがこぼれ出た。しかし、太宰はお構いなく言葉を続ける。


「もしかしてまた化物絡みの調査ですか? 相変わらず仕事熱心ですねぇ」


 まるで、シゲルの答えを聞きたくないかのように矢継ぎ早に言う。


「だからって駄目ですよ。ひょこひょこあんな場所に顔出しちゃ」


 いつもと何ら変わらないへらりとした笑みに、今日ばかりは苛立ちを覚える。


「……あそこにいた理由、どうせもうわかってるんでしょ」

「いいえまったく。あぁ、もしかして今流行りの黒い断髪女性だけが狙われる事件の調査ですか? そんなの警察に任せときゃいいものを――」

「――それもあるけど! 太宰の! 無実を! 証明しようと思ったんだよ!」


 あまりにも他人事のように話すその姿を見て思わず言葉を遮ってしまう。脳が沸騰するように熱かった。


「事件の容疑者の特徴知ってる⁉ 鼠色の髪した大柄の男だよ! 太宰なはずはないけど、そんな限定的な特徴じゃ疑われてもおかしくないんだよ! だから、真犯人を見つければ疑いの目も少しは良くなるだろうって思ったの!」


 頭に浮かんだ言葉が体裁を整えられずにそのまま出ていく。


「それにさぁ! いなくなるなら一言くらいなんか言ってよ! こちとら急にいなくなったから心配したんだよ! ご飯が食べれないほどじゃなかったけどさ!」


 別に太宰に助けを乞われたわけではない。だから、


「そりゃ太宰の目からすれば、頼りがい……はないかもしれないけど、もっと頼ってよ。こういう状況に慣れてなくても、手伝えることくらいはあると思うから」


 言葉にしたものが、ただの我が儘であることくらいわかっている。

 シゲルの言葉を聞いた太宰は鼠色の髪を面倒くさそうにかき乱した。そして、


「――帰ってください」


 短く、冷たく、そう言った。

 何を言われたのか理解できず、思わず固まってしまう。


「聞こえませんでした? 帰ってください」


 太宰は笑みを浮かべて繰り返し、木造長屋を指し示す。聞き間違いではない、そうわかった途端に顔が引きつってしまう。


「え、な、なんで……?」

「利用価値がないからです」

「……利用価値? よくわからないけど、価値なら多分あるよ……私は記者だし、その、売れっ子だから影響力ある記事も書けるし、あとは、えっと……」

「先生のことじゃありませんよ」

「……は?」


 太宰の笑みが困ったようなものへと変わる。


「利用価値がないのは、あたしです」

「……何言いたいのかわからないよ」

「頭のいい先生ならもうわかってるはずですよ。言葉通りの意味ですから。まぁ要するに、もうあたしを近くに置いといたところでなんの意味もないってことです」


 いや、やはりわからない。そんな思いが顔に出ていたのだろう、太宰は笑いながら言葉を続けた。


「最近ね、忘れるのが前より早くなってきてるんですよ。いつの間にか意識が飛んだりしてることもあります。……つまり、元人間で今は化物であるこの中途半端な身体がけっこう限界に近いってことです。こうなってくると先生の助手も用心棒もできませんし……ね? もう利用価値がないでしょう?」


 同意を求めてくる太宰に、シゲルは何度も首を振って否定を示す。

 そんなわけない。そんなわけないのだ。


「……利なんてなくていい、なくていいんだよ」

「それは人間同士の話です。あたしには適用されません」

「されるよ……太宰はたしかに化物かもしれないけど、中身は全然そんなことないでしょ。一緒にご飯食べて、色々な所に行って……そうだ、慰労の回を設けるって約束してたよね?」

「すいません、覚えてないんです」

「覚えてなくてもいい、私が全部覚えてるから……だから、」

「先生」

「ごめん、子どもみたいなこと言ってるって自分でもわかってる……でも、」

「あたし、もう満足なんですよ」

「……なにが満足だよ。忘れてるでしょ」

「ええ。でも、悪くなかったと思えるくらいには楽しめました。元々貧乏性なもんで、これ以上は腹下します」

「下せばいいよ」

「ひどいお人だなぁ」


 太宰はけたけた笑って、シゲルから少し距離を取る。


「あぁそうだ。忘れる前にこれ返します」


 そう言われて手に乗せられたのは、シゲルが無くしたと思っていた革製の手帳だった。


「これ……どこで……」

「見世物小屋の中で落としてたんですよ。あたしにとって利用価値があったので、拾っても返さずにいたんです。すいません」


 なぜ今なのか。嫌でもわかってしまう。今まで返さずにいた物をこの瞬間で返すということは、彼には金輪際シゲルに会う予定がないことを意味している。その結論に辿り着いてしまったシゲルは、駄々をこねるように首を振った。

 そんな彼女を見て、太宰は耐え切れないとでもいうようにくしゃりと笑う。


「檻に頭ぶつけて大事な手帳落とすし、足は遅いし、整地されてない地面は満足に歩けないし、最初はなんてどんくさい人だと思ってましたが……化物を前にしても絶対生き残るその悪運は、正直尊敬してましたよ」


 違う。それは、太宰が助けてくれたからだ。「こっくりさん」も、「オスガタ様」も、「鬼の頭」だって、彼がいなければ記事どころではなかった。

 そう伝えたいのに、本当にもう悔いがないとでも言うように微笑む彼を見たら言葉が出ない。ただ、この顔を今すぐ隠してしまいたい衝動に襲われた。こんな優しい顔を見るのは自分だけであればいいと、思ってしまった。


「それじゃあ先生、これでさよならです。化物のことは忘れて、そろそろ普通の記事も書いてくださいね」


 また明日も会えるような軽さでそう言い去って行く。

 手を伸ばしても、追いかけても、触れることすらできない。普段どれだけ自分に合わせてくれていたのか、痛いほどわかった。

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