第8話 厨房隊、初陣
夜明けの鐘が五つ鳴るころ、王都の北門に新しい旗が揚がった。
鍋と匙と麦粒を組み合わせた紋――厨房隊の印だ。
護衛は十、荷駄は六。先頭に騎士サーシャ、殿に衛味院見習いレム。俺は鍋の脇で点呼を取り、モフは荷台の縁に貼りついて震えの具合で車輪の軋みを読む。
「配る匙、各自三本――兵・聖・民。無くしたら、晩飯抜きだぞ」
冗談めかして言えば、列に控える民の代表が苦笑した。
王と教会の折衷で決まった初任務は、空腹の境界周辺の集落へ“等分粥”と塩湯、薬膳を届けること。
名ばかりだった厨房隊は今日から実物になる。道具と手順、そして約束でできた軍だ。
門の影から、白衣がひらりと揺れた。
振り向くと、そこにエリスがいた。
――
「間に合った。……私も行く。王立療院から派遣って名目」
胸に下げられた匙印が陽を弾く。
言葉は簡素、目はまっすぐ。
俺は短く頷き、位置を指で示した。「最後尾の鍋、体調と水の管理を頼む」
エリスが笑う。
その笑いは、三年ぶりの朝の味がした。
◇
王都を発って一日目の昼。
最初の村で“塩”が揉めた。
塩組合連合の私兵が先回りして、濡れ塩を山と積み、善意を名乗って配っている。
袋の底が重く、上は軽い。――水増しの古い手。
「やることが早いな」
サーシャが小声で吐く。
私兵頭目はにやりと笑い、俺の肩越しに鍋を覗いた。
「噂の厨房隊さんよ。塩はもう足りてる。あんたらのスープ、要るかね?」
俺は鍋の蓋を開けず、まず井戸へ向かった。
辿ってきた荷車の跡を見、桶を嗅ぎ、舌で一滴だけ触れる。
――舌にかすかな渋み。鉱毒に似た“乾きの素(もと)”。
古書は手元にないが、頁は体に沈んでいる。
指先が勝手に合図を組んだ。モフが鍋底に薄膜を張る。
「エリス、“滴言(したたりごと)”の祈り、合わせてくれるか」
彼女は頷き、短く口を開いた。
祈りというより、清水に言葉を落とす呼吸――水に記憶を思い出させる。
俺は小鍋に井戸水を少し取り、干した柑子(こうじ)の皮と麦芽をひとつまみ落とし、弱い火で温めた。
言葉が湯気に混じる。
湯面が“さわ、さわ”と揺れ、微かな文字が浮かんだ。
『昨夜/桶に白 粉/塩の山から/ふるい落ちる/喉かわく』
村人たちが息を呑む。
私兵頭目の笑顔がひとつ、剥がれた。
「……水が、しゃべるのかよ」
「味がしゃべっただけだ」
俺は鍋の蓋を開けた。
等分粥を大鍋で煮立たせ、匙印で並ぶ列に渡す。
“先に刃を抜けない”約束がここでも働く。私兵どもは槍を抱えたまま、腹だけがぐうと鳴った。
「お前らも座れ。握る手で食えば、味は灰だぞ」
サーシャが視線で包囲をほどき、レムが聖餅を半分に割って鍋に沈める。
民の干果が落ち、兵の乾パンが割れ、塩湯の白が合図のように一筋流れる。
モフが底で均し、エリスが水を見張る。
匙が回り始める。
私兵頭目にも椀を差し出す。
奴は一瞬ためらい、すする。
喉が、止まった。
嘘は軽い灰味になる。〈等分〉は今日も正しく効いた。
「……すまねえ。濡らせって言われただけで」
頭目は袋の底を自ら切り、濡れ塩を地に晒した。
村人たちの顔から乾いた苛立ちが退く。
俺はエリスの横顔を見て、小さく息をついた。
「助かった」
「私も、助かったよ。……カイ」
その“カイ”に、昔と今が重なって、鍋の湯気がすこし甘くなった。
◇
二つ目の集落は荒れていた。
境界が街道をかすめたのか、家々の間に冷たい霧がのび、畑がしょんぼりと舌を出している。
人影はあるが、誰も火を起こしていない。
火の気のない場所は、言葉が痩せる。
「先に“灯路(ともしみち)”だ」
俺は焚き木より先に鍋を置き、油をほんの一滴、底に垂らす。
モフが油と水の間に入り、細い道を作る。
そこへ麦、そこへ塩。火は小さく、呼吸は深く。
鍋の内側に光が帯を引き、やがて道のように伸びる。
家の奥から小さな足音。
子どもが二人、湯気を嗅ぎつけて現れた。
「こっちだ。――道はここから」
子どもに匙を握らせ、椀を渡す。
彼らが一口食べると、家の中で誰かが泣き、誰かが笑った。
火のない家々に、火の道が通る。
焚き火はあとからでいい。まずは“食える匂い”を通す。
その時だ。
茂みが揺れ、砂を巻き上げて馬群が現れた。
旗は掲げない。布で顔を覆った盗賊めいた連中――いや、砂海連邦の私兵。
塩組合の裏にいると噂の、東の商売国の手だ。
「厨房隊に告ぐ。供給路は今日から“買い上げ”だ。匙印? 通らねえよ」
最前にいる男が、舌打ちまじりに吐き捨てる。
背中の袋から、灰色の粉を取り出した。
風に乗ると喉が刺さる――渇きを呼ぶ「乾骨塩(かんこつじお)」か。
「サーシャ、風上へ。レム、鼻と口を湿らせて回せ」
俺は鍋に手をかざし、低く呼ぶ。
**〈抱擁〉**の火――毒を抱いて味に変える技。
乾骨塩は恐怖を煮詰めた粉だ。ならば、包む。
「――〈抱擁〉」
湯気がいちど重くなり、すぐにやわらぐ。
風上から飛んだ粉は、湯気に触れた途端に“重さ”を得て落ちる。
地に濡れた斑点。毒は怖れをなくし、ただのしょっぱさになった。
連邦の私兵が舌打ちし、馬が前のめりに踏み込む。
等分は彼らの口に入っていない。刃は抜ける。
サーシャが盾で一歩、二歩と受け、厨房隊の兵が鍋の周囲に円を作る。
エリスが手短に祈りを落とし、レムが塩湯を投げて砂を固める。
俺は鍋底にモフを走らせ、**〈春野の寝息〉**を少量、粥の表面に流した。
“緊張をほどく”あの初期の効果だ。
直撃した馬の膝が抜け、前のめりに転んだ。
私兵が砂に叩きつけられ、刃ではなく咳を吐く。
「座れ。座れば、食わせる。座らないなら、砂を食って帰れ」
俺が言って鍋を掲げると、男たちは顔を見合わせ、躊躇が走った。
境界の風が頬をなでる。
空腹の声が“ここは食卓か?”と問いかける。
一人が、腰を落とした。
次の一人が、刀を鞘に戻す。
最後に、先頭の男が吐き捨てるように座った。
「……一口だけだ」
匙が回る。
〈等分〉は一昼夜、刃を鈍くする。
その間に道具を渡し、ルールを渡す。
「これが“匙印”だ。――兵は護り、聖は祈り、民は受け取る。
お前たちが運送で飯を食うなら、“握る手”じゃなく“運ぶ手”で来い。
滞らせないことを誓え。誓えないなら、鍋の匂いは二度と嗅げない」
連邦の男が木匙を睨み、俺を睨み、やがて掌で重さを量る。
彼の喉が上下し、砂を吐くみたいに小さく言った。
「……運ぶ手で来る。儲けは?」
「味の評判で取れ。高値でなく、長さで稼げ。
――“長くおいしい”ほうが、結局は儲かる」
男の目に、商いの計算と、ほんの少しの安堵が灯った。
◇
その夜、境界の縁で小さな合同の炊き出しをした。
村の古い鍋、連邦の軽い鍋、厨房隊の大鍋。
火は三つ、湯気はひとつ。
ミナがモフに合わせて匙を振り、エリスが笑って髪を抑える。
レムが祈りの最後に「いただきます」を足し、サーシャが剣ではなくお玉で列を整えた。
「カイ」
暗がりの端で、エリスが小さく呼んだ。
焚き火の光が頬に揺れて、昔と同じ、でも違う顔。
「《黎光》は解散した。……あなたを追放した後、崩れたの。
私だけ療院に残って、ずっと考えてた。食べさせることと救うこと、どちらも同じ“口”から始まるって」
俺は頷いた。
言葉より先に、鍋が沸いている。
「ありがとう。――明日からも、隣で火を見てくれ」
「うん。……隣に座るから」
短い返事が、塩湯みたいに胸にしみた。
◇
翌朝、王都から伝令。
空腹の境界が、夜のうちにわずかに広がったという。
王都の外縁に薄い霧、井戸に“無の味”。
リウスの署名と、簡潔な指示が添えてある。
『厨房隊は直ちに戻れ。境界は市中に食卓を求めている。
王都中央広場にて、**大合食(おおがっしょく)**を開く。
教会と共同。塩連合、連邦運送も匙印で招集。
――“食べ合う”場を、都のど真ん中に。
配る匙の監査は、私がやる(リウス)』
俺は紙を折り、モフを見た。
モフが小さく鳴いて、光核を灯す。
「いよいよだな。鍋で、都を動かす」
サーシャが頷き、レムが掌の木匙を握り直し、エリスが井戸の蓋を確かめる。
俺たちは荷を締め、鍋の火を落とし、煙の向きを都へ向けた。
鍋は扉、火は鍵、唾液は契約。
そして――匙は道。
道は、都の真ん中まで続いている。
次回:
第9話 大合食(おおがっしょく)—都心、鍋の音
(王都中央で“食べ合う”饗宴を開き、境界の口を内から閉じる。塩連合・連邦・教会・王権・民、すべての匙が一つの鍋で交わる。リウスの過去と決断、そして最後の敵の正体が現れる)
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