第8話 厨房隊、初陣

 夜明けの鐘が五つ鳴るころ、王都の北門に新しい旗が揚がった。

 鍋と匙と麦粒を組み合わせた紋――厨房隊の印だ。

 護衛は十、荷駄は六。先頭に騎士サーシャ、殿に衛味院見習いレム。俺は鍋の脇で点呼を取り、モフは荷台の縁に貼りついて震えの具合で車輪の軋みを読む。


「配る匙、各自三本――兵・聖・民。無くしたら、晩飯抜きだぞ」


 冗談めかして言えば、列に控える民の代表が苦笑した。

 王と教会の折衷で決まった初任務は、空腹の境界周辺の集落へ“等分粥”と塩湯、薬膳を届けること。

 名ばかりだった厨房隊は今日から実物になる。道具と手順、そして約束でできた軍だ。


 門の影から、白衣がひらりと揺れた。

 振り向くと、そこにエリスがいた。

 ――勇者黎光の僧侶、俺を追放する日に「好きよ」と包みを渡してくれた彼女が。


「間に合った。……私も行く。王立療院から派遣って名目」


 胸に下げられた匙印が陽を弾く。

 言葉は簡素、目はまっすぐ。

 俺は短く頷き、位置を指で示した。「最後尾の鍋、体調と水の管理を頼む」


 エリスが笑う。

 その笑いは、三年ぶりの朝の味がした。



 王都を発って一日目の昼。

 最初の村で“塩”が揉めた。

 塩組合連合の私兵が先回りして、濡れ塩を山と積み、善意を名乗って配っている。

 袋の底が重く、上は軽い。――水増しの古い手。


「やることが早いな」


 サーシャが小声で吐く。

 私兵頭目はにやりと笑い、俺の肩越しに鍋を覗いた。


「噂の厨房隊さんよ。塩はもう足りてる。あんたらのスープ、要るかね?」


 俺は鍋の蓋を開けず、まず井戸へ向かった。

 辿ってきた荷車の跡を見、桶を嗅ぎ、舌で一滴だけ触れる。

 ――舌にかすかな渋み。鉱毒に似た“乾きの素(もと)”。


 古書は手元にないが、頁は体に沈んでいる。

 指先が勝手に合図を組んだ。モフが鍋底に薄膜を張る。


「エリス、“滴言(したたりごと)”の祈り、合わせてくれるか」


 彼女は頷き、短く口を開いた。

 祈りというより、清水に言葉を落とす呼吸――水に記憶を思い出させる。


 俺は小鍋に井戸水を少し取り、干した柑子(こうじ)の皮と麦芽をひとつまみ落とし、弱い火で温めた。

 言葉が湯気に混じる。

 湯面が“さわ、さわ”と揺れ、微かな文字が浮かんだ。


『昨夜/桶に白 粉/塩の山から/ふるい落ちる/喉かわく』


 村人たちが息を呑む。

 私兵頭目の笑顔がひとつ、剥がれた。


「……水が、しゃべるのかよ」


「味がしゃべっただけだ」


 俺は鍋の蓋を開けた。

 等分粥を大鍋で煮立たせ、匙印で並ぶ列に渡す。

 “先に刃を抜けない”約束がここでも働く。私兵どもは槍を抱えたまま、腹だけがぐうと鳴った。


「お前らも座れ。握る手で食えば、味は灰だぞ」


 サーシャが視線で包囲をほどき、レムが聖餅を半分に割って鍋に沈める。

 民の干果が落ち、兵の乾パンが割れ、塩湯の白が合図のように一筋流れる。

 モフが底で均し、エリスが水を見張る。


 匙が回り始める。

 私兵頭目にも椀を差し出す。

 奴は一瞬ためらい、すする。

 喉が、止まった。

 嘘は軽い灰味になる。〈等分〉は今日も正しく効いた。


「……すまねえ。濡らせって言われただけで」


 頭目は袋の底を自ら切り、濡れ塩を地に晒した。

 村人たちの顔から乾いた苛立ちが退く。

 俺はエリスの横顔を見て、小さく息をついた。


「助かった」


「私も、助かったよ。……カイ」


 その“カイ”に、昔と今が重なって、鍋の湯気がすこし甘くなった。



 二つ目の集落は荒れていた。

 境界が街道をかすめたのか、家々の間に冷たい霧がのび、畑がしょんぼりと舌を出している。

 人影はあるが、誰も火を起こしていない。

 火の気のない場所は、言葉が痩せる。


「先に“灯路(ともしみち)”だ」


 俺は焚き木より先に鍋を置き、油をほんの一滴、底に垂らす。

 モフが油と水の間に入り、細い道を作る。

 そこへ麦、そこへ塩。火は小さく、呼吸は深く。


 鍋の内側に光が帯を引き、やがて道のように伸びる。

 家の奥から小さな足音。

 子どもが二人、湯気を嗅ぎつけて現れた。


「こっちだ。――道はここから」


 子どもに匙を握らせ、椀を渡す。

 彼らが一口食べると、家の中で誰かが泣き、誰かが笑った。

火のない家々に、火の道が通る。

 焚き火はあとからでいい。まずは“食える匂い”を通す。


 その時だ。

 茂みが揺れ、砂を巻き上げて馬群が現れた。

 旗は掲げない。布で顔を覆った盗賊めいた連中――いや、砂海連邦の私兵。

 塩組合の裏にいると噂の、東の商売国の手だ。


「厨房隊に告ぐ。供給路は今日から“買い上げ”だ。匙印? 通らねえよ」


 最前にいる男が、舌打ちまじりに吐き捨てる。

 背中の袋から、灰色の粉を取り出した。

 風に乗ると喉が刺さる――渇きを呼ぶ「乾骨塩(かんこつじお)」か。


「サーシャ、風上へ。レム、鼻と口を湿らせて回せ」


 俺は鍋に手をかざし、低く呼ぶ。

 **〈抱擁〉**の火――毒を抱いて味に変える技。

 乾骨塩は恐怖を煮詰めた粉だ。ならば、包む。


「――〈抱擁〉」


 湯気がいちど重くなり、すぐにやわらぐ。

 風上から飛んだ粉は、湯気に触れた途端に“重さ”を得て落ちる。

 地に濡れた斑点。毒は怖れをなくし、ただのしょっぱさになった。


 連邦の私兵が舌打ちし、馬が前のめりに踏み込む。

 等分は彼らの口に入っていない。刃は抜ける。


 サーシャが盾で一歩、二歩と受け、厨房隊の兵が鍋の周囲に円を作る。

 エリスが手短に祈りを落とし、レムが塩湯を投げて砂を固める。

 俺は鍋底にモフを走らせ、**〈春野の寝息〉**を少量、粥の表面に流した。

 “緊張をほどく”あの初期の効果だ。

 直撃した馬の膝が抜け、前のめりに転んだ。

 私兵が砂に叩きつけられ、刃ではなく咳を吐く。


「座れ。座れば、食わせる。座らないなら、砂を食って帰れ」


 俺が言って鍋を掲げると、男たちは顔を見合わせ、躊躇が走った。

 境界の風が頬をなでる。

 空腹の声が“ここは食卓か?”と問いかける。


 一人が、腰を落とした。

 次の一人が、刀を鞘に戻す。

 最後に、先頭の男が吐き捨てるように座った。


「……一口だけだ」


 匙が回る。

 〈等分〉は一昼夜、刃を鈍くする。

 その間に道具を渡し、ルールを渡す。


「これが“匙印”だ。――兵は護り、聖は祈り、民は受け取る。

 お前たちが運送で飯を食うなら、“握る手”じゃなく“運ぶ手”で来い。

 滞らせないことを誓え。誓えないなら、鍋の匂いは二度と嗅げない」


 連邦の男が木匙を睨み、俺を睨み、やがて掌で重さを量る。

 彼の喉が上下し、砂を吐くみたいに小さく言った。


「……運ぶ手で来る。儲けは?」


「味の評判で取れ。高値でなく、長さで稼げ。

 ――“長くおいしい”ほうが、結局は儲かる」


 男の目に、商いの計算と、ほんの少しの安堵が灯った。



 その夜、境界の縁で小さな合同の炊き出しをした。

 村の古い鍋、連邦の軽い鍋、厨房隊の大鍋。

 火は三つ、湯気はひとつ。

 ミナがモフに合わせて匙を振り、エリスが笑って髪を抑える。

 レムが祈りの最後に「いただきます」を足し、サーシャが剣ではなくお玉で列を整えた。


「カイ」


 暗がりの端で、エリスが小さく呼んだ。

 焚き火の光が頬に揺れて、昔と同じ、でも違う顔。


「《黎光》は解散した。……あなたを追放した後、崩れたの。

 私だけ療院に残って、ずっと考えてた。食べさせることと救うこと、どちらも同じ“口”から始まるって」


 俺は頷いた。

 言葉より先に、鍋が沸いている。


「ありがとう。――明日からも、隣で火を見てくれ」


「うん。……隣に座るから」


 短い返事が、塩湯みたいに胸にしみた。



 翌朝、王都から伝令。

 空腹の境界が、夜のうちにわずかに広がったという。

 王都の外縁に薄い霧、井戸に“無の味”。

 リウスの署名と、簡潔な指示が添えてある。


『厨房隊は直ちに戻れ。境界は市中に食卓を求めている。

 王都中央広場にて、**大合食(おおがっしょく)**を開く。

 教会と共同。塩連合、連邦運送も匙印で招集。

 ――“食べ合う”場を、都のど真ん中に。

 配る匙の監査は、私がやる(リウス)』


 俺は紙を折り、モフを見た。

 モフが小さく鳴いて、光核を灯す。


「いよいよだな。鍋で、都を動かす」


 サーシャが頷き、レムが掌の木匙を握り直し、エリスが井戸の蓋を確かめる。

 俺たちは荷を締め、鍋の火を落とし、煙の向きを都へ向けた。


 鍋は扉、火は鍵、唾液は契約。

 そして――匙は道。

 道は、都の真ん中まで続いている。


次回:

第9話 大合食(おおがっしょく)—都心、鍋の音

(王都中央で“食べ合う”饗宴を開き、境界の口を内から閉じる。塩連合・連邦・教会・王権・民、すべての匙が一つの鍋で交わる。リウスの過去と決断、そして最後の敵の正体が現れる)

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