第6話 饗宴の果て、世界が口を開く
神饌の朝が明けると同時に、王都はざわめきで満ちた。
市場は“祝福スープ”の屋台で溢れ、客は列を作り、商人は祈りと値札を同じ声量で叫んだ。
教会は通達を出した。「神饌は聖堂でのみ供えよ。複製・模倣を禁ず」。
王宮は勅令を返した。「神饌は王国の民に供する。価格は王家が統制する」。
――火は、いつだって権力を呼ぶ。
俺は城の厨房で、大鍋の火加減を見ていた。モフは鍋縁をくるりと回って、表面張力で薄い膜をつくる。膜の震えが、火の揺れと同調しているのが見える。
「加減、少し強いな。――モフ、ふた呼吸だけ抑えてくれ」
モフが“こくり”と揺れた瞬間だった。
「料理長カイ、至急、玉座の間へ」
従者が駆け込んできた。顔が蒼い。
「教会代表と陛下が――“神饌の管理権”で衝突しています!」
◇
玉座の間は冬の曇天みたいに重かった。
王は険しい目で教皇代理の老司祭を見据え、左右で官僚と武官が睨み合う。参事官リウスは列の端で目を細め、口角だけで笑っていた。
「神饌は聖別された供物。俗世の市場に流せば、祈りは腐る」
老司祭の声は石を擦るように低い。
「民は腹を空かせる。祈りで満ちる腹など、わしは見たことがない」
王は短く返し、俺に顎をしゃくった。
「カイ、言え。神饌は誰のものだ」
視線が集まった。
俺は一歩進み出る。
答えは、ずっと前から鍋の底に沈んでいた。
「――食卓に座る者のものです」
ざわめきが走った。
「神にも王にも独占はできません。作る者と食べる者、その間にだけ契約が生まれる。鍋は扉、火は鍵、唾液は契約。約束は、口の中でしか結べない」
老司祭の眉がぴくりと動いた。
王は、笑わなかった。ただ少し、目の色が和らいだ。
「よろしい。ならば、そなたが両者の“配膳役”となれ」
王は剣の柄を軽く叩いた。
「聖と俗、双方に供す食の順路を設け、私兵でも聖兵でもない“厨房隊”を編成せよ。護衛も輸送も味見も、すべて料理人の規律で運用する」
老司祭は反発しかけ、ふっと肩の力を抜いた。
「……神の台所番に俗務を背負わせるか。悪くはない。ならば教会は“衛味院(えいみいん)”を設け、毒味と祈りの教育を担おう」
言葉が落ち着く前に、空が鳴った。
天井の高窓から、光の粉がぽつぽつと降り始める。
粉は床に落ちる前に蒸気になり、花のような香りを残す。
モフが俺の肩に跳び移った。
体内の光核が明滅し、ひゅ、と音を立てる。
――世界のどこかで、鍋が沸いた。そんな気配がした。
「……呼ばれている」
思わず口にすると、老司祭がこちらを向いた。
「感じるか、料理人。白の丘のさらに北、“空腹の境界(ボーダー)”が開く兆しだ」
リウスが一歩前に出る。
「境界遠征の許可を。王の名において、神饌とその秘法を掌握すべきです」
あからさまな“掌握”の二字。
王の目が細くなる。
俺は先んじて膝をつき、言った。
「陛下、教会。遠征は――俺が先に行きます。厨房隊はまだ影も形もない。掌握の旗ではなく、鍋と匙で行くべきです」
数拍の沈黙。
王は笑い、老司祭は苦笑した。
「よかろう。護衛に小隊をつける」
「祈りの携行を許す。だが順路の主は、お前だ、料理人」
リウスだけが笑わなかった。
◇
北へ。
王都を出て三日、畑の緑は低くなり、空の色は薄くなった。
風は乾き、舌に砂の味がする。
同行の護衛は寡黙な女騎士サーシャと、衛味院見習いの少年レム。
鍋と焚き具と食材、祈祷書。列の真ん中で、モフが小さく揺れている。
昼、火を起こす。
水は少ない。麦は強情。
それでも、鍋の中で最初の泡がぽつと上がると、人は必ず顔を上げる。
いくつかの村で、無言の人々が近づき、湯気を見て涙をこぼした。
ひび割れた大地から、何かが“食べ物のほうへ”戻ってくる。料理は、帰り道を知っている。
夕暮れ、地平に淡い白が立っていた。
たなびく霧の壁――空腹の境界。
霧は甘い匂いと苦い匂いを交互に運ぶ。
近づくほど、胃がきしむ。
レムが額に汗を浮かべ、サーシャが柄に手をかける。
「怖れるな。まずは味をつけよう」
古書は持ち出せない。しかし、頁は体内に写っていた。
俺は霧の前に鍋を置き、火を起こさず、風だけを招いた。
モフが鍋底に薄く広がり、静かな波紋をつくる。
霧が鍋に触れ、冷たい露が落ちる。
「……塩を、ひとつまみ」
霧の味は“何もない味”だ。
ひとつまみの塩で「ある」を呼び戻す。
次に、干した果実の欠片を。
糖の記憶は、人を過去へつなぐ。
鍋の縁で、小さな音がした。
モフの光核が強く灯る。
湯気のない鍋から、確かに湯気が立った。
『――よくぞ、匙を持って来た』
声が、した。
鍋の底から。
風でも水でもない、温度の声。
サーシャの剣が半ば抜かれ、レムが祈りの文句を忘れて口をぱくぱくする。
俺は静かに匙を持ち上げた。
「遅くなりました。ここが“空腹の境界”ですか」
『境界は、食べられないものと食べられるものの間(はざま)。
飢えた世界の、くちびるだ。』
霧が微かに笑った。
笑い声は、空腹の子の寝息に似ていた。
『わたしは“食むもの”。
人は神と呼ぶ。
お前たちの鍋と火を、ずっと見ていた。』
モフが俺の肩から跳び、鍋へ降りる。
その体が、言葉を持った。
「……おお、しゃべった」レムが目をむく。
モフの声は、湯気の向こうから響いた。
『主(あるじ)。境界は、約束を欲している。
“食べさせる”ではなく、“食べ合う”契約。』
老司祭の言葉が遠くで反響する。「神は言葉ではなく、味で答えた」。
ならば、こちらも味で差し出すしかない。
「わかった。――境界さん、食べましょう。こちらから先に」
俺は鍋の露に匙を浸し、舌に乗せた。
――何もない。だが、何もないことが、はっきりとした味だった。
孤独、欠落、待ちわびた時間。空腹のすべてが舌に触れ、喉を通り、胸の奥で音になった。
レムが震えながら一口、サーシャも無言で続いた。
境界が、揺れた。
『……お前たちは、まず“無”を受け入れた。
ならば、今度はわたしの番だ』
霧が鍋に口づける。
白い指が湯気を撫で、冷たい露が熱に変わる。
鍋の中で、麦がふくれ、果実がやわらぎ、塩が光った。
境界が、食べた。
世界が、ひと匙“こちら側”に来た。
◇
夜、霧は低くなり、星が近づいた。
境界の向こうから、影がいくつも現れる。
骨みたいに痩せた人々。
目は空洞に近いが、鍋の前でだけ、色が戻る。
「さあ、座って。――ここは、誰のでもない食卓です」
言葉より早く、椀が手を求める。
匙の音が合唱になり、火の光が頬を赤くする。
レムは祈りを噛み締め、サーシャは剣を置いて鍋を支えた。
モフは一巡ごとに味を均す。
ひとりの少女が、椀を抱いたまま俺を見上げた。
空っぽの瞳の奥に、初めての光が生まれる瞬間。
俺はその火を見逃さない。
「……名前は?」
「ミナ」
「ミナ、もう一杯いけるか」
こくん、と頷く。
匙が、約束の形をしていた。
◇
明け方、霧は細い糸のようになって、風に溶けた。
境界の声が最後に囁く。
『よく煮えた。
人は人を食わせ、世界は人を食わせる。
――支配しに来る者には、味を与えないがよい。
“食べ合う者”にだけ、扉を開け。』
風が止む。
空腹の境界は、静かに口を閉じた。
サーシャが剣を収め、レムが目を拭った。
「カイさん……今のは、本当に神……?」
「さあな。ただの“大いなる食いしん坊”かもしれない」
笑い合ったところで、遠くに砂煙が上がった。
槍の影、旗の群れ。王国の紋章と、教会の十字。
――早い。両方とも、掌握に来た。
先頭に馬を駆るのは、参事官リウス。
彼の顔に、食欲のない笑みが貼り付いている。
「料理人カイ、神饌の秘法と供給路、すべて王国が接収する。教会と協定済みだ。抵抗すれば――」
言葉の先に、熱い湯気を差し出した。
俺は鍋の前に立ち、静かに言う。
「ここは食卓だ。座るなら、座れ。武器を手にしたままなら、味は出ない」
どよめき。
民の列の中から、ミナが一歩前へ出る。
小さな手で椀を掲げた。
「おじさんのごはん、あったかい。こわい手は、冷たいから嫌」
風が言葉を運ぶ。
騎兵の列に、わずかな躊躇。
リウスの頬が引きつる。
「感傷だ。食で国は回らぬ」
そのとき、モフが俺の肩で声を発した。
今度ははっきりと、人の言葉で。
『――回るのは国じゃない。“口”だ。
口が回れば、言葉が回る。
言葉が回れば、世界が回る。』
静寂。
視線が集まり、鍋の湯気が白く立つ。
俺は匙を掲げ、リウスに向けて差し出した。
「参事官。まずは一口。あなたと私の契約を、口の中で結ぼう」
リウスの目が、真っ直ぐ俺を刺す。
しばしの膠着。
遠くで、夜明けの鳥が鳴いた。
彼は、わずかに身を乗り出した。
――取るか、退くか。
世界が、熱い息をのむ。
(鍋は扉、火は鍵、唾液は契約)
俺は匙を構えたまま、次の泡を待った。
食卓の上で、歴史が沸こうとしていた。
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