第6話 饗宴の果て、世界が口を開く

 神饌の朝が明けると同時に、王都はざわめきで満ちた。

 市場は“祝福スープ”の屋台で溢れ、客は列を作り、商人は祈りと値札を同じ声量で叫んだ。

 教会は通達を出した。「神饌は聖堂でのみ供えよ。複製・模倣を禁ず」。

 王宮は勅令を返した。「神饌は王国の民に供する。価格は王家が統制する」。

 ――火は、いつだって権力を呼ぶ。


 俺は城の厨房で、大鍋の火加減を見ていた。モフは鍋縁をくるりと回って、表面張力で薄い膜をつくる。膜の震えが、火の揺れと同調しているのが見える。


「加減、少し強いな。――モフ、ふた呼吸だけ抑えてくれ」


 モフが“こくり”と揺れた瞬間だった。


「料理長カイ、至急、玉座の間へ」

 従者が駆け込んできた。顔が蒼い。

「教会代表と陛下が――“神饌の管理権”で衝突しています!」



 玉座の間は冬の曇天みたいに重かった。

 王は険しい目で教皇代理の老司祭を見据え、左右で官僚と武官が睨み合う。参事官リウスは列の端で目を細め、口角だけで笑っていた。


「神饌は聖別された供物。俗世の市場に流せば、祈りは腐る」

 老司祭の声は石を擦るように低い。

「民は腹を空かせる。祈りで満ちる腹など、わしは見たことがない」

 王は短く返し、俺に顎をしゃくった。

「カイ、言え。神饌は誰のものだ」


 視線が集まった。

 俺は一歩進み出る。

 答えは、ずっと前から鍋の底に沈んでいた。


「――食卓に座る者のものです」

 ざわめきが走った。

「神にも王にも独占はできません。作る者と食べる者、その間にだけ契約が生まれる。鍋は扉、火は鍵、唾液は契約。約束は、口の中でしか結べない」


 老司祭の眉がぴくりと動いた。

 王は、笑わなかった。ただ少し、目の色が和らいだ。


「よろしい。ならば、そなたが両者の“配膳役”となれ」

 王は剣の柄を軽く叩いた。

「聖と俗、双方に供す食の順路を設け、私兵でも聖兵でもない“厨房隊”を編成せよ。護衛も輸送も味見も、すべて料理人の規律で運用する」


 老司祭は反発しかけ、ふっと肩の力を抜いた。

「……神の台所番に俗務を背負わせるか。悪くはない。ならば教会は“衛味院(えいみいん)”を設け、毒味と祈りの教育を担おう」


 言葉が落ち着く前に、空が鳴った。

 天井の高窓から、光の粉がぽつぽつと降り始める。

 粉は床に落ちる前に蒸気になり、花のような香りを残す。


 モフが俺の肩に跳び移った。

 体内の光核が明滅し、ひゅ、と音を立てる。

 ――世界のどこかで、鍋が沸いた。そんな気配がした。


「……呼ばれている」

 思わず口にすると、老司祭がこちらを向いた。

「感じるか、料理人。白の丘のさらに北、“空腹の境界(ボーダー)”が開く兆しだ」


 リウスが一歩前に出る。

「境界遠征の許可を。王の名において、神饌とその秘法を掌握すべきです」


 あからさまな“掌握”の二字。

 王の目が細くなる。

 俺は先んじて膝をつき、言った。


「陛下、教会。遠征は――俺が先に行きます。厨房隊はまだ影も形もない。掌握の旗ではなく、鍋と匙で行くべきです」


 数拍の沈黙。

 王は笑い、老司祭は苦笑した。


「よかろう。護衛に小隊をつける」

「祈りの携行を許す。だが順路の主は、お前だ、料理人」


 リウスだけが笑わなかった。



 北へ。

 王都を出て三日、畑の緑は低くなり、空の色は薄くなった。

 風は乾き、舌に砂の味がする。

 同行の護衛は寡黙な女騎士サーシャと、衛味院見習いの少年レム。

 鍋と焚き具と食材、祈祷書。列の真ん中で、モフが小さく揺れている。


 昼、火を起こす。

 水は少ない。麦は強情。

 それでも、鍋の中で最初の泡がぽつと上がると、人は必ず顔を上げる。

 いくつかの村で、無言の人々が近づき、湯気を見て涙をこぼした。

 ひび割れた大地から、何かが“食べ物のほうへ”戻ってくる。料理は、帰り道を知っている。


 夕暮れ、地平に淡い白が立っていた。

 たなびく霧の壁――空腹の境界。


 霧は甘い匂いと苦い匂いを交互に運ぶ。

 近づくほど、胃がきしむ。

 レムが額に汗を浮かべ、サーシャが柄に手をかける。


「怖れるな。まずは味をつけよう」


 古書は持ち出せない。しかし、頁は体内に写っていた。

 俺は霧の前に鍋を置き、火を起こさず、風だけを招いた。

 モフが鍋底に薄く広がり、静かな波紋をつくる。

 霧が鍋に触れ、冷たい露が落ちる。


「……塩を、ひとつまみ」


 霧の味は“何もない味”だ。

 ひとつまみの塩で「ある」を呼び戻す。

 次に、干した果実の欠片を。

 糖の記憶は、人を過去へつなぐ。


 鍋の縁で、小さな音がした。

 モフの光核が強く灯る。

 湯気のない鍋から、確かに湯気が立った。


『――よくぞ、匙を持って来た』


 声が、した。

 鍋の底から。

 風でも水でもない、温度の声。


 サーシャの剣が半ば抜かれ、レムが祈りの文句を忘れて口をぱくぱくする。

 俺は静かに匙を持ち上げた。


「遅くなりました。ここが“空腹の境界”ですか」


『境界は、食べられないものと食べられるものの間(はざま)。

 飢えた世界の、くちびるだ。』


 霧が微かに笑った。

 笑い声は、空腹の子の寝息に似ていた。


『わたしは“食むもの”。

 人は神と呼ぶ。

 お前たちの鍋と火を、ずっと見ていた。』


 モフが俺の肩から跳び、鍋へ降りる。

 その体が、言葉を持った。


「……おお、しゃべった」レムが目をむく。

 モフの声は、湯気の向こうから響いた。


『主(あるじ)。境界は、約束を欲している。

 “食べさせる”ではなく、“食べ合う”契約。』


 老司祭の言葉が遠くで反響する。「神は言葉ではなく、味で答えた」。

 ならば、こちらも味で差し出すしかない。


「わかった。――境界さん、食べましょう。こちらから先に」


 俺は鍋の露に匙を浸し、舌に乗せた。

 ――何もない。だが、何もないことが、はっきりとした味だった。

 孤独、欠落、待ちわびた時間。空腹のすべてが舌に触れ、喉を通り、胸の奥で音になった。


 レムが震えながら一口、サーシャも無言で続いた。

 境界が、揺れた。


『……お前たちは、まず“無”を受け入れた。

 ならば、今度はわたしの番だ』


 霧が鍋に口づける。

 白い指が湯気を撫で、冷たい露が熱に変わる。

 鍋の中で、麦がふくれ、果実がやわらぎ、塩が光った。


 境界が、食べた。

 世界が、ひと匙“こちら側”に来た。



 夜、霧は低くなり、星が近づいた。

 境界の向こうから、影がいくつも現れる。

 骨みたいに痩せた人々。

 目は空洞に近いが、鍋の前でだけ、色が戻る。


「さあ、座って。――ここは、誰のでもない食卓です」


 言葉より早く、椀が手を求める。

 匙の音が合唱になり、火の光が頬を赤くする。

 レムは祈りを噛み締め、サーシャは剣を置いて鍋を支えた。

 モフは一巡ごとに味を均す。


 ひとりの少女が、椀を抱いたまま俺を見上げた。

 空っぽの瞳の奥に、初めての光が生まれる瞬間。

 俺はその火を見逃さない。


「……名前は?」

「ミナ」

「ミナ、もう一杯いけるか」

 こくん、と頷く。

 匙が、約束の形をしていた。



 明け方、霧は細い糸のようになって、風に溶けた。

 境界の声が最後に囁く。


『よく煮えた。

 人は人を食わせ、世界は人を食わせる。

 ――支配しに来る者には、味を与えないがよい。

 “食べ合う者”にだけ、扉を開け。』


 風が止む。

 空腹の境界は、静かに口を閉じた。


 サーシャが剣を収め、レムが目を拭った。

「カイさん……今のは、本当に神……?」

「さあな。ただの“大いなる食いしん坊”かもしれない」


 笑い合ったところで、遠くに砂煙が上がった。

 槍の影、旗の群れ。王国の紋章と、教会の十字。

 ――早い。両方とも、掌握に来た。


 先頭に馬を駆るのは、参事官リウス。

 彼の顔に、食欲のない笑みが貼り付いている。


「料理人カイ、神饌の秘法と供給路、すべて王国が接収する。教会と協定済みだ。抵抗すれば――」


 言葉の先に、熱い湯気を差し出した。

 俺は鍋の前に立ち、静かに言う。


「ここは食卓だ。座るなら、座れ。武器を手にしたままなら、味は出ない」


 どよめき。

 民の列の中から、ミナが一歩前へ出る。

 小さな手で椀を掲げた。


「おじさんのごはん、あったかい。こわい手は、冷たいから嫌」


 風が言葉を運ぶ。

 騎兵の列に、わずかな躊躇。

 リウスの頬が引きつる。


「感傷だ。食で国は回らぬ」


 そのとき、モフが俺の肩で声を発した。

 今度ははっきりと、人の言葉で。


『――回るのは国じゃない。“口”だ。

 口が回れば、言葉が回る。

 言葉が回れば、世界が回る。』


 静寂。

 視線が集まり、鍋の湯気が白く立つ。

 俺は匙を掲げ、リウスに向けて差し出した。


「参事官。まずは一口。あなたと私の契約を、口の中で結ぼう」


 リウスの目が、真っ直ぐ俺を刺す。

 しばしの膠着。

 遠くで、夜明けの鳥が鳴いた。


 彼は、わずかに身を乗り出した。

 ――取るか、退くか。

 世界が、熱い息をのむ。


(鍋は扉、火は鍵、唾液は契約)

 俺は匙を構えたまま、次の泡を待った。


 食卓の上で、歴史が沸こうとしていた。

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