第3話 ランデヴー未満
人から話しかけられた回数と、自分から話しかけた回数を、数えては足し算をしたり引き算をしたりしている。俺はそんな子供だった。その癖は今でも健在で、メールの受信件数と送信件数をいつも気にしている。
そんな俺にとって、休日誰かに誘われて出かけるなんて(しかも女の子に)、大事件だった。
日曜。巨大なターミナル駅の金時計前。
約束の時間より随分早く着いてしまった俺は、完全に手持ち無沙汰だった。椋から借りたジャケットは、自分のものより少しだけ肩が凝る。
昨日の夜、クローゼットの前で頭を抱える俺を見かねて、椋はため息混じりに言ったのだ。
『は?デート?樹が?…まあ、マシな服貸してやるよ』
乱暴に放り投げられたそれは、確かに俺の持っているどんな服よりも、都会の街に馴染んでいた。借り物の服に、借り物の自信。椋だったら。きっとそつなく女の子をエスコート出来てしまうんだろうな。
……なんで、来ちゃったんだろう。今すぐこの服を叩きつけて逃げ出してしまおうか。
「樹くん」
藤川さんだった。
シンプルなワンピースを着て現れた彼女は、品があって流石はピアノの神童といった佇まいだ。可愛かった。
「…こんにちは。藤川さん」
「ねえ、今日デートだよ。藤川さんってやめてよ」
「え」
「ほら呼んでみて。かーなーちゃん」
……勘弁してくれ。
「とりあえず、なんか見にいきましょ。ね。CDとか」
「……」
話題を逸らしたが、彼女はこちらをじっと見つめたまま動かない。深いため息をついて、降参したように俺は言った。
「…
「悪くないね」
奏さんはにっこりと笑って俺の手を取った。
何。この我儘高級猫みたいな人。
エスカレーターを上りながら、繋がれた手にどう反応していいか分からなかった。奏さんの手は、すらりと細くて思ったよりも小さい。ロックを聴いている時より、よっぽど今の自分の心臓の方がうるさかった。
8階のCDショップに足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。流行りのアイドルソングと、客たちのざわめき。
「わあ…迷子になりそう」
奏さんが店内をきょろきょろと見回している。俺は少しだけ得意な気分になって、ロックのコーナーへと彼女を導いた。
「俺がいつも来るのはこの辺です」
「あ、これ。この前の」
――覚えていてくれたんだ。
奏さんは「かっこいいよね」と言って、『quake』のアルバムをそっと手に取った。俺がいつもヘッドホンで聴いている世界が、今、彼女の指先にある。なんだか自分の心の中を覗かれているみたいで、ひどく落ち着かなかった。
「ねえ。次、こっち行ってみていい?」
奏さんはそう言うと、俺の手を引いてフロアの反対側へと歩き出した。俺たちは、側から見たらカップルに見えただろうか。連れて行かれたのは、静まり返ったクラシックのコーナーだった。さっきまでの喧騒が嘘のようだ。
彼女は一枚のCDを抜き取ると、俺に見せてくれた。淡い色彩で描かれた風景画のジャケット。俺が拾った、あの楽譜と同じ曲名が書かれていた。
いつの間にか緊張はほぐれ、他愛のない話で笑い合ったりして。ちょっと楽しいとか思っている自分がいて。それだけでよかった。十分だった。
…それだけで、良かったのに。
歩き疲れた俺たちはカフェを探したが、日曜の夕暮れ時はどこも混み合っていた。
「…テイクアウトしてくるので待っててください。奏さん何飲みます?あれ?」
期間限定のドリンクのイラストが描かれた看板を指さす。ホイップクリームがもりもりと乗っていて、店内の若者は大抵それを注文しているようだった。
「甘いのは…ううん、なんでもない。それにする」
「?…わかりました」
俺たちはテイクアウトしたドリンクを持って、同じビルの展望フロアに移動した。
「甘…これ。樹くんのやつブラック?一口頂戴。ほんとごめん」
「交換します?」
「…お願い」
やっぱり甘いの苦手なんじゃないか。
「…樹くんはさ、進路どうするの?」
奏さんの突然の問いに言葉が詰まる。
「俺は…どうするんでしょうね。わかんないです、何にも。椋みたいに頭も良くないし」
「りょう?」
「あ…俺双子の弟がいるんです」
「初耳だね」
誰かに聞いて欲しかったのかもしれない。
「椋は器用で頭も良くて、何でもできるんです。友達も多くて。俺は…引き立て役。たまに間違われると辛くて、だから髪も染めて」
奏さんは前を向いたままコーヒーを啜っている。
「…同じ日に生まれて同じ日スピードで大きくなったのに、俺には色んなものが足りなくて、本当は母親のお腹の中で消えるはずだったのかなあとか、真剣に考えたりして」
「椋は10ヶ月で歩いたのに、樹は1年半もかかったって。親戚集まると必ず言われるんです…笑っちゃうでしょ」
「…はは、個体差でしょ」
奏さんははじめて口を開いた。
「俺はいつでも椋のおまけだったから、椋が羨ましかった。だから高校入ってできた友達が、『樹は樹だ』って言ってくれた時は本当に嬉しくて」
「ああ俺もやっと、って。そいつとはずっと仲良くできるとさえ思った。…でもやっぱり俺には、色んなものが足りなすぎたみたいで…うまく、いきませんでした」
「…いつになったって、どこに行ったって、俺は椋にはなれない」
そこまで話して、我に帰った。何やってんだ俺。奏さん、絶対困ってる。
「…すみません。いきなり愚痴られても困りますよね」
忘れてください。そう言いかけたけど、どうしてだろう。言葉に詰まってしまった。
奏さんは何も言わなかった。
ゆっくりとコーヒーに口をつけては、窓の外の夕暮れを見つめている。その横顔は今まで見たどの表情とも違って、ひどく冷たく見えた。
そして、俺の方を見ないままぽつりと呟いた。
「樹くん。わたしね、」
「もうすぐ消えるの」
今、なんて。
「不治の病なんだって」
「そんな…」
「…なんてね、嘘」
今、なんて。
「そのくらいこの世の終わりって顔してたよ。人間関係なんて、気の持ちようで何とかなるって。頑張んなよ」
「…からかってるんですか」
あ、だめだ。
「…わかんないんですよ」
止まらない。
「奏さんみたいに才能あって。将来も約束されてて。みんなから期待されてるような人にはわかんないんですよ!」
「…そうだね。わからないのかも」
「…もう、帰ります」
逃げるようにその場を後にした。
吐き出したら、掬い上げてくれるかもしれない。そう願ってしまった。
馬鹿か俺は。いい加減わかれよ。
信じたものはあっけなく崩れて。いつだって置いていかれるのは俺の方で。このままじゃひびの入った心が完全に壊れてしまうからと、耳を塞いできたじゃないか。
するのは好きな音楽の話。踏み込んだ話はしない。それでよかった。十分だった。
叶わないのにどうして望んだんだ。
――それ以上の友好を。
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