ピアノフォルテ
カナサキイオ
第1話 夢
ヘッドホンで耳を塞ぐ。けたたましいギターの音が、心臓よりも激しく打つドラムの音が、教室のざわめきも、自分の足音さえも塗りつぶしていく。それでいい。俺は何も聞きたくなかった。
「…あ」
忘れ物した。
舌打ちしながら引き返した夜の校舎は、昼間とは全く違う顔をしていた。ヘッドホンをそっと外してみると、嘘みたいに静かで気味が悪い。さっさと帰ろう。足早に廊下へと出た、その時だった。
――ピアノの音。
導かれるように音楽室の前へ来た。こんな時間に、誰が弾いているんだろう。扉を少しだけ開けてみる。中にいたのは見慣れない女子生徒だった。赤のリボンってことは音楽科の生徒か。でも、どうして普通科の校舎に。ピアノなら音楽科にもっといいやつがあるはずだ。
きらきらとした音の粒がぴたりと止まった。しまった。気づかれた。焦って立ち去ろうとする俺を、彼女が呼び止めた。
「ま…待って!言わないで」
「え…」
「誰かに言うつもりなんでしょ。音楽科の生徒が普通科の校舎に無断で出入りしてるって」
「いや、俺はたまたま通りかかっただけで、そんなつもりは…」
そもそも許可とか要ったのか。しどろもどろになる言葉を、彼女はぴしゃりと遮った。
「そう。絶対言わないって約束して」
「え?あ、ハイ」
「…ありがとう。呼び止めてごめんなさい」
彼女はそう言うと、静かに音楽室を出ていった。
はらり。
一枚の楽譜が、床に枯れ葉が落ちるかのように音もなく着地する。
「あ、ちょっと待って!これ…」
落としましたけど。そう言いかけた時には、彼女の姿はどこにもなかった。
ひらりと一枚だけ床に残された楽譜を、そっと拾い上げる。隅に書かれたミミズが這ったようなサインは読めなかった。どこか外国の、作曲者の名前だと思う。そして余白の中央に印刷された、たった一文字。
「――《夢》?」
呟いた言葉が誰もいない廊下に吸い込まれていく。あのピアノは、まるで夢の中にいるような不思議な音色だった。
「ただいまー」
玄関の靴が多い。
「あ、こんばんは」「お邪魔してます」
「椋の友達?」
「はい。いつも勉強教えてもらってて」
「そうなんだ。ゆっくりしていって。てか、敬語いいよ。タメでしょ?」
「ありがとうございまーす」「ジュースもらいまーす」
俺たちは双子だ。
弟の椋は県で有数の進学校に通っている。出来がよく友人も多い。
リビングを後にし、自室へ向かう階段の途中で、ひそひそと話す声が聞こえる。
「…え、あれが噂の
「すげー金髪。いいなあ校則緩くてさー」
「初めて見たお前の片割れ。ほんとに双子?雰囲気全然ちがうじゃん」
「あの制服って森野学園?」「森野ってあの有名な?」
「何言ってんの」
自分とよく似た声だ。
「有名なのは音楽科だよ。普通科なんてFランしか行けないよ」
…椋のやつ。全部聞こえてるんだよ。馬鹿。
疲れた体をベッドに沈めた。
俺たちは双子だ。出来の良い弟と出来損ないの兄。これまでも、これからも。
わかってるんだ。勝ち目なんて最初からないこと。
◆
玄関のドアを開けても、「ただいま」とは言わない。家に誰もいないのはいつものことだからだ。防犯的には、誰もいなくても言ったほうがいいのだったか。がらんとしたリビングを一瞥すると、明かりもつけず自室へ向かう。
その時。リビングの電話が、静寂を引き裂くように鳴り響いた。
――お母さんだ。
心臓が小さく跳ねる。三回目のコールで、恐る恐る受話器を取った。
「…もしもし?」
『ああ、
「ごめん、電車だった。ちょうど今、帰ってきたところ」
『そう。練習はちゃんとしてるんでしょうね』
言葉が詰まる。受話器を握る手に、じわりと汗が滲んだ。
「…してるよ、ちゃんと」
嘘をつくのは得意になった。自分の指に裏切られ始めてから、もうずっと。
ふらふらと自室のピアノの前に座り、鍵盤の蓋を開ける。いつものように指慣らしをする。
ド、レ、ミ……ファ。
右手の薬指が、鍵盤の上で凍りついた。まるで自分の指じゃないみたいに、動かない。指先から血の気が引いていくのが分かる。
「…まだ、嫌だよ」
昨日も、今日も。上手く弾けなかった。
いつもみたいに動いてよ。わたしの指。
ポロリとこぼれた音は、不協和音にすらならなかった。これまでも、これからも。こんな風に、わたしの音は世界から消えていくのかな。
嫌になる。嫌になるのに、わたしにはピアノしかない。
そうだ。あの曲で気分を変えよう。楽譜を取り出そうと鞄の中を探る。
「…ない」
まさか。普通科の音楽室…?
◇
『――何、お前そんなこと気にしてんの?女々しいやつだな。自分は自分じゃんか』
『樹は、樹だろ?』
――ジリリリリ
目覚まし時計の音で目が覚める。
さっきのは、夢か。
幸せの夢のはずなのに泣きたくなるのは、もう二度と叶わないからだ。
夢の余韻を引きずったまま、教室のドアを開ける。朝のホームルーム前特有の、ざわめきと浮かれた空気。その中心で一際明るく笑う声が聞こえて、心臓がズキズキと痛んだ。
――あいつだ。
友人達に囲まれて、夢で見たのと寸分違わぬ顔で笑っている。携帯をいじっていた顔がふと上がり、ばちりと目が合った。夢の中の親しさはどこにもなく、ただ気まずい沈黙だけが流れた。先に目を逸らしたのは、俺だったか、あいつだったか。
嫌な汗だ。
思い出せない。なにを話していたんだっけ。なにであんなに笑い合っていたんだっけ。どうすればよかった。俺には何が足りないんだ。
鉛のような重い気分で一日をやり過ごした。
逃げるように教室をあとにし、ヘッドホンで耳を塞ぐ。不思議と呼吸がしやすくなるような気がする放課後。
11月だというのに冬の気配のない街は、立ち止まって動けない自分みたいだった。
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