第25話 一夜の契約


 志保さんが家を空けてから、既に三日が経っていた。あの夜、美保ちゃんを無事に家に送り届けた後、俺は自分のアパートに戻った。美保ちゃんは翌日、大学のオープンキャンパスがあるという理由で、志保さんの実家、つまり祖父母の家に泊まることになっていた。そのおかげで、俺の部屋は今、静寂に包まれている。しかし、その静寂は、安らぎとは程遠い、重苦しい沈黙だった。


 三年前の不渡りの危機を回避するため、俺は全財産を会社に投じた。それは、志保さんと美保ちゃんの生活を守るためであり、俺自身の長すぎる未練に対する、歪んだ献身の証明でもあった。この三年間、俺は技術者としての誇りも、私的な生活もすべてを犠牲にしてきた。だが、その献身が報われるどころか、志保さんにはさらなる罪悪感を、俺自身には満たされない虚しさを残しただけだった。社長という役割から逃避した志保さんの行動が、そのすべてを物語っている。


 夜九時を過ぎた頃、突然、アパートのドアベルが鳴った。こんな時間に訪ねてくる人間は、限られている。インターホン越しに、志保さんの憔悴した顔が映し出された。

「翔くん、私よ。開けてくれない?」

 俺は、一瞬の躊躇もなく鍵を開けた。ドアを開けると、そこには、華やかなドレス姿ではなく、黒いシンプルなワンピース姿の志保さんが立っていた。その顔は、疲労と緊張で青白く、まるで嵐の後の海のように、危うい静けさを湛えている。しかし、その瞳の奥には、以前の泥酔した夜とは違う、固い決意の光が宿っていた。

「どうしたんですか、志保さん。美保ちゃんは?」

「美保は、実家にいるわ。少しだけ、あなたと話がしたくて来たの。上がってもいい?」

 俺は、何も言わずに彼女を部屋に招き入れた。六畳一間の殺風景な部屋が、彼女の存在だけで一瞬にして、あの大学時代の夜の記憶を呼び覚ました。彼女は、部屋の中央に立ち尽くすと、周囲の家具をまるで査定するような冷たい視線で一巡した。


「翔くん、単刀直入に話すわ。あの時の、会社の借金の件よ」

 志保さんは、そう言って、俺の目を真っ直ぐに見つめた。その眼差しは、情熱的な恋人のそれではなく、冷徹な交渉人のそれだった。

「あなたの全財産、あれは私にとって、一生かかっても返しきれない、重すぎる借りになったわ。だから、私なりに、その借りを清算したいと思っているの」

「志保さん、そんなこと……。」

「黙って聞いて。金銭で返すことはできない。でも、私には、あなたへの負い目を清算できる、唯一の方法がある」

 彼女は、そう言うと、ゆっくりとワンピースのジッパーに手をかけた。その仕草は、自らの意思を貫き通すという、強引で自己中心的な性格を如実に示していた。ジッパーが下がる音だけが、部屋の静寂を破る。ワンピースが、彼女の身体から滑り落ち、床に落ちた。その下に隠されていたのは、光沢のある黒いランジェリー。長年の激務で引き締まった、危うくも情熱的な美しさを湛えた彼女の肢体が、月明かりに照らされて浮かび上がる。俺の心臓は、激しく脈打ち始めた。これは、愛の告白ではない。これは、償いという名の契約だ。


「あの夜と同じよ。でも、今回は代用品じゃない。あなたの献身と愛に対する、私からの、契約上の一夜の契り。この夜を過ごせば、借金はチャラ。私からあなたへの、これ以上の要求はしない。そして、私自身も、あなたへの罪悪感から解放される。それが、私の決意よ」

 志保さんの声は、震えていなかった。それは、自らに課した厳しいルールを遵守しようとする、孤独な社長の決断のようだった。俺は、その冷徹な提案に対し、憤りを感じるべきだったのかもしれない。だが、長年、代用品としてしか愛されなかった俺の心は、彼女のその自己中心的な決断の中に、俺への真の愛の証明を見てしまった。彼女は、彼女なりの方法で、俺の愛に応えようとしている。


「……分かりました。その契約、俺が受け入れましょう」

 俺は、そう言って志保さんの細い腕を掴み、ベッドへと誘った。彼女の肌は、緊張からか、ひんやりとしていたが、その瞳は、俺の長年の未練と欲望を真正面から受け止めていた。俺は、彼女のランジェリーを、まるで大切な宝物を扱うかのように、ゆっくりと剥ぎ取っていった。その身体は、出産を経てもなお、学生時代のあの夜と同じ、完璧な曲線を描いている。


 唇が重なり合う。そのキスは、代用品として求められたあの夜の衝動的なものではなく、長年の愛憎と葛藤が清算される、重厚な儀式の始まりだった。彼女の唇の柔らかさ、その中から流れ込む吐息の熱が、俺の身体に深く染み渡っていく。俺は、彼女の肌の滑らかさと、その下に隠された身体の熱を、五感のすべてを使って貪った。


 俺は、志保さんの両足を持ち上げ、彼女の身体の中心へと、ゆっくりと自分の身体を導いていった。志保さんの身体は、俺の挿入を受け入れるように、既に熱く、そして粘膜の湿り気で潤滑されていた。結合の瞬間、志保さんの身体が、わずかに跳ねた。それは、痛みの反応ではなく、むしろ快感と、長年の負い目から解放されることへの、激しい興奮の反応だった。


「んっ……あぁ……しょ、うくん……」

 彼女の白い背中が、俺の腕の中で大きく反る。その身体が、俺の身体の奥深くにある、献身と未練の結晶を、すべて吸収しようとしているように感じた。俺の身体は、彼女の熱い感覚に包まれ、その熱は、俺の全身を支配する。その身体的な熱は、俺の心が長年待ち望んでいた、「あなたは代用品ではない」という、愛の承認を、物理的に突きつける、最も確かな証明だった。俺の献身は、今、報われた。


 行為の進行中、志保さんは目を閉じ、顔を歪ませていた。その表情は、苦痛ではなく、純粋な快感と、長年の葛藤から解放されることによる、深い陶酔がないまぜになったものだった。行為が進むにつれて、彼女の呼吸は荒くなり、汗ばんだ肌は熱を帯び、その熱は、俺の肌へと伝播していく。彼女は、自らの身体の反応を通じて、長年の罪悪感と打算的な愛を清算しようとしていたのだ。


 絶頂が訪れた時、志保さんは、甲高い悲鳴のような声を上げた。それは、学生時代のあの夜と似ていたが、今回は、怒りや衝動の悲鳴ではない。それは、魂の底からの解放と、俺への真の愛を、肉体で確認したことによる、歓喜の絶叫だった。その声が、俺の全身を震わせ、俺の熱もまた、彼女の身体の奥深くに、すべて解放された。


 行為の後、志保さんは俺の胸の中で、大粒の涙を流した。その涙は、悔恨や罪悪感ではなく、長年の重圧から解放された安堵と、俺への愛が本物であったことを、肉体が証明してくれたことへの、感謝の涙だった。

「ありがとう、翔くん。これで、借金は帳消しよ。私、これで、あなたの献身に、ようやく報いることができたわ」

 彼女は、そう言って、疲れたように微笑んだ。それは、社長としての契約が完了したことを確認する、冷徹で、しかしどこか満たされた笑顔だった。

 俺は、彼女の濡れた髪を優しく撫で、そのすべてを黙って受け入れた。俺の献身は、報われた。しかし、この契約は、俺たちの歪んだ愛の連鎖を、次の世代へと繋げる、新たな秘密の始まりでもあった。志保の身体の中に、俺の愛の証が、新しい命として宿る可能性を、俺はまだ知らない。この一夜の契約が、翌朝、あっけなく終わりを告げることも。


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