第10話 先輩の秘密


 会社の業績は、あの激しい嵐が嘘だったかのように、再び力強く上向き始めた。俺が設計した新しい基幹システムが、いくつかの大手クライアントから画期的なソリューションとして評価され、業界内での俺たちの地位を確固たるものにしたのだ。かつての資金繰りの悪夢は遠のき、オフィスには再び活気が戻り、誰もが未来への明るい展望を口にするようになった。その成功の中心にいたのは、言うまでもなく社長である啓介さんだった。彼のカリスマ性は、成功という追い風を受けて、ますます輝きを増しているように見えた。


 その夜、俺は啓介さんと二人、西新宿の超高層ホテルの最上階にあるバーにいた。眼下には、宝石を散りばめたような東京の夜景が無限に広がっている。大規模なプロジェクトの成功を祝して、啓介さんが「二人だけで、最高の酒を飲もう」と誘ってくれたのだ。重厚な革張りのソファに深く身を沈め、琥珀色の液体が満たされたグラスを傾ける。成功の美酒は、確かに甘美だった。しかし、俺の心の片隅には、拭い去ることのできない澱のようなものが、常に沈殿していた。


「翔、お前の力だよ。今回の成功は、間違いなくお前の技術があったからだ。」

 啓介さんは、上機嫌にそう言って俺のグラスに自身のグラスを軽く合わせた。カラン、と氷が涼やかな音を立てる。

「いえ、すべては啓介さんのリーダーシップのおかげです。俺は、ただ言われたものを作っただけで。」

「謙遜するなよ。お前がいなければ、この会社はとっくに潰れていたかもしれない。俺たちは、最高のパートナーだ。」

 最高のパートナー。その言葉は、俺の胸に嬉しさと、同時にチクリとした痛みを走らせた。仕事の上では、確かにそうかもしれない。だが、プライベートでは、俺は永遠に彼に敗北した男なのだ。彼の隣で微笑む志保さんの顔が、脳裏をよぎる。


 酒が進むにつれて、啓介さんの口は滑らかになっていった。彼は、会社の未来について熱っぽく語った後、ふと、話題をがらりと変えた。その瞳には、アルコールによるものだけではない、ギラギラとした光が宿っていた。

「なあ、翔。男ってのは、結局のところ、どれだけ女を抱いたかで価値が決まると思わないか?」

 唐突な言葉に、俺は返す言葉を見失った。啓介さんは、そんな俺の反応を楽しむかのように、薄い笑みを浮かべて続ける。

「仕事で成功して、金を手に入れれば、女なんていくらでも寄ってくる。最近も、取引先の若い子が、やけに熱心でな。まあ、悪い気はしない。男としての、勲章みたいなもんだろ。」

 彼は、まるで戦利品を自慢する将軍のように、得意げに語った。その内容は、あまりにも下品で、彼のパブリックイメージとはかけ離れていた。俺は、胃の奥が冷たくなるのを感じた。この男は、志保さんという、あれほど美しい妻がいながら、外で他の女性と関係を持っていることを、何のてらいもなく自慢しているのだ。

「……志保さんは、ご存じなんですか。」

 俺は、かろうじてそれだけを尋ねた。すると、啓介さんは心底おかしいというように、声を上げて笑った。


「馬鹿だな、お前は。そんなこと、いちいち話すわけないだろう。家庭ってのは、女にとっては聖域なんだ。男が外で何をしてようが、その聖域に金さえ入れていれば、それで平和は保たれる。志保も、そのくらいは分かってるさ。賢い女だからな。」

 その言葉を聞いた瞬間、俺の中で何かがぷつりと切れる音がした。彼の理論は、あまりにも独善的で、女性に対する侮辱に満ちていた。そして、その理論の中に、志保さんが組み込まれていることが、何よりも許せなかった。俺たちの間にあるテーブルが、まるで深い亀裂のように感じられた。

「……俺には、理解できません。」

「だろうな。お前は、真面目すぎるんだよ、翔。だから、女に振り回される。」

 啓介さんは、俺を見下すような目で、そう言い放った。その視線は、俺の劣等感を的確に抉り出す。

「志保と俺の関係は、お前が考えているような、学生の恋愛ごっこの延長じゃない。もっと、大人の、複雑なもんなんだよ。あいつは、俺の妻であることに満足している。俺が、この会社の社長であり続ける限りな。」

 それは、彼の歪んだ性的嗜好と、冷え切った夫婦関係の、何よりもの証明だった。彼にとって、志保さんは愛する妻ではなく、自らの成功を誇示するためのトロフィーの一つに過ぎないのだ。そして、そのトロフィーが時折見せる心の隙間を、俺という存在が埋めていることすら、彼はお見通しなのだろう。その上で、俺の献身を、自らの支配を盤石にするための駒として利用している。俺が志保さんを支えれば支えるほど、彼は安心して外で羽を伸ばすことができるのだから。


 深い焦りと、冷酷なまでの自己肯定。その二つが、この男の本質だった。大学時代、俺が憧れ、そして嫉妬した彼のカリスマ性の正体は、他者を支配することでしか自己を保てない、脆く、歪んだ自尊心だったのだ。

「お前が志保のそばにいてくれることには、感謝してるんだぜ、本当に。あいつの愚痴を聞いてやるだけで、家庭はうまく回る。お前は、最高の潤滑油だよ。」

 彼は、残酷な言葉を、親友へのアドバイスであるかのように、優しい口調で紡いでいく。俺は、ただ黙って、グラスに残った酒を飲み干すことしかできなかった。

 バーを出て、冷たい夜風に当たると、ようやく正常な思考が戻ってきた。眼下に広がる夜景は、先ほどまでとは違い、ひどく空虚で、冷たい光の集合体にしか見えなかった。俺は、今夜、この男の秘密を知ってしまった。それは、彼が多くの女性と関係を持っているという事実などではない。彼が、誰一人として、心から愛することのできない、孤独で哀れな人間であるという、どうしようもない真実だ。そして、そんな男に、俺の愛する女性は、今も支配され続けている。強い憎悪と、どうしようもない無力感が、俺の心を黒く塗りつ潰していった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る