第8話 抑えられた欲望


 静まり返った深夜のオフィスに、志保さんの穏やかな寝息だけが響いていた。俺はソファに横たわる彼女の身体に、自分のジャケットをそっとかけ直した。アルコールのせいか、それとも心の緊張が解けたのか、その寝顔は驚くほど無防備で、あどけない少女のようにも見える。窓の外に広がる無数のビルの灯りが、まるで星屑のように彼女の頬を照らしていた。俺は、その光景から目を離すことができなかった。


 数年前、大学のサークルで初めて会った時のことを思い出す。太陽のような笑顔と、誰に対しても壁を作らない気さくさ。彼女は、俺にとって手の届かない高嶺の花だった。その彼女が今、俺の腕の中で眠っている。いや、正確には、俺が介抱した結果、俺のオフィスで眠っているだけだ。それでも、この状況は俺の心を激しく揺さぶった。「もしも、あなたが私の本当の夫だったなら」。先ほど彼女が吐露した言葉が、脳内で何度も反響する。それは、長年俺を縛り付けてきた「代用品の呪い」を、根底から覆しかねないほどの破壊力を持っていた。


 俺は、彼女の寝顔から視線を外し、自分のデスクに戻って飲みかけのコーヒーを口にした。ぬるくなった液体が、苦々しく喉を滑り落ちていく。冷静にならなければならない。彼女は酔っていた。会社の危機と、夫からのプレッシャーで、心身ともに限界だったのだ。あの言葉は、ただの弱音。感傷的な戯言に過ぎない。俺が、彼女にとって都合のいい存在であることに、何ら変わりはないのだ。そう自分に言い聞かせれば聞かせるほど、心の奥底で、甘い期待が鎌首をもたげるのを感じた。


 ソファの方から、微かに衣擦れの音がした。見ると、志保さんがゆっくりと身じろぎをし、薄く目を開けていた。まだ覚醒しきっていない、夢と現実の狭間を彷徨うような、潤んだ瞳。彼女は、ぼんやりと天井を見つめていたが、やがて俺の存在に気づくと、その視線をゆっくりとこちらに向けた。

「……しょうくん?」

 舌がもつれた、甘えるような声だった。

「はい。ここにいますよ。」

 俺は、静かに立ち上がってソファに近づいた。

「起こしてしまいましたか。」

「ううん……。まだ、いてくれたのね。」

 彼女は、安心したようにふわりと微笑んだ。そして、ジャケットから伸びていた俺のシャツの袖を、おぼつかない手つきで掴んだ。その指先は、驚くほどに熱かった。

「帰らないで。」

 その言葉は、懇願だった。孤独への恐怖に怯える、迷子の子供のような響き。俺は、彼女のその弱さに、抗うことができなかった。

「帰りませんよ。志保さんが眠るまで、ここにいます。」

 俺は、彼女の手を握り返し、安心させるようにその甲を優しく撫でた。すると、彼女は、掴んでいた俺の手を、ゆっくりと、しかし確かな力で引き寄せ始めた。俺の身体が、抗う間もなくソファへと傾いでいく。


 次の瞬間、俺は彼女の腕の中にいた。志保さんが、俺の背中にその華奢な腕を回し、強く抱きしめてきたのだ。密着した身体から、彼女の柔らかな膨らみと、熱い肌の感触が、薄いシャツ越しに生々しく伝わってくる。酒と彼女自身の甘い香りが混じり合った匂いが、俺の鼻腔を支配し、思考を麻痺させていく。

「……寒いから、こうしてて。」

 それは、あまりにもか細い言い訳だった。彼女の身体は、寒さどころか、燃えるように熱かった。彼女は、ただ人肌を求めているのだ。会社の重圧、夫からの支配、そして孤独。そのすべてから逃れるための、一時的な温もりを。俺は、それを痛いほど理解していた。

 しかし、俺の身体は、正直だった。長年抑圧し続けてきた欲望が、この密着をきっかけに、堰を切ったように溢れ出しそうになっていた。下腹部に、熱い血が集中していくのが分かる。彼女を、このままソファに押し倒してしまいたい。大学時代の、あの夜のように。いや、あの時とは違う。今回は、代用品などではない。彼女は、今、確かに俺自身を求めているのだから。その考えが、俺の最後の理性の壁を突き崩そうとしていた。


 俺は、彼女の髪に顔を埋め、その香りを深く吸い込んだ。そして、その唇を求めようと、ゆっくりと顔を上げた。彼女もまた、それに応えるように、濡れた瞳を閉じて、わずかに唇を開いた。もう、後戻りはできない。俺たちの唇が触れ合おうとした、まさにその刹那だった。

 ポケットに入れていた俺の携帯電話が、バイブレーションと共に、淡い光を放った。それは、取引先からの定型的なメール通知だった。しかし、その光によって照らし出された待ち受け画面には、満面の笑みを浮かべた幼い美保ちゃんの写真が映し出されていた。数年前、俺が遊園地に連れて行った時に撮った、お気に入りの一枚だった。


 その屈託のない笑顔を見た瞬間、俺の燃え上がっていた欲望は、まるで冷水を浴びせられたかのように、急速に鎮火していった。そうだ、俺には、この子を守るという誓いがある。俺は、この子の「しょうにいちゃん」なのだ。もし、今ここで俺が志保さんと一線を越えてしまったら、どうなる?この歪んだ家族の、危ういバランスは完全に崩壊するだろう。俺は、美保ちゃんの前で、もう二度と純粋な笑顔を向けることができなくなる。それは、彼女に対する、最も卑劣な裏切り行為だ。

 俺は、名残を惜しむように、しかし確固たる意志を持って、ゆっくりと志保さんの身体から離れた。彼女は、不思議そうな顔で、閉じていた瞳をゆっくりと開けた。

「……どうしたの?」

「……いえ。少し、酔いが回ってしまったようです。」

 俺は、そう言って誤魔化しながら、彼女の身体に再びジャケットをかけ直した。そして、ソファから数歩離れた場所にある、来客用の椅子に深く腰を下ろした。

「俺は、上司と部下という、この距離が心地いいんです。だから、これ以上は……。」

 それは、彼女に対してというよりも、自分自身に言い聞かせるための言葉だった。志保さんは、俺の言葉の真意を悟ったのだろう。何も言わず、ただ寂しそうに微笑むと、再び瞳を閉じた。

 俺は、眠りについた彼女の寝顔と、携帯電話の待ち受け画面に映る美保ちゃんの笑顔を、交互に見つめた。俺が守るべきものは、この二人なのだ。たとえ、この身が焦がれるほどの欲望に苛まれようとも、俺はこの役割を演じきらなければならない。倫理と欲望の狭間で、俺は静かに、しかし固く、新たな決意を固めていた。窓の外では、夜が少しずつ白み始めていた。長く、苦しい献身の歳月の幕開けを告げる、静かな夜明けだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る