第6話 忍び寄る影
美保ちゃんとの微笑ましい約束から数年、俺たちの会社は順風満帆な航海を続けているように見えた。俺が開発したシステムが業界内で高く評価され、それを武器に啓介さんが次々と大型契約を獲得してくる。雑居ビルの一室から始まった俺たちの夢は、今や都心の一等地にオフィスを構えるまでに成長していた。社員も増え、かつて三人だけで囲んでいたオフィスは、多くの若い才能で活気に満ち溢れている。誰もが、この成功が永遠に続くと信じて疑わなかった。俺自身も、その熱狂の渦の中で、かつての痛みや罪悪感を忘れかけていたのかもしれない。
しかし、栄光の影では、見えない亀裂が静かに広がり始めていた。事業の急拡大は、それに伴うリスク管理の甘さを露呈させた。鳴り物入りで始めた新規事業が、市場の予測を見誤り、莫大な損失を生んだのだ。それは、会社の屋台骨を揺るがすほどの、初めての大きな挫折だった。順風満帆だった船が、突如として暗礁に乗り上げたのだ。
会議室の空気は、凍り付いたように冷え切っていた。重役会議で、啓介さんは憔悴しきった顔で、厳しい資金繰りの現状を報告した。その顔には、かつての自信に満ちた輝きはなく、焦燥と猜疑心が色濃く浮かんでいた。
「なぜだ……。なぜ誰も、このリスクに気づかなかったんだ。」
彼の低い声が、静まり返った会議室に響く。それは、誰かを責めるというよりも、自らの判断ミスを呪うような、虚ろな響きを伴っていた。頼りの綱だったメインバンクからの追加融資も、にべもなく断られた。会社のキャッシュフローは、日に日に悪化していく。俺は、CTOとして技術部門を統括しながら、啓介さんと共に資金調達のために頭を下げて回る日々を送っていた。
会社の危機は、啓介さんの精神を確実に蝕んでいった。彼は次第に、オフィスでも些細なことで苛立ち、部下を厳しく叱責するようになった。かつて、そのカリスマ性で多くの人間を惹きつけてきた彼の周りから、少しずつ人が離れていくのが分かった。そして、その歪んだ圧力の矛先は、家庭という最も無防備な場所にいる志保さんへと、静かに、しかし確実に向けられていった。
その変化を俺がはっきりと感じ取ったのは、ある雨の日の夜だった。資金繰りの打ち合わせが長引き、俺は啓介さんと共にタクシーで彼のマンションまで帰宅した。玄関のドアを開けると、リビングから美保ちゃんの明るい笑い声が聞こえてくる。志保さんが、夕食の準備をしながら娘の相手をしているのだろう。その平和な光景に、一瞬だけ心が安らぐ。
「ただいま。」
啓介さんが、重い声でそう告げると、リビングの空気が一変した。志保さんが、「お帰りなさい、あなた」と笑顔で出迎えるが、その笑顔はどこか引きつっているように見えた。
「飯はまだか。こっちは朝から晩まで、会社のために走り回ってるんだ。」
「ごめんなさい。今、すぐに準備するわ。」
それは、明らかな八つ当たりだった。しかし、志保さんは何も言い返さず、ただ黙ってキッチンへと向かう。啓介さんは、ネクタイを乱暴に緩めながらソファに深く沈み込み、大きなため息をついた。
俺は、その重苦しい雰囲気に耐えきれず、「美保ちゃん、宿題は終わったか?」と、努めて明るい声で話しかけた。美保ちゃんは、俺の姿を見つけると、ぱあっと顔を輝かせて駆け寄ってくる。その無邪気さだけが、この家の唯一の救いだった。
夕食の間も、啓介さんはほとんど口を開かなかった。ただ、時折、志保さんのやることなすことに対して、舌打ちをしたり、棘のある言葉を投げかけたりする。
「おい、この味噌汁は味が薄い。経費の計算ばかりで、料理の腕も鈍ったんじゃないか。」
「……ごめんなさい。作り直すわ。」
「もういい。食欲も失せた。」
それは、言葉の暴力だった。直接的ではない、だからこそ陰湿で、相手の心をじわじわと蝕んでいく。志保さんは、俯いたまま、ただ黙ってその言葉を受け止めている。その姿を見ていると、俺の胸は怒りと無力感で張り裂けそうになった。しかし、俺には何もできない。これは、彼らの家庭内の問題だ。俺は、部外者でしかない。
食事が終わると、俺は「そろそろ失礼します」と席を立った。志保さんが、「送っていくわ」と玄関までついてくる。二人きりになると、彼女は堰を切ったように、か細い声で話し始めた。
「ごめんなさい、翔くん。あなたいつも、嫌なものばかり見せてしまって。」
「志保さんのせいじゃありません。啓介さんも、会社のことで疲れているんですよ。」
そう慰めながらも、俺はそれが単なる疲労だけではないことに気づいていた。啓介さんの内にある、元来の支配欲が、会社の危機というストレスによって、醜い形で増幅されているのだ。
「……最近、ずっとこうなの。私が何かをするたびに、否定されて、責められて。まるで、私が会社の経営不振の原因だと言われているみたいで……。」
志保さんの瞳が、恐怖に揺れていた。彼女は、啓介さんの支配に怯え、精神的に追い詰められていた。そして、その唯一の逃げ場所として、俺に依存し始めている。
「翔くんがいる時だけなの。私が、少しだけ息ができるのは。だから、お願い。これからも、美保のそばにいてあげて。そして、……私のそばにも。」
その言葉は、俺の胸に深く突き刺さった。俺は、やはり彼女にとっての代用品、都合のいい避難場所でしかないのかもしれない。それでも、彼女が俺を必要としてくれている。その事実が、俺の存在意義のすべてだった。
「もちろんです。俺は、ずっとそばにいますから。」
俺は、彼女の震える肩を抱きしめたい衝動を、必死に抑え込んだ。エレベーターに乗り込み、階下へと下っていく。ガラス張りの窓から見えるきらびやかな夜景の中で、川村家の灯りだけが、まるで助けを求めるように、頼りなく瞬いているように見えた。忍び寄る影は、俺が守ると誓ったはずの聖域を、確実に侵食し始めていた。
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