最後の恋を夜空へ

月詠兎

第一章 もしもこの世が終わるなら

第1話 夫に抱かれて他の男の夢を見る

 ――2055年 夏


 私の身体は、夫・七海洋一ななみ よういちの欲に委ねられていた。

 ベッドのきしむ音が、やけに耳につく。

 頭上のパネルライトは自動調光モードのままで、室温は常に26度に保たれている。


 私の上におおいかぶさる洋一の息遣いは荒く、不快な熱を帯びていた。

 喉の奥からもれる、けもののようなうなり声が、鼓膜にからみつく。

 55歳のかさついた洋一の手が、私の肌を雑にう。

 その手に、彼の温もりを重ねる。触れた事も、見た事も、会った事もない――夜空よぞら……。


 私の肌は、常夜灯に照らされて黄白色に熱を持つ。

 脇腹を生ぬるい息が通り過ぎて、左足が持ち上げられた。

 洋一の欲に押し広げられ、私の奥は否応なく彼を迎え入れる。痛みを飲み込むたび、心がひとつずつ冷えていく。

 私の右足がないことなど、彼には関係なかった。

 洋一にとって、私はただ、従順なおもちゃであればよかったのだ。


 古びた義実家の寝室は、長年ため込んだ生活臭に満ちている。

 旧型のAI家電機器のセンサーは誤作動を起こし、度々「異常なし」と呟いては停止する。

 代わり映えしない窓の外には、街灯に照らされた電線と、上空を流れる低空輸送機の灯がゆらめいて見えた。


「詩織、動けよ。腰、もっと浮かせろよ」

 舌打ちしながら、思い通りにならない私の体に向かって、暴言を吐く。

「なんだよ、前はもう少しマシだったろ? 片足でも腰ぐらい動かせんだろ。……チッ、やっぱ普通の女と結婚すりゃよかったわ」

 地を這うような低い声は、何度も何度も私の心を抉る。

 加齢と煙草まじりの息を、フル稼働している空調がかき消した。


「んっ、んっ……。ああ、気持ちいい……」

 洋一の肉欲が膣壁を擦る度、痛みで苦い汗がにじむ。

 ジリジリとカッターナイフの刃先で、切り裂かれるような痛み。

 それを緩和するための粘液があふれ出す。

「気持ちいいか? 詩織、気持ちいいんだろ? こんなに濡れて……ああ、きもち……い……」


 柔らかい場所を守るためにあふれだした生ぬるい粘液は、シーツに染みを作る。

 それでも、私の心はここにはない。


 窓の外。濃紺の夜空が広がっている。

 雲の切れ間に、小さな星が瞬き、にじんでいく。

 ――ねぇ夜空。あなたも、今、同じ空を見ている?

 幸せに満ちた家庭の真ん中で、頬を緩める夜空の顔に、ぼんやりと霞がかかる。


 夜空と出会ったのはちょうど半年前。

 春とは名ばかりの冷たい風が吹きすさぶ、2月半ばの深夜。


 2055年のこの国では、地震や噴火の警報が日常になっていた。

 政府の「気象AIネットワーク」も機能不全を起こし、SNS上では“地球磁場の崩壊”がトレンドに上がっていた。

 そんなある夜――日本列島を引き裂くような轟音とともに、全域が激しく揺れた。


 各地で、震度5を超える地震が連続して発生し、太平洋沿岸には巨大な津波が押し寄せた。

 街は崩れ、火の手が上がり、ドローン警備車両や救護ロボのサイレンが鳴り響いていた。


 あの、震災の夜。

 私は、生まれて初めて死を覚悟した。

 

 倒壊した家屋の下で身動き一つ取れず、冷たい瓦礫がれきに阻まれ、暗闇の中でただ、恐怖に震えていた。

 あるはずのない右足は、幻肢痛げんしつうでちぎれるように熱く痛む。

 喉を通り過ぎる空気は、ほこりと血の匂いで濁り、瓦礫の隙間から吹き込む風は容赦なく薄着の体を突き刺した。

 災害用のリュックは、洋一が持ち出し、私の手元にあったのはいつも使っていたスマホが一台だけ。


 このところ頻発していた地震。

 《ついに世界は滅びる》というタグが、トレンドのトップを埋めていた。

 そんな折、災害掲示板アプリを思い出したのだ。

 むさぼるようにアクセスして、脳内は真っ白なまま書き込んだSOSに、“夜空”というアカウントから返信があったのだ。

 一字一句、忘れもしない。

 優しくて、力強くて、ユーモアあふれる物言いに、どれだけ救われただろうか。


 さくら:助けてください。

    瓦礫に閉じ込められています。

    助けて  


 SNS用の秘密のアカウント名で書き込みをしたのだ。  


 夜空:大丈夫ですか? 

   落ち着いて  


 さくら:はい  


 夜空:スマホの充電は?  


 さくら:20%  


 夜空:あ、俺は3%しかない  


 さくら:え?  


 夜空:あー、いや、     

   書き込みなくなったら充電切れであって     

   決して見捨てたわけではないので     

   あ、そんな事はどうでもいいか。     

   場所はわかりますか?  


 連投されるメッセージ。無機質な文字が、わずかに体温を帯びた気がした。  


 さくら:場所わからいです      

    何も見えない  


 夜空:そっか    

   それはまずいな  

   さくら:え?  


 夜空:目が見えてはいる?  


 さくら:はい、見えてます。

    スマホの文字は見えます。  


 夜空:それはよかった     

   今こうして返事できてるってことは     

   まだ生きてる証拠です  


 さくら:はい?  


 夜空:それってすごいことだと思うんです  


 さくら:息がしにくいです  


 夜空:それはまずいな     

   うーん、どうしよう     

   とりあえず、深呼吸してみましょう     

   鼻から吸って、口から吐いて     

   目つぶって、桜餅の匂いを想像してください     

   できれば、葉っぱの部分     

   あれ、意外といい香りしますよね  


 思わず笑いがもれて、返信する言葉をさがしていると――  


 夜空:あ、すみません     

   お腹すいてたら逆効果だったかも     

   僕も今、非常食のカロリーメイト食べたら

   口の中が砂漠みたいになってて     

   ぜんぜん水が足りない……     

   でも、僕たち、今こうして生き延びてるわけですから。     

   大丈夫。きっと助かりますよ  


 さくら:どうして、そんな事が言えるんですか?  


 夜空:えーと、根拠は     

   うーんと、無いです! でも     

   あなたのSOSが、ちゃんと届いて     

   俺が今ここで返事してるってことは     

   奇跡の第一歩じゃないですか?  


 洋一の手が、私の腰を掴む。  荒々しい力が、骨の奥まで痛みを呼び起こす。

「うっ……」  

 痛みに耐えきれず、苦痛の声がもれた。  

 私は目を閉じ、夜空を想う。  

 夜空の手。  

 きっと少し不器用で、優しくて、まるで星をすくうような、大きな手。


「ああ、イク! 栞、イクぞ、ああ、あああ、ああああ……」  


 膣口を精一杯締め付けて、パイプカットしている洋一の精液を胎内で受け止めた。  快楽も、愛もない。  

 欲のはけ口でしかない営みから、やっと解放されたその時だった。  

 キンキンキンキン……  スマホが悲鳴のような音を上げた。  

《緊急地震速報 強い揺れに警戒してください》

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