2話 君の名は


2016年8月──北海道札幌市南区。


芸術の森から支笏湖へ向かう山あいに、

古い廃石切場を利用した“キャンピングトレーラー村”がある。

小屋というより、廃坑の縁に寄り添うように並んだ移動式住居群。

朝は野鳥、夜は鹿が鳴く、奇妙な無国籍地帯だ。


昼過ぎ、その一つのトレーラーから男が出てきた。


身長は190センチ近い。

白いTシャツにジーンズ。

髪は坊主刈り──だが老人ではない。二十代後半の若者である。


肩幅は異様に広く、脚筋はジーンズ越しに輪郭が浮く。

歩くたびに音がない。

まるで肉食獣のハンターのような重心。

Tシャツの袖から覗く腕には、火傷、裂傷、古い打撲痕。

この男が過去に“何か”を生き抜いたことが一目で分かる。


男──ルイはランドクルーザー70に軽やかに乗り込み、

ラジオのダイヤルを回す。リオ五輪の中継が流れた。


フェンシング、アーチェリー、柔道。

金メダルラッシュに、局アナの声が弾む。


トレーラー村を出たルイは北上し、芸術の森を抜け、

住宅街の外れにある雨宮石材店の広い資材置場へ車を停めた。


ユニック車の横で、社長の雨宮がコーラを飲んでいた。


「来たか、ルイ。まもなく出発するぞ」


ルイは無言でうなずき、運転席に乗り込む。


あのトレーラー村は、雨宮石材店が所有する廃石切場の一部を

キャンプ場として開放し、一部を従業員寮として転用したものだ。

ルイが保護司に伴われ、ここへ来たのは2011年の夏。

もう五年が経つ。


そのとき──ルイは記憶を失っていた。


名前すら分からない。

ただ、心の奥底に浮かぶ断片的な音。


ルイ、マツ、マオ。


その響きだけを頼りに、彼は“松尾ルイ”と名乗るようになった。


雨宮は元・自衛隊レンジャーで、今は家業の石材店を継いでいる。

同時に、市から委託され、網走刑務所出所者の雇用と住居管理を担っていた。

ルイは刑務所帰りではないが、“保護対象者”として扱われていた。



墓石の据え付け作業を終え、夕方にヤードへ戻ると、

ルイは黙ってTシャツを脱ぎ、洗濯機に放り込んだ。


背中には、胸よりもさらに多くの古傷が走る。

しかし何より目を奪うのは、**筋肉の“質”**だった。


ジムで膨らませた筋肉とは違う。

岩を担ぎ、斜面を登り、重心を自在に操る“労働の身体”。

剛性と柔軟が共存する、野性味。

不意にこの背中を見れば、誰でも腰を抜かすだろう。


「ご苦労。練習は七時からだ」


雨宮の声に、ルイは淡々とうなずき、汗を拭った。



仕事を終えると、ルイは再びトレーラーへ戻った。


室内には木製ベッド、ポット、ラジオ、

中古のノートパソコンが一台あるだけ。

テレビは見ない。食事もほとんど外食だ。


着替え、ベッドに横たわり、

断熱材が吹き付けられた天井を見つめる。


数日前──地下格闘技のリングで締め落とした相手の

歪んだ表情が蘇る。


ふっと、口角が上がる。


七時からは雨宮の道場で稽古。

眠るには、まだ十分だ。



雨宮家に伝わる古流武術──覇極流(はきょくりゅう)。


名前だけ聞けばふざけているようだが、

れっきとした一子相伝の実戦武術だ。


骨の締め方、股関節の抜き方、仙骨の入れ方。

“身体を一つの塊にして殴る”剛体術が核となる。


そして奇妙なことに、雨宮が昔から好きだった某バトル漫画のキャラが

使う流派と名前が偶然まったく同じだった。


「まあ、こっちは本物だ。気にするな」


雨宮はそう笑い、正式に道場名として掲げている。


道場は資材置場の片隅。

コンクリートの床で殴り合い、

昼は足場の悪い石切場で走り込みをする。


弟子は六人。全員が石材店の従業員。

三年以上働き、素質を示した者だけが招かれる。


六人目は──記憶喪失のルイだった。


雨宮には確信がある。


こいつは柔道を“ガチ”でやっていた。

全国クラスで。


投げの入り方、崩しの瞬間、体重移動。

ブランクはあるが、二段どころではない。


そこに石材店の重労働が加わる。


石は水の2.8倍。

30〜40キロの石板を不安定な足場で扱い、

40キロのセメント袋を担いで階段を上る。


それらがルイの身体を、常識外の領域へ押し上げていった。



夜九時。稽古後に屋外シャワーを浴び、

弟子たちは行きつけの中華料理店へ向かった。


ルイは餃子と味噌ラーメンを好む。


店内の有線放送では、

シャーリー・バッシー《ゴールドフィンガー》

のテーマが流れていた。


ブラスの重低音が店内を震わせ、

その上から、店のテレビのアナウンサーが声をかぶせる。


──フェンシング金メダリスト、アラクラン選手のインタビューです。


画面に“アラクラン”の姿が映った瞬間。


ルイの頭蓋の奥で、

何かが、パキリと割れた。


視界がにじみ、

こめかみに鋭く爆ぜるような痛み。


「おい、大丈夫か?」


雨宮が肩に手を置く。


ルイはしばらく呆然としていたが──

次第に、表情が変わり始めた。


ゆっくりと浮かぶ、

邪悪な笑み。


思い出したのだ。


五年半前。

東北の、あの日。


俺は……海岸にいた。

そして──あの男も、そこにいた。


胸の奥で、言葉が形を成す。


「俺の名は……金本。

金本 光一。」


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