第14章 パイカル登場
雨上がりの八月。
都心の空気は、濡れたアスファルトの熱でまだ蒸していた。
震災補償がようやく片づき、両親は南平台の中古マンションに落ち着いた。
三階建ての最上階、140平米の角部屋。風呂もトイレも二つ。
改装費の三千万は――俺が出した。
あの日、海沿いで回収した“迷惑料”の、ごく一部だ。
窓の外には、夢の島で嗅いだ潮とは違う、
湿った緑と午後の陽光が差し込んでいた。
だがその穏やかさの奥で、俺の中の“蠍”はまだ微かにうずいていた。
⸻
お台場。民放テレビ局前の広場。
雨粒の名残が、ライトに濡れて光っている。
「被災地を軽んじるな!」
「報道は誰のためだ!」
四月の国際スケート大会。
震災の影響で東京開催が中止になり、代替地はロシアになった。
冒頭で大統領が東北犠牲者に黙祷を捧げたが――
その映像はすべてカットされ、
代わりに韓国選手のプロモーション映像が放送された。
その“編集”が、今日のデモの火種だった。
不思議なもんだ。
日本が豊かだからこそ、彼らメディアは食えるのに、
自分の足元を削り続ける。
――俺は、親父が海保を辞めるきっかけになった“あの事件”を思い出していた。
プラカードの波、湿った熱、潮風。
杏子はフェンシング部の仲間と合流し、
俺は少し離れた場所から群衆の“流れ”を読んでいた。
その中に――見覚えのある輪郭があった。
白いトートバッグに、ミッション大学のロゴ。
肩にかかる髪。柔らかな仕草。瑠衣だった。
目が合う。
あの穏やかな笑み。
そして、隣に立つ男を見た瞬間、胸の奥がわずかに軋んだ。
夏だというのに、ベージュの麻スーツを軽やかに着こなした長身。
グラデーションボブの髪、雪のような肌。
瞳は、冷えたワインのような光を宿していた。
男の指先で、アバルトのキーが光った。
駐車エリアのガンメタの500C。
銀灰のボディに、赤い蠍のエンブレムが輝く。
どこか、レオンのゲイリー・オールドマンを思わせる――
ニヒルで、芝居がかった佇まい。
「彼、真白 乾児(ましろ・けんじ)。東工大の生命理工。みんな“パイカル”って呼んでるの。」
瑠衣が言うより早く、背後から杏子が来て、静かに続けた。
「都の強化合宿で一緒だったわ。久しぶりね、真白くん。」
パイカルは軽く顎を傾けた。
「偶然……いや、必然かな。」
芝居がかった声音。だが、妙に滑らかだった。
彼と杏子の間に流れる空気は、
俺の言葉を挟む余地を与えないほど自然だった。
気づけば、拳に軽く力が入っていた。
「初めまして――萬尾くん、だろう?」
「……俺の名前を?」
「インテル国際学生科学フェア。最優秀賞の日本人は多くない。」
記憶が反射する。
八万ドルの賞金。辞退したフル奨学金。
あの頃の俺は、“名声”よりも“実験の燃料”を選んだ。
俺は肩をすくめる。
「生憎、俺はバウンティ・ハンターでね。名声よりも、コカ・コーラ一年分の方がイケてる。」
パイカルは目尻だけで笑った。
「芸術より人生、か。嫌いじゃない。」
沈黙。
瑠衣の笑顔がわずかに固い。
俺は杏子とパイカルの過去を、杏子は俺と瑠衣の過去を――互いに察した。
パイカルがポケットに手を入れ、乾いた声で言う。
「裏切りは、女のアクセサリーみたいなもんだ。気にしてたら、女とは付き合えない。」
嫌いじゃない台詞回しだ。だが、その瞳の奥は凍るように冷たかった。
瑠衣がそっと彼に身を寄せる。杏子は黙って見ていた。
やがて群衆がほどけ、熱が遠のく。
パイカルはアバルトの運転席に収まると、ドアを半ば閉め――
人差し指と中指をV字にして、眉先でキザに二本指の敬礼。
窓越しに、目だけで笑う。
「また会うさ――多分な」
排気音が水面をかすめ、都市の雑音に溶けた。
銀灰の蠍が、濡れた路面に細い光跡を描いて去っていく。
⸻
杏子が小さく息を吐いた。
瞳の奥に、少し遠い景色を置いたまま。
「女ってね――」
言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「同時に、二人の人を愛してしまうことがあるの。」
その声には、言い訳でも告白でもない。
ただ“事実”のような静けさがあった。
俺は何も言わなかった。
湿った風の中、空を見上げる。
ネオンの粒が、蠍座の残光みたいに滲んでいた。
そして――解ってもいた。
瑠衣が相変わらず、破滅的なベクトルを持つ男に惹かれる理由も。
救いようがないと知りながら、
それでも惹かれてしまう“熱”という名の構造。
彼女のそれは、本能でも恋でもなく、
生まれつきの“設計”なのだ。
――俺と同じように。
「……彼、覚えておいたほうがいいわ。」
「もう覚えたさ。」
俺は遠くの駐車エリアを振り返る。
銀灰の車体に、小さな赤い蠍。
まるで、もうひとりの自分の“別解(ベツカイ)”みたいに。
⸻
雨上がりの八月。
都心の空気は、濡れたアスファルトの熱でまだ蒸していた。
——あの日、世界が静かに動き始めたことを。
俺はまだ知らなかった。
ニヤリと笑い、
俺は杏子を――夢の島へいざなう。
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