第9話 孫悟空と三蔵の出会い

 三蔵法師という名を与えられた時、まだ七歳の幼い月人ユエレンは、絶望という言葉さえ知らなかった。


「天竺にゆき、教典を持ち帰れ。これは国の命であり、名誉なことである」


 天竺までの旅は、過酷を極める。しかし、天子の命を無視する訳にもいかず、捨て子に押し付けることにしたのだった。


 僧侶の冷たい言葉に、三蔵は深々と頭を下げた。


「承知いたしました」


 しかし、心の中では震えていた。天竺がどれほど遠い場所なのか、七歳の子供には理解できなかったが、大人たちの表情から、二度と帰ってこれない死出の旅だということは分かった。


 ろくな荷物も持たされず、わずかな食料と粗末な衣服だけで寺を追い出された三蔵。門の外に立った瞬間、初めて一人ぼっちの現実が襲いかかった。


「僕は...どこへ行けば...」


 小さな声でつぶやいても、答えてくれる人はいない。


 最初の三日間は、村人の善意で何とか食べ物にありついた。しかし、小さな僧侶一人では相手にされず、次第に門前払いに合うことが多くなった。


 四日目、三蔵は一日何も口にすることができなかった。空腹で胃が痛み、めまいがしても、乞食のように食べ物を求めることはできなかった。僧侶として、みっともない姿を見せてはいけない。そう思い込んでいた。


 夜は野宿が続いた。薄い衣一枚では寒さが骨にしみ、怖い夢を見ては何度も目を覚ました。闇の中で動く影に怯え、動物の鳴き声に震えながら、膝を抱えて朝を待った。


「僕はちゃんとよい子になります...だから...」


 誰もいない闇に向かって呟く言葉は、風に消えていった。


 一週間が過ぎた頃、三蔵は高熱に倒れた。道端で意識を失いかけていたところを、通りかかった商人に助けられた。


「坊主、大丈夫か?」


 商人の優しい声に、三蔵は涙が溢れそうになった。しかし、必死に堪えて答えた。


「ありがとうございます。大丈夫です。ご迷惑をおかけして申し訳ございません」


「何も食べてないんじゃないか?」


 商人が差し出したパンを前に、三蔵の胃は激しく鳴った。しかし、三蔵は首を振った。


「結構です。僧侶は質素であるべきですから」


 商人は困ったような顔をしたが、強引にパンを三蔵の手に押し付けた。


「坊主、無理するな。死んだら元も子もないぞ」


 一人になってから、三蔵はパンを抱えて泣いた。


 数日後、五行山という山にたどりついた時、三蔵は不思議な声を聞いた。


「おい!そこの坊主!」


 声の主を探すと、巨大な岩山の中の隙間から、身動きが取れずにいる男が見えた。野性的な風貌で、頭には金の輪を付けている。明らかに、普通の人間ではない。妖怪の類である。


「助けてくれ!俺はもう五百年もここに閉じ込められているんだ!そこの札の言葉を唱えればいいから!」


 三蔵は困惑していた。あきらかにこの男からは危険な気配が漂っている。しかし、僧侶として困っている者を見捨てることはできない。


「はい、今助けます」


 南無阿弥陀仏、と唱えると、岩が崩れ落ち、男は自由の身となった。


 男は復讐を誓っていた。五百年間の屈辱。憤怒が心を支配し、手始めに、封印を説くであろう僧を殺してやろうと目論んでいた。


 だが、いざ三蔵を前にすると、男は困惑した。


 てっきり屈強な男が来るかと思っていたら、あまりにも小さく、幼い。まるでかつての猿の仲間の子供のようだった。山で世話をした小猿たちの、無垢で純粋な瞳を思い出す。


「...お前、名前は?」


「三蔵と申します」


「お前みたいなガキが、こんなところで何をしているんだ?」


「僕は、天竺へお経を取りに行くところです」


「他にも誰か共はいるのか?」


「いえ、僕ひとりです」


 男は三蔵の瞳を見つめた。それは恐怖と不安に満ちていた。

 嘘をついているようには見えないが、こんな子供が天竺まで行ける訳がない。しかも、かなり衰弱している。なにか事情があるようだ。


 男はため息をついた。


「俺は孫悟空だ。お前が俺を解放したんだから、安全な町まで送ってやるよ。」


 三蔵は一瞬、縋るような表情をしてから、すぐに笑顔になって言った。


「いえ、僕は大丈夫です。ご迷惑はかけられません。」


 孫悟空は三蔵の反応が理解できなかった。俺が怖いのだろうか?しかし、そのうち考えるのが面倒になった。


「俺は借りは返す主義なんだ。町までは連れて行く、でも、あとは知らねえ。さっさと行くぞ!」


「…ありがとうございます。すみません、よろしくお願いします」


 かくして、孫悟空は三蔵の同行者となった。

 数日間、行動を共にするうち、孫悟空は三蔵の振る舞いが気になった。


「お前、疲れてるんじゃないか?」


 三蔵は小さな足で必死についてこようとしていた。息が上がり、額に汗を浮かべているのに、弱音を吐こうとしない。


「いえ、大丈夫です。僕はまだまだ歩けます」


 明らかに疲れているのに、三蔵は笑顔を作って見せる。


 道中で、遊牧民の一家を見かけた。三蔵は、父親が娘を肩車している光景をじっと見つめている。


「何を見ている?」


「いえ、何でもありません。すみません、ぼんやりしてしまって」


 三蔵は張り付いたような笑顔で取り繕う。しかし、その瞳には深い寂しさが宿っていた。


 食事をする時も、三蔵の気遣いは続いた。


「悟空さん、お先にどうぞ」


「一緒に食えばいいだろう」


「いえ、僕は後で結構です。悟空さんがお腹いっぱいになってから...」


「…なんでそんなことを気にするんだ?」


「僧侶は謙虚であるべきですから。それに、悟空さんにご迷惑をおかけしているのは僕ですから」


 三蔵は何を聞いても「大丈夫です」「すみません」「ありがとうございます」ばかり。この子供は、なぜか自分の気持ちを押し殺して生きている。


 行商人から食料を買うことにした。


「甘いものでも食うか」


 孫悟空はちょっとしたきまぐれで、美味しそうな菓子を選んで三蔵に渡した。


「え...僕に、ですか?」


 三蔵は驚きと感激で目を輝かせた。


「ありがとうございます!でも、僕にはもったいないです」


「いいから食えよ」


「悟空さんの分は...」


「俺は要らねえ。お前が食え」


 安物の菓子に不自然なほど感謝する三蔵を見ながら、孫悟空は首を傾げた。


 ある夜、三蔵が高熱を出して倒れた。看病をしているうちに、孫悟空は三蔵の正体に気づく。


「...女だったのか」


 着物をずらして汗を拭こうとした時、女性特有の体つきに気づいたのだ。


 目を覚ました三蔵は、自分の秘密が露見したことに青ざめた。


「あ…す、すみません、申し訳ありません…」


ぶつぶつと呟きながら震えている。


「おい、どうした?まだ気分が悪いのか?」


 孫悟空が話しかけると、三蔵は床に頭を擦り付けるように突っ伏した。


「どうかお捨てにならないでください!僕は男として生きていけます!お役に立ちます!」


 必死に懇願する三蔵を見て、孫悟空は衝撃とともに理解した。

 

 この子供の心は、捨てられる恐怖で満ちている。

 

 こんな小さな体と心で、どうしようもないほどの孤独に怯えている。


 その時、ほとんど反射的に孫悟空は三蔵を抱きしめた。


「俺は絶対にお前を捨てない」


「何があっても、絶対にだ」


 自分でも不思議だった。

 そんなことをするつもりはなかった。

 なぜか、「この小さな存在を守りたい」という、強烈な衝動が孫悟空を突き動かした。


「僕は迷惑をかけています。歩くのも遅いし、何もできないし...」


「お前は十分頑張っている」


 孫悟空の言葉に、三蔵の目に涙が浮かんだ。


「本当ですか?僕、ちゃんとよい子にできていますか?」


「ああ。お前は立派だ」


 三蔵は、堰を切ったように泣き続けた。孫悟空は、黙って頭をなでてやった。


 その日から、孫悟空の三蔵への接し方が変わった。三蔵は我慢しているというより、そもそも自分の欲求に気づくことができないらしい。孫悟空は注意深く見守り、三蔵の変わりに気持ちを汲んでやろうとした。


 足元がふらついてきたな…


「おい、休憩するぞ」


「僕はまだ大丈夫です」


「俺が疲れたんだ」


 三蔵と背中合わせに座って日差しを遮ってやった。


 花を見つめているな…


「ほら」


 孫悟空は一輪摘んで三蔵の髪に挿してやった。


 寂しそうだな…


「見ろ、夕日が綺麗だぞ」 


「うわあ、本当ですね!」


 笑いあいながら美しい風景を一緒に眺めた。


 孫悟空の生活は三蔵中心になっていた。ともに過ごす時間が増えるほど、互いが特別な存在になってゆく。

 それでも三蔵は、なかなか欲求を表に出さなかった。


「腹が減らないか?」 


「僕は平気です、悟空さんだけ召し上がって…」


 その途端、三蔵の腹の音が鳴りひびいた。気まずい雰囲気。三蔵は顔を青くする


「す、すみません。本当に大丈夫ですから…」


ーー捨てないで


 孫悟空は三蔵の心の声を聞いたような気がした。


「なあ、三蔵」 


 三蔵は俯いて震えている。


「お前が悲しんでいると俺も悲しくなるんだ。」


「え…?」


 三蔵は驚いた。自分の悲しみが他の人に悲しみを与えるなど、考えたことがなかった。恐る恐る顔を上げると、孫悟空が心配そうに三蔵を見ている。


「食ってくれるか?」


「は、はい」


 しばらく旅を続けると、孫悟空は五百年前の子分である牛魔王に出会った。


「兄貴!...随分変わったな」


 牛魔王は驚愕していた。かつての破天荒な斉天大聖が、まるで父親のように小さな僧侶の世話を焼いている。


「昔の兄貴は、もっと...荒々しくて、傲慢で、強大だった。今の兄貴は...」


「弱くなったか?」


 孫悟空が問い返す。


「いや...優しくなった」


 劫火に燃える涼景山を鎮めるため、牛魔王の妻・羅刹女が持つ芭蕉扇を借りることになった。


「その子は大切な人なんだね」


 羅刹女は三蔵を見て微笑んだ。


「小さな女の子を育てるのは大変でしょう?何か困ったことがあったら相談なさい」


 羅刹女は気が強いが、子供には優しい女性だった。三蔵への接し方について、孫悟空にいくつかの助言をくれた。


 数日日、三蔵が初めて孫悟空にわがままを言った。


「悟空さん...」


「なんだ?」


「...僕、肩車をしてほしいです」


 恥ずかしそうに、遠慮がちに言う三蔵。以前見た父と娘の姿に憧れたのだった。


「...いいぞ、ほら、乗れ」


 孫悟空は小さな三蔵を肩に乗せた。三蔵の変化を好ましく思い、今までにない幸福感を得ていた。


 肩車をして歩きながら、孫悟空は牛魔王に指摘された自分の変化について考えた。


 三蔵の笑顔を見たかったから、三蔵が悲しむことを避け、三蔵が喜ぶことを行うようになった。すると、全くの他人を思いやったり、善行のまねごとをするようにさえなっていた。


 ある町で、一人の老婆が重い荷物を運ぼうとして倒れかけているのを見かけた。


 昔の孫悟空なら、そんな弱い存在など目もくれなかっただろう。


「おばあさん、大丈夫ですか?」


 三蔵が老婆に駆け寄る前に、孫悟空が先に立ち上がっていた。


「俺が運んでやる」


「ありがとうございます...」


 老婆の感謝の言葉に、孫悟空は不思議な充実感を覚えた。力を他者のために使うことの喜びを、初めて知った。


 別の村では、飢饉で苦しむ農民たちを見かけた。


「悟空さん、あの人たちは...」


 孫悟空は黙って立ち上がった。


「お前はここで待ってろ」


 孫悟空は筋斗雲に乗って空高く舞い上がり、雲を操って雨を降らせた。畑に恵みの雨が注ぐと、農民たちは歓声を上げた。


「これで作物が育つだろう」


 孫悟空の言葉に、三蔵は嬉しそうに微笑んだ。


 また別の日には、山賊に襲われそうになった商人の一団を助けた。

 山賊たちを追い払った後、商人たちが涙を流して感謝した。


「三蔵、見たか?」


 孫悟空が得意げに振り返ると、三蔵が尊敬の眼差しで自分を見つめていた。


「悟空さんは本当に素晴らしい方です」


 三蔵の純粋な賞賛に、孫悟空の胸は温かくなった。

 ただ、三蔵の喜ぶ顔が見たかった。


 ふと、釈迦如来の予言が思い起こされた。


「最も弱き者に支配される」


 ーーこのことだったのか?


 してやられた、という感はあった。しかし、明らかに今の自分の方が充実していることに気づく。


 昔の自分が持っていた空虚感は、とうに消えていた。


 夜空の下、肩車をしながら星を見上げる二人。小さな三蔵が孫悟空の肩の上で嬉しそうに笑っている。


「悟空さん」


「なんだ?」


「僕...悟空さんが大好きです」


 三蔵の素直な言葉に、孫悟空の胸は温かくなった。


 五百年間の封印は、この出会いのためだったのかもしれない。昔の自分では、決してこの幸せを理解することはできなかっただろう。


 この小さな存在を守ることが、孫悟空の新しい生きる意味になっていた。

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