第17話 緊張
新しいレンズがもたらした光は、部屋の隅々までやわらかに満ちていた。
これまで“見えなかった”場所が、こんなにもあったのか──ソレルは息を呑む。
図面を手に、砂時計の歯車を覗き込みながらデステルと肩を寄せ合う。
気づけば、二人の距離は指一本ほどしかなかった。
「……ここ、歯車の溝が擦れてますね」
「うん、じゃあ一度──そこの工具、取ってもらっていい?」
軽い会話。けれどその穏やかさが、不意に途切れた。
ぐい、と腕を引かれたのだ。
「──わっ!」
体勢を崩しかけたソレルを支えたのは、ダランだった。
無言で手を取ったまま、鋭い灰色の瞳がソレルを射抜く。
「……そろそろ昼食の時間だ。戻るぞ。」
短く、それだけ。
けれど声の奥に、かすかな棘が混じっている気がした。
「お、お腹はまだ……」
言いかけた言葉は、握られた手の力に呑み込まれる。
そのまま廊下へ引き出される。
沈黙が痛いほどに響く。
そして、ぽつりと落とされた言葉。
「……お前は形式上とはいえ、俺の“妻”だ。他の男と、あまり近づかないでくれ。」
「……えっ?」
頬が一気に熱を帯びる。
意味を理解した途端、心臓が暴れ出した。
(……まさか、嫉妬? いや、そんなわけ……)
頭では否定しても、握られた手は離れない。
むしろ歩くたびに、指が深く絡む。
廊下の光は、まだ古いままの淡さだった。
けれど今のソレルには、それがむしろありがたかった。
あの明るいレンズの下では、この紅潮を隠せないだろう。
(……この間の夜のことを思い出す……)
肌のぬくもり。息の重なり。
もし、あのとき新しい光があったら──自分の表情がすべて見えてしまっていただろう。
(……あぁ、恥ずかしい……)
俯いた頬を見やるように、ダランが一瞬だけ横目を向けた。
けれど何も言わず、手だけは離さなかった。
◇◇
部屋に戻ると、先ほどの明るさが恋しくなる。
淡い光では、もう満足できない──そんな感覚が胸をかすめた。
昼食の席。
静かにスープを口にしていたソレルに、ダランが問いかける。
「──あのレンズ、名前はあるのか?」
スプーンがカチャリと鳴る。
「え? いえ、特には。記録も残っていませんでした。
ただのレンズ、と呼ばれていたのだと思います」
「なら──“ソレルレンズ”にしてはどうだ?」
「……えっ!?」
顔を上げる。
灰色の瞳が真っすぐに見つめ返してきた。
「お前の手で光を取り戻したんだ。
これからあの光は、何世代にも語り継がれる。名を残すべきだろう」
真面目な口調なのに、どこか優しさが滲む。
「そ、そんな……僕なんて……」
スプーンでスープをかき回しながら視線を逸らす。
「“ソレルのレンズ”……なんだか、自分で自分を褒めてるみたいで……」
「光を取り戻した者の名として、相応しいと思う」
そう言ったあと、ダランは少しだけ視線を逸らした。
食器の金属音が、間にひとつ落ちる。
「……本当なら、“お前の名”として、堂々と呼びたいんだが。」
「……え?」
「お前は“カミュラ”という名でここにいる。だから、“ソレル“にどう言う意味があるのか。それを明かせないのは──正直、少し、悔しい。」
その声音は静かで、けれどどこか滲むように熱を帯びていた。
「……ダラン……」
胸の奥で、何かがほどけるような感覚。
でも、同時に苦しかった。
“ソレル”と言われたのが嬉しいのに、
“カミュラ”という名前が間に立ってしまう。
言葉にできない想いが、
ふたりの間の“光”のように、届きそうで届かない。
頬がまた熱くなる。
けれど、心の奥では──少しだけ嬉しかった。
(……僕の名前が、この国に残るよりも。
ダランの隣に、少しでも長くいられる方が、何倍も嬉しいのに)
胸の奥で、言葉にならない想いが静かに灯る。
まるで、あのレンズの光のように。
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