第2話 歴史の闇

 結婚式が終わると、あの黒い塊は挨拶ひとつ残さず、黒い神輿に担がれて国を出ていった。

 本来なら、花嫁も共に相手の国へ赴くのが習わしだ。だが──土竜もぐらの国では違うらしい。翌朝、妻自身が単身で相手国を訪れるのだという。


(……一緒に連れて行きもしないなんて。とことんコケにされてる)


 苛立ちが胸を掻きむしった。だが同時に、今の僕には都合がよかった。

 一夜待てばカミュラの容態がよくなるかもしれない。わずかでも時間が稼げるなら、それは僕にとって、この国にとっての救いだ。


 苦々しい思いを押し隠しながら、僕は大広間を抜け出し、自分の部屋へ向かった。いや──今はカミュラが寝ている、“僕の部屋”だ。

 弟のソレルは体調不良で部屋に籠っている、そう周囲には伝えてある。真実を知るのは侍女と数人の側近だけ。


 扉の前には、幼い頃から仕える衛兵ルナールの姿があった。彼もまた真実を知る数少ない人間のひとり。

「姉上の様子は?」

「まだ高熱。目を覚まされません」


 淡々とした声に似合わず、その横顔には深い影が落ちていた。

 寝台に横たわるカミュラの頬は赤く染まり、胸は苦しげに上下している。額に触れれば熱が焼けるように伝わり、仮病ではないとすぐに分かった。


(……けれど、“嫁ぎたくない”と願った果ての熱だとしたら?)


 脳裏に黒い塊の姿がよみがえる。あんなものを前にすれば、誰だって恐ろしくなる。

 祝福ではなく同情に満ちた婚礼。立ち会わずに済んだことは、むしろ幸運だったのかもしれない。


 だが、そんな相手にカミュラを嫁がせていいのか?

 参列者は一人もなく、新郎は顔を隠したまま、一言も発しなかった。

 蝶王も、獅子王も、鷲王も、姉たちを宝物のように讃えた。だが黒衣の影からは、無関心しか感じられなかった。


(……こんな結婚、破談になったって文句は言うまい。むしろ僕が向こうに破談を言わせればいい)


 どうせ奴らの狙いは国交だけ。妻など不要なのだろう。いや、最初から不要だったのかもしれない。


「明日、僕が地のドルナーグへ向かう」

「……ソレル殿、それは……!」


 ルナールの声はわずかに震えていた。だが僕は聞こえぬふりをした。

「王には知らせるな。姉の容態が良くなったら、必ず知らせてくれ」

「……承知」


 深く腰を折る彼に頷き返し、僕は書斎へ向かった。

 重い革張りの背表紙を引き抜くと、黄ばんだ羊皮紙から古い墨の匂いが立ちのぼる。王宮に伝わる歴史書。そこには、大陸を治めてきた五つの国の記録が記されていた。


 **知のナランサス**──僕の生まれた国。

 星を測り、暦を刻み、叡智を集める国。幼い頃から計測器具や観測盤を組み立てるのは王族の嗜みだった。僕も父に叩き込まれ、小さな羅針盤を作ったこともある。


 陽のソリュスタ。舞と歌が絶えぬ緑と水の都。ユネム姉の手紙には楽園のような日々が綴られていた。

 獅のレオナード。砂と黄金に輝く豊饒の地。ヒニア姉は珍獣の話で目を輝かせた。

 翼のファルネスト。空に浮かぶ島に築かれた国。リーリエ姉はそこでしか得られぬ宝飾を誇らしげに見せてくれた。


 そして──。

 本来なら最後に記されるはずの**地のドルナーグ**の名は、無惨に削り取られていた。頁には鋭い刃で抉られた痕跡が残り、今なお痛々しい。


 僕はそっと指先を触れた。かつてここには、土竜もぐらの王の名が刻まれていた。記録からすら追放された、“消された王”。


(……カミュラの夫となるのは、その末裔)


 心臓が重く沈む。


 四百年前、ナランサスとドルナーグの国境にそびえるラハル山が噴火した。

 赤黒い雲が空を覆い、火砕流が谷を駆け下り、国土の半分が失われた。

 祖母は言っていた──「土竜の王は知っていながら黙っていた」と。地下の脈動を感じ取れる彼らは、沈黙を選んだのだ。


 知らせを受けられなかったナランサスは直撃を受け、都は崩れ落ち、民は飢えと病に倒れた。

 他の国々は援助の手を差し伸べた。だがドルナーグだけは決して手を貸さなかった。

 その裏切りは憎悪の溝を生み、両国は断絶。四世紀もの間、二度と交わらなかった。


 ──だが、父は和解を選んだ。

 四人の姉が生まれたとき、異国との縁組で国を強めようとしたのだ。地下にはナランサスにない鉄が眠っている。幾度も使者を送り、ついにカミュラの縁談が結ばれた。

 それは国の命運を繋ぐ、大切な契りだった。


 僕は昨夜の婚礼を思い返す。姉たちの華やぎとは正反対。僕の隣に立っていたのは、光を拒む黒い布の塊。顔も輪郭もなく、神父の言葉に合わせてわずかに上下する、それだけが生命の証だった。


(……カミュラ姉は体調が戻ったとして、本当にあれに嫁げるのか)


 本を閉じる。だが最後の頁に刻まれた抉り痕は、瞼の裏に焼き付いたままだ。

 窓辺に立ち、まだ見ぬ夫の姿を思い浮かべる。黒い布の奥にあるのは──異形か、人か。


 僕は静かに息を吐き、唇を結んだ。

「……それでも」


 声にした瞬間、不安で押し潰されそうだった胸の奥に、一筋の熱が芽生える。

「それでも、ドルナーグは……この国の未来だ」

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