06 魔物


 深夜。室内には窓から星の光だけが降り注ぎ、夜の帳が下りている。静かな時間が訪れていた。昨日が新月だったからか、星の光は一層輝きを増している。ルカはゆっくりとベッドから起き上がった。そして、そっと布団を捲ると、自分の右手を目の前に掲げる。

 

 腕輪は鈍い光を放ちながら、手首にぴったりと嵌っていた。白銀のそれは少し冷たいが、ルカの手によく馴染んだ。その美しさは暗闇でも目を引くほどだ。


(何とかして外してもらいたいけど、無理だろうな)


 ルカは腕輪にそっと触れながら溜め息をついた。この腕輪を外さない限り、クライヴには逆らえないし魔術も使えない。今後の自分の生活を考えると絶望的な気持ちになった。


 それでも今日、レオと一緒に流星群を見に行くのは楽しみだった。それを思い出にすれば、この先、辛いことがあっても頑張れる気がした。



「レオ、遅いな……」


 ルカは、なかなか戻ってこないレオのことが心配でそわそわしていた。探しものを取ってきて、夜の見回りを終わらせたら、すぐに戻ってくると言っていたのに。もう消灯時間はとっくに過ぎている。


「何かあったのかな?」


 ルカは不安な気持ちを押し殺しながら呟いた。そのまま慎重に立ち上がると、音を立てないように窓を開けた。冷たい風が頬を撫ぜる。

 窓の外には満天の星空が広がっていた。


「……レオ」


 ルカは、ぽつりと彼の名を呼んだ。返事はない。当たり前のことなのに少しだけ寂しい気持ちになった。

 その時、ふわりと生暖かい風が吹いた。風に誘われるように顔を上げると、視界に巨大な黒い影が飛び込んでくる。その影を見た瞬間、心臓が大きく脈打ったのが分かった。



「……っ!」


 反射的に身構えるが、時は既に遅かったようだ。黒い影は窓をすり抜けるようにして室内に侵入してきたかと思うと、そのままルカの身体をベッドに押し倒してしまう。


「なっ!?」


 慌てて起き上がろうとするが、黒い影に組み敷かれて動けない。星の明かりに照らされて見えたその影の正体を見て、ルカは思わず絶句した。


 


 それは体長3mはあろうかという巨大な黒い狼だった。鋭い牙を剥き出しにして唸る姿は恐ろしいことこの上ない。血のような赤い瞳は爛々と輝きを放っている。


(魔物?……どうして)


 ルカは混乱した頭で必死に考えた。今までこの孤児院に魔物が侵入したことなど一度もなかった。どうして自分のところに魔物が襲いかかってくるのか、全く見当がつかない。


「グルルルル……」

 狼の姿をした魔物は低く唸ると、硬直しているルカの首筋をべろりと舐めた。生暖かい舌の感触に背筋が震えると同時に恐怖を覚える。


「ひっ」

 思わず悲鳴を上げると、狼はルカの首筋を何度も舐め上げた後、鋭い牙で甘噛みしてきた。


「あぅ……!」

 皮膚に突き刺さるような痛みが走り、ルカは小さく声を上げた。目に涙が溜まる。すると、狼が噛む力を緩めてくれた気がした。それでもルカの拘束を解くつもりはないらしい。ルカは恐怖と混乱で頭がいっぱいだった。


(……このままじゃ食べられちゃう)




 闇属性の魔術は精神に働きかけるものもある。うまく術をかけられれば、魔物でも『洗脳』や『支配』して自分の意のままに操ることができるのだが、『精神支配』ともなると上級魔術に分類されるし禁術扱いされている。ルカは前世で一通り習得はしているが、目の前の魔獣は興奮し過ぎているのか、視線が定まらず呼吸が荒い。何より腕輪のせいで上手く魔力操作が出来ない。対話も無理そうだし、ルカはこの魔獣を『洗脳』することを早々に諦めた。



 ルカは抵抗しようと試みるが、身体が思うように動かなかった。そんなルカにお構いなく、狼はその鋭い牙でルカの服を噛みちぎると、そのまま引き裂いてしまった。


「あっ……やだ……」


 素肌に冷たい空気が直接触れる感覚に身震いする。狼は露わになったルカの素肌を丹念に舐め始めた。先ほど傷付けられた首筋や鎖骨、胸元にも舌が這い回る。ざらついた舌が肌の上を滑る感覚に鳥肌が立つ。

 まるで愛撫されているような舌使いにルカは嫌悪感を抱くが、それより恐怖の方が勝っていた。



 もし、今、ここにレオが戻って来たら?

 レオは間違いなく、ルカを助けるためにこの魔物に立ち向かってくれるだろう。




 そんなことを、許してはいけない。





 ルカは必死に身を捩り、渾身の力を振り絞って、自分の身体を押さえつけていた狼の前足を払い除けた。そして、転がるようにしてベッドから抜け出すと、窓枠に足をかけた。ルカの部屋は二階だが、そのまま躊躇なく外へ向かって窓を乗り越える。

 腕輪のせいで魔術が使えず、空もまともに飛べない。裸足のまま無理矢理地面に着地した瞬間、鋭い痛みが足の裏に走ったが、気にせず走り出した。恐らく何かを踏んで切り傷が出来てしまったのだろうが、それを確認する余裕はない。


 今はただ、この場所からできるだけ遠くへ逃げるしかなかった。ルカは無我夢中で走った。後ろの方から魔物の咆哮が聞こえる度に身体が震える。けれど、逆に魔物が自分を追ってくる気配にほっとしていた。



 これで、レオが魔物に遭遇して、殺される心配はなくなった。




 ルカは人気のない森の方向へと走り続けた。裸足の足の裏には無数の傷ができ、足の裏だけではなく脇腹や太ももにも擦り傷ができてしまい、痛みで涙が滲んだが、それでも足を止めなかった。

 

 多分このままでは、ルカは魔物に食べられてしまうだろう。それならせめて、他の人を巻き込まないようにしなければ。ルカは必死で森の中を突き進んだ。背後から獣特有の足音が追いかけてくるのを感じる度に、心臓が跳ねる。


「はぁ……はあっ」


 息が切れて苦しい。それでも足を止めるわけにはいかなかった。ルカは無我夢中で走り続けるが、やがて体力の限界が来て、木の根に足を取られて転んでしまった。地面に倒れ込むと全身に痛みが走る。すぐに起き上がろうと試みたのだが、それより先に背後から覆い被さってきた影に息を呑んだ。


「あ……」


 恐る恐る振り返るとそこには巨大な狼の姿があった。赤い瞳が真っ直ぐにルカを見据えている。


「く、来るな」


 ルカは後ずさりしようとしたが、背中が大木の幹にぶつかってしまい、それ以上逃げられそうになかった。狼はルカの足の裏の無数の傷に舌を這わすと、そのまま足の甲まで舐め上げた。その生暖かい感触にぞわりと肌が粟立つ。


「ひっ……」


 ルカは恐怖で硬直したまま動けなかった。狼は血で汚れたルカの足を丁寧に舌で清めていく。足首からふくらはぎへゆっくりと移動していく生暖かい感触に背筋が震えた。やがて足の付け根へと到達すると、狼はルカの股座に顔を埋めた。


「い、や、やめて……」


 敏感な部分に狼の鼻面が当たり、ルカは恐怖で身体を震わせた。狼の鼻息が気持ち悪い。

 このまま食べられてしまうのだろうか。


 狼はルカににじり寄ってくると、大きな口を開けた。鋭い牙が光る。

 ルカの目から涙が溢れた。






 嫌だ。

 やっぱり死にたくない。



 ……そう強く願った瞬間だった。




 突然、目の前にいた狼の頭が吹き飛んだ。赤黒い血液が飛び散り、ルカの顔に生暖かい液体が降りかかる。何が起こったのか分からなかった。ただ呆然とするしかなかった。


「……何だ、子どもか」

「え……」


 唐突に話しかけられ、ルカは間抜けな声を漏らした。顔を上げると、漆黒のローブを羽織った見知らぬ青年の姿が見えた。


「魔物を引き寄せてしまったか。まあ、こんだけ美味そうな魔力垂れ流してたら当然だな」


 青年は魔物の死体を眺めながら独り言のように呟いた。どうやら、彼が魔術で魔物を殺してルカを助けてくれたらしい。彼は小さく溜め息をつくと、ルカの方を振り向いた。


 濡れ羽色の黒髪に、憂いを帯びた美しい顔立ちをしている。そして何より特徴的なのは、その瞳だ。血のように真っ赤な色をした双眸がルカをじっと見つめていた。その瞳を見て、なんだか吸い寄せられるような感覚に襲われた。神秘的な雰囲気の青年だ。

 珍しいのは腰に提げている剣もだった。通常、魔術師は術を唱えるために杖を使うものだが、この青年は何故か古びた剣を携えている。



「お前、変な魔導具を付けられてるな。ちょっと見せてみろ」

「はあ……」


 青年がルカに近寄ってきたと思ったら、いきなり手首を掴まれた。そのまま腕輪に刻まれている複雑な紋様を見て、青年は顔を顰める。


「自分の意思で魔力を使えないよう遮断してある。かなり一方的で悪意のある術式だなこれ。王宮の賢者のアホどもの仕業か」


 青年が不快そうに呟いたかと思うと、腕輪が白銀の光を放った。一瞬にして腕輪に刻まれていた紋様が消え去る。そして次の瞬間には腕輪は跡形もなく砕け散ってしまった。


「え……?」

 ルカは何が起こったのか分からずに、ただ呆然としていた。青年はそんなルカの様子を見て、小さく笑う。


「単なる粗悪品だ。術式は念のため解いておいた。しかしお前、魔力制御下手すぎるな。ダダ漏れだ。このままだと、さっきみたいな魔物がうようよ寄ってくるぞ。それも、厄介な奴らがな」

「は、はあ」


 ルカが混乱したまま頷くと、青年はルカの頭から足先まで順に視線を巡らせた。そして、その鋭い瞳を細める。


「帰る場所はあるのか?」

 突然投げかけられた問いに、ルカは息を呑んだ。何も答えずにいると、青年は続けた。


「帰る所がないなら、うちに来るか?ちょうどペットが欲しいと思っ……じゃなくて、召使いを雇おうと思ってたところだったしな」


 今ペットが欲しいって言いかけた?とルカは思ったが、とりあえず聞かなかったことにした。

 青年はニコニコしながら、ルカに手を差し伸べた。ルカは彼の提案に一瞬だけ戦慄する。恐らく彼は普通の人間じゃないからだ。


 でも、彼の笑顔は無邪気で、とても綺麗で、何故か懐かしくて、心が惹かれるような気さえした。だから、ルカはついその手を摑んでしまった。  

 どうせ戻っても、クライヴに実験動物にされるだけだ。それならまだ、ペットとして飼われた方がマシかもしれない。



 青年は微笑みながらルカの手を握ると、そのままルカの腰に手を回し、抱き上げた。ルカはびっくりして、彼の首に腕を回してしがみつく。



「可愛いな。お前、名前は?」


 彼はルカを見つめながら尋ねてきた。ルカは少し躊躇ったが、結局正直に答えることにした。もしかしたら食べられてしまうかもしれないと思ったが、不思議と怖くはなかった。


「……ルカ」


 ルカが小さな声で答えると、青年は懐かしそうに微笑んだ。


「そうか、それが現世のお前の名か。……ルカ、今日から俺が御主人様だ。よろしくな」

「ごしゅじんさま?」



「そうだ。ルカは俺が拾ったから俺のものだ。とりあえず、家に帰ったら身体を綺麗にしてやる」


 そう言って彼は妖艶に微笑むと、魔物の血にまみれたルカの頬に躊躇なく口づけを落とした。

 彼の声は弾んでいて、嬉しそうだ。新しい玩具を手に入れて喜んでいる子どものように。


 どうやら世話をして貰えるのは本当のようだ。それなら、食べられてしまうことはないかな?とルカはぼんやり思った。


「どうした?」

「あ、いえ。僕、食べられて死ぬのかと思ってたので」


 ルカは素直に思っていたことを口に出した。彼は一瞬面食らったような表情をしたが、すぐに声を上げて笑った。


「お前はまだ子どもだから、今は食わない。でも、大人になって美味そうだったら、食べるかも」


 彼は笑いながらそう言って、ルカの頭を優しく撫で回した。ルカはなんだか擽ったくて、思わず首を竦めた。


「まあ、そんなに怯えるな。飼うからにはちゃんと可愛がってやるから安心しろ」


 彼はそう言うとルカを抱き上げたまま、ふわりと空中に浮かび上がった。

「わ」

 ルカは驚いて声を上げたが、彼は構わず空を駆けて行く。ルカは浮遊感が怖くて思わず彼に抱きついた。


 夜空には星がきらきらと煌めいていて、いくつもの光の粒が流れ落ちていった。それはとても幻想的で、美しい光景だった。空からこんな綺麗な景色が見れるなんて、夢にも思わなかった。


 まさか、こんな状況になるとは思わなかったが、不思議と不安感はなかった。



 

 ただ、この光景を大好きな幼馴染と一緒に見たかった。けれど、この願い事が叶うことはもうないだろう。

 この先、レオが自分の側にいないのが寂しくて、悲しくて、ルカは少しだけ泣きそうになった。



 

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